第3話「手記による 折口ヒサの半生」

折口ヒサの生まれは紀州の南端に位置する小さな港町で、古くにこの地方一帯の郡司を務めた豪族を先祖に持っていた。

そんな高貴な家柄の血を継いではいたが、ヒサは彼女の父親が正妻以外に囲っていた遊女上がりの女との間に生まれた子であったので、町で小さな居酒屋を営む母親の方に引き取られた。

高貴な血と賤しい血が混じった不幸の結晶として、ヒサは生まれながらに全盲という運命を背負い、母親の描くヒサの将来には悲観的な予測しか立たなかった。

そんな事情と慰み者として亘って来た独り身の偏屈さが災いして、常に放埒とした生活を余儀なくされていたヒサの母親は、口止め料として夫から毎月支払われた十分な養育費を、のめり込んだ客の男に騙されて平気で貢いだりする散々な状況の中でヒサを育てた。 

母親は目が見えない事で何かと余所の子供よりも手の掛かる幼少のヒサに対して、親子の情愛を微塵も感じさせない苦渋な毎日を強いた。出来る範囲でヒサに家事や店の仕事を手伝わされるのだが、母親はヒサが何か失敗を犯せば些細な事でも過剰にあげつらい、「お前は望んで産んだ覚えのない子だ」とか、「この家の不幸は全部お前の身のために起こった事だ」などと罵り、ひどく酔って機嫌の悪い時には無抵抗で震えるヒサに暴力を振るった。生きていくのに最低限必要な衣食は与えられたが、まともな教育は受けさせてもらえず、近所の誰の目にもヒサの将来に明るい見通しが立つことはなかった。せいぜいが目の不自由な者たちの間に多かった三味線なんかの芸事で、家々の門口に立って施しを受けるしかない人生だろうと、気の毒がってはくれたが、それ以上にヒサに親身になってくれる者はなかった。

近所の子供たちの遊びの輪に入れず、いつも一人で神社の境内に座って歌を歌っていたヒサは、ある日そこの神社の宮司に養子縁組みの話を持ちかけられた。宮司夫妻には子が産めない事情があり、ヒサの父親の高貴な家柄とも密な繋がりがあった事から、人知れずヒサの出生の内実も把握していて、以前から彼女を不憫に思っていたという。

全盲の者が頼る糊口として芸事の道もあったが、宮司夫妻はこの地に根付く修験の道をヒサに歩ませ、霊媒による衆生救済の社会貢献がある事を彼女の人生に示そうとした。そして彼女の意志次第では行く行く当神社の後継として迎え入れるつもりでいたようだ。

厄介者の面倒を見なくて済む理由からヒサの母親は当然、周囲の誰もこの養子縁組みに反対する者はなく、ヒサ自身も愛情深い穏健な宮司夫妻に引き取られる事を心から喜んだようだ。

ヒサのそれからの毎日は宮司夫妻の手厚い養育の下、一人前の巫女となるべく、神様一辺倒の生活となった。宮司に付いて神前での朝夕の務めを一日も欠かさず、真っ暗な視界の中、境内の掃除も隅々まで徹底した。

伊勢路を下り、幽玄に折り重なった霊山を縫って熊野に至った諸々の信仰が、海の彼方に浄土を求めて熊野灘に突き出たこの地は、古代より修験者たちの辺路として、海にも山にも多くの行場を持っている。

ヒサに課せられた霊験を得るための修行は時に厳しく、一ヶ月に及ぶ断食行や大寒の身を切るような滝壺で長時間に亘る禊ぎの水行を行ったりもした。でもそれらは全てヒサの熱心な信仰から来る自発的な行動が成すもので、決して宮司が強制的に勧めているわけではなかった。

宮司はそんなヒサの直向きな努力を感心しつつ、異常なまでにのめり込む彼女の気質が心身の健康に不調をもたらす事のないよう、注意深く見守った。

そんなヒサの異能が開花するきっかけとなった出来事が身に起こったのは、彼女がちょうど成人を迎えた夏の事だった。ヒサの記憶では、その日は太平洋沖の深海で起こった海底火山の噴火の影響で、彼女がいた紀州最南端一帯でも小規模な地震が何度かあったという。

奇岩を望む、人があまり立ち入らない海岸の洞穴に一人籠もり、ヒサが一心に宮司から聞き習った祝詞を秦上していると、突然鳩尾あたりにずっしりと重くて鈍い痛みのような感覚が生じ、それが徐々に体全体に膨れ上がって、自分が自分でなくなるような奇妙な状態に陥った。無意識に秦上している祝詞の声が自分の物とは明らかに違った、野太い獣じみた響きに変わり、その響きがふとヒサの頭の中ではっきりとした神の啓示に昇華した。

「吾は深淵の古宮ふるいえにて臥せる事古主ことふるぬし、夢見るままに待ちいたり。この世一列の建て直しをせんと、汝の身を吾の仮の社として貰い受けよう」

得体の知れない何者かに感応したヒサは、自由の利かなくなった我が身の内部で確かにそう響き渡る冷厳な声を聞いたという。

はじめヒサは自分が仕えている神社に何の縁もないその神の名を怪しみ恐れ、自分の身に降りかかった体験を、未熟な修行が災いして低級霊に取り込まれた狐憑きの類だと思ったようだ。鎮めようにも変調はしばらく止まず、精神に異常を来したように三日三晩うなされ続ける彼女の事態を重く見た宮司が、護摩を焚いて祈祷を行ったところ、再びヒサの腹の底から冷厳な声が鳴り響き、それが彼女の口をついて宮司にもその内容を明らかにした。

「吾は深淵の古宮にて臥せる事古主、夢見るままに待ちいたり。この者の身は吾が永き眠りから目覚め、遍くこの世を平定し治むるまでの仮の社として貰い受ける。吾が世の大元の神にして真の神であるから、汝らがその旨承知しせんとなれば、この家に必ずや災いをなす」

宮司にしてもやはり縁の不明な神の名だったため、宮司はこれをまつろわぬ魑魅魍魎の悪しき顕現だとして、更なる呪法を展開してこの神の要求を退けようとした。ところが事態は改善に向かうどころか、謂われなき神の有言実行を恐ろしい形で神社の内外に示した。

ヒサに続き、それまで幾日か繰り返し行われた長時間に及ぶ呪法の場に、何事もなく付き添っていた妻の方にも精神に異常を来したような兆候が現れ始め、野犬の遠吠えに似た唸り声や、釣り上げられて間もない活魚の悶えのように、白目を剥いて神前を跳ね回る不可解な行動を取るようになった。そんな中一発の強烈な雷鳴が至近距離で轟いたかと思うと、境内の樹齢八百年の神木に蛇の蜷局を巻いたような火の手が上がった。

驚愕と無力感を隠せない宮司はこれまでに何度か鎮魂、調伏して来た魑魅魍魎のいずれにもこれほどまでの威力を見た事がなかったので、ヒサに取り憑いた正体不明の神が真に威厳を持った神である事を半ば認めるしかなかった。それがヒサのその後の人生に与える影響を考える余裕はなかったと思われ、苦渋の選択ではあったが、事古主の要求に従い、ヒサの身体を仮の社と定め、その御霊を彼女に降ろす帰神の法を施した。

宮司の疲労が限界の色を見せ始めた時、ようやく事態は一応の終息を見たが、以後ヒサの日常は終わりのない荒行に挑むような波乱含みのものとなった。

「私はこれまでの苦労をちっとも苦労とは思いません。それが事古主の神様に従って大事業を成すための”お試し”だというなら、苦労どころか喜びさえ感じるほどですよ」

ヒサを教祖に据えて教団を立ち上げた時、これまでの苦労を振り返って平然とそう言っていた彼女の言葉に嘘偽りの影はなかった。

事古主。それは我が教団が崇める神の名で、記紀神話のいかなる箇所にもその名を見ない、教団独自の神だ。ヒサの奇跡の顕現はこの神の力を通して成されるもので、彼女は事古主こそが真に人が信ずるべき神で、この世に初めからいた大元の神だという。

私が後にヒサの口述を元に編纂した「根来神話(ねごろしんわ)」は、天照大御神を頂点とする皇家神道の史観を不本意な形で欺く作り話として世間の嘲笑に晒されたが、たとえ世間がどうあってもヒサを通した事古主の奇跡が本物である以上、私の信仰は決して揺らぐことがなかった。だが今となってそれは神代の禍々しい真実を映した暗黒の物語として、私の本能が持つ恐怖の源泉の中で上書きされている。

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