第10話 夜を越えて
間違いなく昨日の出来事のせいで、上手く眠れず、ようやくウトウトしていた明け方には悪夢を見た。ここ数年間でもトップクラスに最低な出来事だ。
おかげで日が昇るかどうかの時間帯から洗面所を掃除する羽目になった。
まあ、不幸中の幸いというやつで、とりあえず今朝はアイツをみることもなかった。
しかし、自宅に留まってまた見かけてしまっても堪らない。だから、二限目からの授業にもかかわらず、七時過ぎには家を出て、喫茶店、図書館、購買と眠気でぼんやりする頭を抑えながらフラフラ時間を潰していた。
幸いにして、前の授業がなかったようで、二限の教室に早めに居座ることができた。特に何かをするでもなく、虚空を見つめて時間を潰していると、灰谷がトコトコとやってきた。
「おはよう」
いつもどおり、僕は教室に姿を現した灰谷に声を掛ける。
「おっすー、席ありがと」
「うん。昨日は良く眠れた?」
「ばっちりぐっすり。奉助は?」
「もちろんぐっすり」
僕は灰谷が珍しくしっかり化粧なんてしているのに気がついている。灰谷も僕の顔が土気色なことに気がついている。
それでも、今日は、いや今日も何も聞かない、聞くまでもない。彼女がよく眠れたというのなら、そう信じるのが良いだろうし、多分彼女も同じことを思っている。
それでこの世はすべてこともなし、平常運転。ここで、この物語は幕を下ろす。
――しかし、教授はまだ姿を見せていないものの、あと5分ほどで始業といったところで闖入者が現れた。
扉を壊したのか、そう疑うほどの轟音を教室中に行き渡らせつつ、その女性は姿を見せる。よほど走り回っていたのか肩を大きく上下させ、長くて重たい髪の毛はくせ毛なのかセットに失敗しているだけなのか見分けがつかない。じろりと、サングラスをかけたその両目と僕の視線はがっちりとぶつかる。
美井路シオン、である。
彼女はそのまま、大股で僕と灰谷が占拠する窓際中盤壁端の席にやって来る。スニーカーの底がリノリウムの床をこする小さな音がしっかり耳に届くほど、室内は静寂に包まれていた。皆、突然髪を振り乱しながら現れた女性の一挙手一投足に目を奪われているのだ。
「おはようございます」
その表情を読めないのは、顔の半分を覆う大きなサングラスのせいだけではないだろう。どことなく迫力のある雰囲気を漂わせており、僕も灰谷も返事すらできず、ただ喉を鳴らす。
しかし、僕らから返事がなかったことを気にもしていないのか、美井路は軽く髪の毛を整えてから――勢いよくサングラスを外した。
そこに現れたるは、彼女の感情を知ってか知らずか、粛々と光を蓄える縞瑪瑙。安っぽい蛍光灯のもとであっても、その輝きはいささかであっても損なわれない。昨日は涙で湿気っていたそこには、瑪瑙にも負けないほどの迸る意思の輝きがあり――
「昨日は! 申し訳ありませんでした!!」
静寂を破り風を切る音が聞こえた。美井路が首がもげるんじゃないかと不安になるくらいの速度で上半身を折り曲げたからである。
『……』
僕と灰谷はその力強い謝罪に押されて、まだ発言ができていない。事情を知っている僕らも、事情を知らない教室の皆様も口を半開きで間抜け面を晒してしまっている。しかし、地面を見つめる美井路はその様子に気がついた様子は当然なく、さらに大きな声で続ける。
「お二人と初めてお話したにもかかわらず、ずけずけずけずけずけずけと土足で荒らすような最低なことをしてしまいました! 本当に最悪で、弁解のしよーもございません!!」
ここで美井路はすぱっと顔をあげる。どんな表情をしているのかと思いきや、本当に『申し訳ない!』ということを全面に出した難しい顔。が、その表情は180度方向転換をし、今度は憤怒に染め上げる。
「でも……ちょっとだけ、ちょーっとだけ、めちゃくちゃむかつきました!」
ちょっとだけなのか、めちゃくちゃなのかよく分からないけれど、とにかく表情の切り替わりがもの凄い。
「入学してバラ色の大学生活が始まるのかと思いきや、なんですかこれは! 素敵なカラーの人たちがいたと思って、頑張りはしゃいで声をかけたらボッコボコにされて! まじふざけんなですよ! じーざすふぁっきんくらっしゃーですよ! 反省して、反省! 海よりも高く、山よりも深く!」
じーざすは凄い破壊者で、海を埋めて山を作り、山を崩して海を作っているのかもしれない。
いずれにせよ、その瞳にはちょっとだけ涙が浮かんでいて――それが怒りのあまりなのか、それ以外の意味合いがあるのかまでは分からない。
回りの注目を集めていることなんてなんのその、ばんばんと思い切り机を叩いて大声で叫ぶ美井路。そんな彼女の感情に呼応するかのように瞳は美しく、より一層複雑な色をたたえ、ぎらぎらと蠱惑的でさえある。
「反省するのは私でした! すいません調子に乗りました!……とにかくっ、私は、お二人と仲良くなって今度こそ前に進みます! 目のことだって諦めません! どうだ、まいったか! でも、昨日は私が一番最悪でした! ほんっとーに、ごめんなさいでした!!」
しっちゃかめっちゃか。そう表現せざるを得ない。
この5分に満たないような短いの時間に、真摯に謝罪し怒り泣きまた謝罪。ジェットコースターだってもう少し大人しいと思う。
「ぶふっ」
美井路のその様子に耐えきれなくなったのか、灰谷は思い切り吹き出す。
「ははは……。なんというか、美井路はいいね」
その表情は、ニヤつきもなく人を心配する健気さもなく、透き通るような『羨望』が込められている。彼女がどうしてそんな表情をしているのかは分からないけれど――その言葉には狂おしいほどに同意できる。
羨ましい。
愚直なまでのひたむきさが、僕には持ち得ないもので。
間違ったことを真摯に謝罪できるほどの素直さが、灰谷には持ち得ないもので。
「本当ですか、ありがとうございます! 友達になってください!!」
僕らの様子に気がつくはずももない美井路は、頭を下げたまま灰谷の方にむかってばばっと右手を差し出す。
「要検討で」
しかし、灰谷はそれを掴まず、少しだけ口元を緩ませたニヤケ顔を見せている。そのバリュエーションは知っている。彼女の本心からの、わずかばかりの笑みだ。
「つれない、ぶれない、そこがいい!」
テンションが暴走しっぱなしの美井路はきゃっほーと何故か喜びながら身体を起こし、両手を天に向かって突き上げる。うん、こっちの表現はよくわからん。
「ところで……」
水を差すようで本当に申し訳ないけれど、どうしても確認しないといけないことがあった。
「なんですかっ! 葵さんも私の友達になってくれそうですかっ!!」
わくわく。そんな擬音が聞こえてきそうなほどの良い笑顔で、美井路は期待のこもった眼差しを僕に向ける。その期待を壊してしまうのは偲びないが……。
「いや、その……あちらをご覧ください」
僕が手を向ける方に美井路は顔を向けると、笑顔のままびしりと美井路は硬直する。そして、ゆっくりと自分の腕時計に目を落として、再度おそるおそる僕の手の先――教壇の方に目を向ける。
「あー……そこの君たち。そろそろ授業を初めて良いかね?」
いつの間にか教壇に立っていた初老の教授がにこにこしながら僕らに声を掛けてくる。
美井路は「あう、ぃ、うぇる……」ともごもごと口を動かしてから、人類の限界まで顔を真赤にしつつ教室の外へと走って行ってしまった。
「いやあ、青春ですねえ」
ほっほっほと教授は笑うと、スムーズに授業を始める。なかなか強靭な精神をしていらっしゃる。
なんというか……
「ああいう感じなら本当に友達になれそう、そう思わないかい?」
心からの苦笑が口元にこぼれるのを感じながら、僕は灰谷にささやく。
「うーん、思っちゃうかもなあ」
昨晩の険しい表情はどこへやら、灰谷はにやりと実に楽しげに笑うのだった。
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