第7話 公園にて/涙
「……飲みに行く?」
喫茶店の外。灰谷は大きくため息をついてから僕に提案してくる。その口にはすでにニヤニヤした表情が戻っている――が、それがただのハリボテに過ぎないことなんて確認するまでもない。
「……いや、いいよ。すまん、嫌な役回りをさせちゃったな」
灰谷が怒った理由は明白だ。親友である僕の逆鱗に対し、美井路がいたずらに、あまりに軽薄に触れてきたからだ。
『他人の柔らかな部分に触れるのなら、自分の柔らかな部分をさらけ出すべきである。』
僕と灰谷はそう考えていたからこそ、かつて入学式の後の飲み会でそうしたのだった、なんてな。
「気にしないでいーよ。というか……」
「ああ。すまんじゃなくて、ありがとうだ」
「お礼はランチのおごりでいいぞ」
彼女は調子を取り戻したかのように振る舞ってにかっと笑う。その笑顔に暗い影が潜んでいるのは明白だったが、それに触れるようなことはしない。
覚悟を持って他人を傷つけたとしても、親友のためという明確な理由があったとしても、自分が傷つかないわけではない。偽悪的な灰谷は、その実誰よりも繊細で――いいヤツなのだ。
『基準』
脳裏をよぎるのは、かつて、灰谷が無表情に、無感動に、こぼしたキーワード。でも、それについてはいま触れることではない。
だから、僕も彼女の作られた笑顔に答えるように、にやりと口元を歪めて返す。
「へいへい。せっかくだから、学食じゃなく近くの焼肉屋のランチに行こう」
「いいね。そんじゃあ、また明日の二限にね!」
灰谷は僕の肩をポンと叩いて、再び笑いかけてから去っていく。本人に正面から言うなんて恥ずかしくて出来ないが、本当に友人に恵まれたと思う。
ここで立ち尽くしていても仕方ない。僕も帰路に着こう。この喫茶店から自宅までは徒歩で30分程度。寒風に身体を晒しながらであれば、感情に振り回されるこの頭も冷えるだろう。
――が、ここで最低の邪魔が入った。
再び例のあの男が、何事もないかのようにふらりと現れた。ニコニコと爽やかに笑いながら、実に楽しそうにしている。こいつはいつでもどこでも楽しそうで、実に気に食わない。誰かがその隣にいるかのような仕草だが、幸いなことにその存在はよく見えなかった。進行方向からして、彼らは僕の自宅の方向に歩いているのは明らかだった。
……間違ってもそっちの方に行きたくない。この瞳が落ち着くまでどこかで時間を潰すのが得策。今日はこれ以上心労を負いたくないのだ。
僕はその場に立ち止まって、マップアプリを立ち上げる。さあ、どこか時間を潰せる店はないだろうか――
「……あ」
「え?」
歩道の端によってスマホをいじっていると誰かが立ち止まった音がして、反射的に顔をあげる。
そこに居たのは先程まで一緒にいた後輩――美井路だった。サングラスを外しているのだが……その大きな、美しく蠢くブラウンの両目には今にも零れそうなほどに涙を溜め込んでいた。
「……あー、大丈夫?」
はっきり言って、彼女に対してあまりいい印象を抱いていない。しかし、流石に放ってはおけず、ほとんど反射的に声をかけてしまう。
「……ご」
「?」
「ごゔぇんなしゃいー!」
まさに滂沱の涙、といった具合で涙を地面に落としながら、思い切り頭を下げてきた。90度を通り越して、120度くらいは腰が曲がっているんじゃないかと思う。その美しい瞳から溢れる濁りのない涙も、泥に塗れて地面に残る春雪に溶けて消えていく。
「ずびばぜん!!ずびばしぇん!」
さらに腰は深くなり、僕の方から彼女の後頭部が見えそうで、そろそろ前屈になりそうな……って、あまりに外聞が悪すぎる!
「ちょっと!だ、大丈夫だから!」
慌てて彼女に近づき身体を起こしてあげようとする。
「でも……!」
彼女はばっと顔を上げて、こちらを見てくる。彼女の感情に引きずられるように、その瞳のブラウンに美しい瑪瑙がより一層ぎらぎらと混ざり始める。歴史を積み重ねた断層のような、縞模様のような。砕けた鏡が瞳の中で反射して、万華となり、複雑に複合的に何かしらの含みを持つ。
こんなときになんだけど――本当になんだけど――その非現実的な美しさに少しだけ心を奪われてしまった。
「……落ち着いた?」
「……はい。取り乱してすいませんでした」
近くにあった公園のベンチに二人並んで腰掛ける。揃って温かい缶のココアを飲みながら、である。
沈黙はひたすらに気まずく、僕はその微妙な空気をごまかすように足早にココアを口に運ぶ。もちろんだが、その甘さを楽しむほどの余裕はない。
「……」
ほとんど話さない彼女の様子をちらりと見ると、少なくとも涙は止まっており、多少なりとも落ち着いたようだ。
……よし、帰ろう。さっきの喫茶店にもう一度入る勇気はないので、適当な喫茶店を探して入って時間を潰してからだけど。
「……それじゃあ、僕はこの辺で――」
そう言いながら腰をあげようとしたところで、美井路が僕の方に顔を向けた。
「……私の、瞳は」
何か重大な告白をするかのように、彼女はぽつりぽつりと言葉を発し始める。ああ、タイミングを逃してしまった。
「最悪、です。こんなものなければいいのに」
しかし、その呟きは――確かに僕の心を打った。彼女は自分の柔らかな部分を伝えようとしているのだ。
「……」
だから、僕はつい浮かしかけた腰をベンチに戻してしまう。
「人の色彩が見られる、これは人の心を暴き出してしまうことと同義です。灰谷さんが怒るのも、当然です。そんなことは分かっているのに、分かっていたのに……それでも今度こそ向き合いたかったんです」
彼女は自分の目を両手で覆う。しかし、その指の隙間からは妖しく光る輝きが漏れる。
「生まれた時からずっと向き合おうとして、ずっとずっと失敗し続けて……それで、大学に入って、今度こそ、と思っていたんだけどなあ」
しんしんと降り始めた白雪の中、彼女の独白は続く。
「どんな人間でもキレイな部分だけじゃないんです。どんなに美しい色彩を抱く人であっても、その分だけ驚くほど汚泥のようなこびりつきが目立って、とても目についてしまう」
半ば懺悔のように、独り言のように彼女の言葉は紡がれていく。隣に僕がいることも忘れてしまったかのように、彼女の声量は雪の降る音に紛れてしまいそうだ。
「……」
僕は口を挟まない。挟めない。
「いままで上手くやろうとして失敗を重ねて……今度こそ上手く使ってやるんだ。その一心で美しい色を持つお二人に話しかけたのに……結局、不快にさせただけのダメダメのダメでした」
僕が戯言を挟むには、美井路の笑顔はあまりに乾いていた。
「こんなものは、こんな瞳は、こんな私は、くしゃくしゃに丸めてくずかごにいれるのがお似合いでしょう。それでも向き合いたい、この瞳を受け入れていきたい。普通に、当たり前に、冗談めかして『色』のことを話す……そんなものを目指したいのに。でも……普通の人に、見たくもない色彩が視界に入るなんて感覚、分からないですもんね?」
彼女の切実で、ささやかな願い。それに反するどうしようもなく投げやりな確認を僕に投げかける。
分かるわけがない、そんな感覚。視界なんて、思考なんて、見ているもの、感じているもの、そんなものを共有できるわけでもない。
そうだとしても――
「……いや、少し分かるよ」
僕は、彼女の感覚が、あるいはその願いが少しだけ理解できるような気になっていた。人のことを分かるとか、理解できるとか、なんて浅ましいにもほどがあるのに。
今にして思えば――僕もきっと心のどこかでもっていたであろうその願いは、灰谷がすくい取ってくれたのだ。偽悪的で繊細で、誰よりも優しい彼女が、僕の隣に立ってくれていた。
じゃあ、美井路のものは誰がすくい取ってあげられるのだろう?
でも、そんな彼女にとってのヒーローみたいな振る舞いは、クソみたいな僕にはできる気がしない。そういうことができるのは、僕じゃなくてアイツなんだ。
「……?」
美井路は僕の言っていることがよく理解できないように僕の顔を見つめる。
「僕は……」
そうだとしても、絶望的なほどにアイツに劣る僕だけど――『他人の柔らかな部分に触れるのなら、自分の柔らかな部分をさらけ出すべき』なんだ。少なくとも自分の思いを晒した美井路に、僕は答えるべきなのだろう。
たとえ――それがただの独白で、ほとんど拒絶の意味合いを持つとしても。
自分にそう言い聞かせながら僕は自分の瞳のことを口にし始める。
「僕は――平行世界の自分を見ることができる」
瞳の中で、青が蠢く。うざったいことこの上ない。
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