第3話 翌朝
「おはようございます、師匠。朝食の準備が出来ました」
リオンが控えめなノックとともに呼び掛けたが、部屋の主は沈黙を保っている。
「師匠、起きてください」
強めに扉を叩いてみるが、やはり返事は無い。リオンは仕方なくドアノブに手をかける。鍵は開いていた。
「……入りますよ」
ベッドの前に立ち、背中を丸めた師の寝姿を見下ろす。その寝顔は、起きているときと違って眉間の皺がなく穏やかだ。なんとも言えない感情がリオンの心をざわめかせる。易々と寝室に侵入を許すなんて、余程信頼されているのか、それとも脅威にすらなり得ないと思われているのか──淡い期待は早々に捨てる。確実に後者だろう。
リオンの師・クロウは、そこそこ名の通った魔法使いだ。彼女に弟子入りして早四年。背丈はとうに追い越したが、魔法では到底敵わない。万が一にでも攻撃を仕掛けたところで、返り討ちにされるのが目に見えている。
もちろん、そんな真似をするほどリオンは愚かではない。そして何より、彼は師に対して敬愛以上の特別な感情を抱いている。規則正しく上下する丸まった背中に、駄目押しで「師匠」と呼び掛けた。
「昨日の今日で僕に寝室に入られておいて、よく平然と寝ていられますね」
嘆息したリオンが呪文を唱えてカーテンを開けると、もぞもぞと布団が動いた。
「んー……」
「師匠、起きてください」
クロウが酷く緩慢な動きで、のそりと上体を起こした。
「……おはよう」
「おはようございます。また徹夜ですか」
「ああ、ちょっと調べ物をな」
魔法書は机上に留まらず、枕元にも数冊散らばっていた。ページが開いたままのものすらある。リオンの金色の髪が窓の光を受けてキラキラと輝き、クロウは眩しそうに目を細めた。その目の下にはくっきりと隈ができている。
「夜はきちんと寝てくださいと、再三申し上げているはずですが」
「はいはい」
クロウは適当な相槌を打ちながら、乱れた黒髪を手櫛で撫で付けた。
「それとも」
リオンがニッと悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「昨日の僕の告白のせいで眠れなかったんですか?」
「はぁ⁈」
クロウは素っ頓狂な声を上げ、黒い瞳で弟子の顔を睨みつけた。眉間にはいつものように皺が刻まれる。
「馬鹿言え、んなわけあるか!」
「目、覚めました?」
「……お前な、」
思わず声を荒げたクロウに対し、リオンは平然と言ってのけた。クロウが再び口を開くや否や、リオンは「先に下りてます」と告げ、クロウの返事を待たずに部屋を後にした。
リオンは知らなかった。
残されたクロウが布団に顔を埋め、頰の熱を冷ますのに必死になっていたことを。
クロウもまた、知らなかった。
扉の外で、赤い顔のままリオンが頭を抱えていることを。
「「何なんだあいつ(あの人)は……!」」
二人は魔法使いの師匠と弟子である。しかし昨日、弟子が師匠に「恋人になってください」と告白したことで、二人の関係性が少しずつ変わろうとしていた。
無論、踏み込もうとする弟子に対して、師は抗おうと必死である。禁忌である『特定の感情だけを忘れさせる呪い』について夜を徹して調べてしまうほどには。
全く、馬鹿馬鹿しい。クロウは息を吐いてかぶりを振った。いくら弟子が成長しうがそのぶん師も歳を取るというのがわからんのか。出会った頃ならいざしらず──いや、ないな。出会った頃から自分はさほど変わっていない。それは見た目への無頓着さだけではなく、頑固で魔法にしか興味がない中身もだ。それともうひとつ──あの目的さえ果たすことができさえすれば他はどうだっていい。弟子の育成も同様、目的を果たすための手段でしかない。残り一年ぽっち、長命の魔法使いにとってはもうじきだ。来るべき弟子の成人に備えて準備を進めていかねばならん。
「師匠〜‼︎」
「わーかってるって!」
階下の弟子に叫び返して慌ただしく階段を降りた。
***
「明日、城に行ってくる」
カシャン、とフォークがリオンの手からテーブルへ滑り落ちた。クロウは眉間の皺を深くしてはあ、とため息を落とす。
「見合いを断りにだよ」
「どうしても直接行かなきゃならないんですか?」
「いんや、ついでに賢者様に用があるんでな。言っとくが、お前は留守番だ」
「……わかりました」
「絶対に着いてくるなよ」
「そんなに念を押されなくても、わかってますって」
リオンから笑顔で言い返されたクロウがふん、と鼻を鳴らし、皿の上のオムレツを口に運ぶ。まだほんのりと温かいパンをちぎりながら、クロウは思い出したように口を開いた。
「そういえば、今朝はロゼッタが来る日だったな」
「ええ。今朝のロールパンは焼きたてですよ」
「まさかとは思うが、ロゼッタに見合いの話をしてねえだろうな?」
ロゼッタは街のパン屋の看板娘だ。三日おきにクロウとリオンが住むこの山の中腹まで、焼きたてのパンをわざわざ届けてくれている。
「ええ、もちろん言いましたよ」
「そうだよな、さすがに……って、はあぁ⁈ なんでよりによって、あのお喋り娘に話したんだ⁉︎」
「ロゼッタも知る権利があると思うんです。僕たちライバルなので」
「ら……ライバル?」
「師匠もご存知の通りロゼッタは師匠のことを好いていますし、僕の気持ちも昨日お伝えした通りですので。でも師匠の方からお断りすると知って喜んでました。よかったですね」
「いや、なにひとつよくねえよ」
ロゼッタはその昔、木から落ちそうになったところをクロウに助けられた。その際クロウに一目惚れしたらしい。彼女曰く『あたしの王子様なの』。幼い恋心が芽生えた発端はクロウを男だと勘違いしたことによるものだったが、女だと知ったあとも変わらずクロウを慕っている。何よりクロウが気掛かりなのは、ロゼッタの売るパンは城でも大評判だということだ。
「面倒なことにならなきゃいいが……」
朝食を終えたクロウは、城内へ噂が広がっていないことを祈りつつ、今日の分の仕事を始めたのだった。
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