第12話 気まぐれは震えとともに
灰谷は三限目終了後帰宅した。本当は四限目もあったのだけど、うつらうつらとしていたので家に帰らせたのである。目をしょぼしょぼさせた灰谷を見て、つい代返を約束してしまったけど、たまにはいいだろう。
しかし、「今日はオリエンテーリングだから」という教授の一言で出席確認もなく授業も30分程度で終わってしまった。一応とっていたメモとレジュメを写真にとって、夢の国に旅立っているであろう灰谷に送っておく。こういうことは面倒臭がらずに早め早めにやっておくのが吉なのだ。
学部棟から出て、さて帰宅しようかというところでベンチで眠りこけている女の子を見かけた。春先であるものの、まだまだ冬の寒さが居残りを続けている今日の気候。その子はお尻が隠れるくらいのダウンコートで完全防寒、フードをかぶりジップも口元までしっかり上げているものの、外のベンチでこんなことをしていたら体調を崩してしまうに違いない。
知らない顔ならどうでもいいのだが、昨日、今朝の出来事を踏まえて、無視してしまうのは僕のなけなしの良心が苛責し――「燃え痕」が、少しだけ疼いた。
ため息をついて、よだれでフードの口元をべとべとにしている少女――美井路に近づき、声を掛けた。
「風邪を引くぞ」
「ぐがー……」
美井路の名誉のために言っておくと、フードのお陰で馬鹿みたいに口を開いているであろう様子は、まあ一応見えない。もっとも、口から溢れる豪快な音のお陰で彼女の名誉とか女子力とかは物凄い勢いですり減っているのだが。
流石にちょっとかわいそうになっていたので、美井路の肩を掴んで軽く揺すってやる。
「ほら、起きなって」
「ういー……」
半覚醒状態なのだろう。まだ目をつむったままで、彼女はジップを喉のあたりまでおろしてから、右腕の裾で豪快に口元をこする。
……もはや何も言うまい。
「……」
ふと、視線を感じて後ろを振り返ると、学部棟から出てくる女性と目があった。彼女は僕に気がついたようで、軽く会釈をして去っていった。僕も反射的に会釈をしていたお陰で、彼女に僕の表情がこわばっているのを気取られてはいないだろう。
その女性は
昨年から同じクラスの女子なのだが、面識がある程度で、仲が良いわけではない。昨年までは明るい茶髪だったように思うが、いま確認した彼女は派手な金髪になっていた。灰谷のシンプルなそれとは違い、おしゃれで可愛らしい服装をしており、本人の性格もその見た目にフィットするように極めて明るい。
一言で言えば、クラスの中心人物にいるような、友達が多くて社交的。そういうタイプだ。
極めて乏しいクラスの交流の中で、彼女とは二度か三度か、少なくとも片手で数えられる程度しか会話をしたことはない。
彼女自身は何も悪くないし、嫌いになるほどの交流をそもそも持っていないのだが、僕から望んで彼女とコミュニケーションをとることは決してないだろう。
そう、僕は彼女に対してはっきりとした苦手意識を持っているのだ。
なぜなら――
「ありぇー……葵しゃん?何しているんですかぁ?」
枝川の背中に視線を向けていたところで、美井路から声がかかる。おかげで僕の無益な思考は中断された。
そちらを向けば、彼女はベンチに寝っ転がった姿勢だが、薄っすらと目を開けている。ぼんやりとしてるものの、一応目を覚ましたようだ。
「……こんなところで寝ていたら風邪を引くぞ」
自分のどうしようもない嫌な気持ちをごまかすように、口元だけ笑みの形を作って美井路に返事をする。
「あーあーあー、確かにそうですねえ。すいませんお手数をおかけしましたー」
しかし、起きたばかりの彼女は僕の酷薄な表情に気が付かなかったようで。ぽやぽやと返事をしながら、彼女はベンチの上に正座して、深々と頭を下げる。
「座りますー?」
彼女はずり下がったサングラスから見え隠れする半開きの目のまま、自分の隣をぽんぽんと叩きながらそんな提案をしてくる。
「いや、やめておこう」
ヨダレで汚れてそうだから、という言葉がでかかるがなんとか喉元で食い止める。
「それより、こんなところで何しているんだ?」
「五限のぉ、授業まで時間があったので、適当に時間を潰して……そんでベンチで休んでいたらいつの間にか、っていう感じです」
えへへと頭をかきながら、恥ずかしそうにはにかむ。
なんとも、気の抜けた女子だ。良くも悪くも純朴な印象を受ける。
しかし、気がつけば少しだけこわばっていた表情も心もいつの間にか和らいでいた。
「そこの自販機で飲み物でも飲まない? 記念におごるよ」
だから、あまりにもらしくない言葉が自分の口から漏れてしまう。記念に、というのは灰谷がよく使用する言葉なので、いつの間にかその口癖が感染ってしまったようだ。
「え、いいんですか!? ちなみになんの記念です?」
「うーん……なんだろうね?」
灰谷の、『君が友達になってあげればいいじゃん」なんて言葉が、残響のように頭にあったことは彼女に言う必要はない。
「なんでしょうね?でも、お言葉に甘えてぜひ奢られてやりまくります!ひゃっほい!」
彼女は枕代わりにしていたキャンパス地のリュックを背負って、嬉しそうに自販機に走っていく。
僕は彼女の背中を追いながら、スマートフォンで時刻を確認する。彼女が五限の授業に行くまでは、時間つぶしに付き合ってあげようなんてつい思ってしまっていた。
「なにがいい?」
「えっと……あったか~いココアで!」
「……わかった」
そのチョイスは公園での出来事を思い出してしまうのだが、僕が気にしすぎなだけだろうか。僕が自販機から取り出し手渡すと、美井路は嬉しそうに笑っている。でも、僕はあえてココアを避けてホットカフェオレにしてしまう。
「ありが……あ」
ああ、気にしているとかそういう以前に忘れていただけか。
あのときと同じような状況であることにようやく思い至ったのか、分かりやすく美井路は困った顔になる。
「……なんかごめん」
「いや、葵さんが、その、悪いわけでは……」
一転して気まずい雰囲気になるわけで、それを乗り越えられるほど僕のコミュニケーション能力が高くないわけで。
自販機の横のベンチ(美井路がヨダレを零していたところではない。重要)で、二人で連れ立って並ぶのだが、そこに落ちてくるのはどうしようもない沈黙。
一体、僕は何をしているんだ?
ベンチで寝ていたからといって気にかける必要なんてなかったんだ。無視してさっさと帰宅してしまえば――と、自己反省に入りかけたところで、美井路が大きな声を出す。
「あ、あの!」
「おう!? ど、どうかした?」
慌てて、正面の虚空に向けていた視線を彼女の方に向けると、両手を奇妙に構えた彼女がいた。空中の中にある野球ボールを削り出そうとしているような……うん、なにをしたいのか、なにを伝えたいのかよくわからなかった。しかし、何かしら、気合を入れているということだけはなんとなく伝わった。
「こ、今晩、一緒に食事にでもいき、ませんか!?」
面食らった、というのが一番わかり易い僕の心情だろう。
これに対しての回答なんて決まっている。ちょっとベンチに座っただけで会話が続かず、気まずくなっているんだ。短く見積もっても一時間は顔を突き合わせるような食事の場面なんて……。
『やあやあ、このパスタはなんて美味しいんだ。君もそう思うだろう美井路くん』
『ええ、そうですね葵さん。このアルデンテがクリーミーなソースでべネですわよ』
うん、多分、お互い頑張ってんもこんな不自然で疲れる感じになるに違いない。だから、ちょっと用事がなんて常套句を口にしようとして――美井路の、サングラス越しの彼女の目が、少しだけ震えているのが分かった。分かってしまった。
ああ、こんなものに気が付かなければよかったのに。
だから――つい気まぐれを起こしてしまうのだ。
「別に、いいよ」
気がつけば、僕は燃え痕を覗き込んでいるのだ。
その形は――。
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