第5話 瑪瑙

「うーん、この講義はパスだね」

二人で授業を組んでいたときから今日の四限の授業は結構期待していたのだが……。

「やっぱり? 楽そうなのはいいけど、致命的につまらなさそうだもんな」

僕の言葉に灰谷は重々しく頷く。ぼそぼそ淡々と話していた教授の姿を思い出しているのだろう。テーマは面白そうだが、彼の口から語られると途端に平淡な印象になってしまっていた。

「そうだよねー。シラバスにはあんなに面白そうに書いてあるのに」

「ま、そんなもんだよ」

彼女は一つため息をついてから、気を取り直すように別の話題を振ってくる。

「明日は何限からだっけ?」

「一限だよ。春休みに喫茶店で一緒に予定組んだだろ? ほら、あの文学部棟で行われる選択必修の……」

一緒に組んだというかただ見せ合っただけなのだが、諸般の事情により彼女の授業はほぼ把握している。

「おー、アレかぁ」

僕たちは会話を適当にしつつも、ちらりちらりと背後の方を気にしていた。そして――

「……いるねえ」

ニマニマと灰谷は実に嬉しそうだが、僕は全然嬉しくない。いないほうがいいに決まっている。

「そんじゃ、作戦通りにそこの角で」

1mほど先の廊下の曲がり角をこっそり指差しながら、灰谷はそちらに移動していく。僕もそれに着いていきながら疑問を呈する。

「本当にうまくいくの?」

これは作戦っていうほどのものか?

「作戦なんてシンプルなほうがいいのさ」

ニヤリと笑ってパチリと右目をつぶってみせる彼女の仕草は、実に蠱惑的だった。


「……やっぱり青色。でも、違うような……気になるのです」

軽く小走りをしているのか、とてとてという足音が近づくとともにそんな声が聞こえてくる。その姿が曲がり角を曲がった瞬間、待ち伏せていた灰谷が声を掛ける。

「なあにが気になるのかなあ、お嬢さん」

「ぎょえ!?」

サングラス女子は怪奇な音を口から漏らして、飛び上がらんばかりに驚く。

他方で、灰谷は獰猛ともいうべき笑顔。なかなかに言及しづらい表情なのだが、触れずにはいられなかった。

「……灰谷、君の顔すごいことになっているよ?」

「奉助の面とどっちが変?」

「ぎりぎりで君の顔だね」

「やばいじゃん、顔面恥部じゃん!」

「おい」

僕も自分の顔は嫌いだけど、恥部ではないはずだ。

そんなアホなやり取りをしている間にサングラスさんは再起動を果たしたのか、意を決した感じで声をかけてくる。

「あ、あの!」

思いがけず大きな声でちょっとびっくり。

「お、おうっ」

灰谷なんて獰猛な表情も忘れて、引き気味だ。

「はじめまして! わ、私は美井路シオンといいます!」

「どーも……その感じ、1年生? 私達、というかこの男に何か用事なの? 一限目からずっとつきまとっているでしょ?」

「ストレートに聞くねえ」

ズバッと端的に聞けるのは灰谷の良いところの一つだ。

「私に任せっぱにしないで、奉助のことでしょっ」

「え、えーと、その……」

しかし先程の勢いはどこへやら、急にワタワタと落ち着かない様子で左右をキョロキョロするサングラス女子こと美井路さん。

「あー……なにか話しにくい――」

話が進まない、そう判断した僕は声をかけ――そのとき廊下の真ん中あたりに誰かと会話しながら青色のあいつが歩いてくる姿が見え始める。そいつが誰かなんて確認するまでもない。にこやか爽やかで実に楽しそうで……視界にそれが入った瞬間、僕の心に黒いモヤのようなものがかかり、自然と眉間にシワが寄る。

はっきりいって、気分が悪い。

「……移動する?」

僕の様子から何が起こっているか把握した灰谷は僕の背中に軽く手を当てつつ、そう提案してくれる。彼女の顔からはニヤニヤ笑いは消えており、いたって真面目な表情だ。本当に、よく気がつく。

「ああ、そうし――」

「すごい、青色が――」

ボソリと眼の前の少女がつぶやいた。

「……一限目もそんなことを言っていましたけど、どういう意味なんですか?」

青色のアイツと違って不出来な僕は自分の感情を抑えることができず、はっきりと『不快』を表に、吐き捨てるように確認する。

「ご、ごめんなさい……えっと……いえ! 私もきちんとお話します」

僕の様子に戸惑いつつ、彼女は意を決したようにそう言う。彼女は軽く呼吸を整えてからサングラスをゆっくり外す。軽く手が震えているように見えるのは気の所為ではないだろう。いったい何を――

「ふえ……」

僕の真横にいた灰谷が聞いたこともないような声を出す。本当に驚いているのだろう。

僕もそうだ、驚きのあまり声もでない。

「改めまして、先日、本学の一年生となりました美井路シオンと申します」

そういってニコリと笑う彼女の顔は、一般的には人懐っこく魅力的なのだろう。くせっ毛なのかパーマなのか判断に困る重たいロングヘア。背が低く、可愛らしい雰囲気がある彼女にはよく似合っている。

しかし、その瞳はあまりに異質だった。

ブラウンがかった瞳に――色とりどりの鏡の破片のようなものが飛び散っているような、不可思議な縞模様の虹彩。どこを見ているのか、何を見ているのか、何を見ることができるのか、僕には検討もつかない。

でも……その瑪瑙の瞳はただ、ひたすらに、一切の疑念の余地もなく美しかった。

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