19

 驚いたロファーがジゼルに駆け寄り、顔を覗きこむ。確かに真っ青な顔をして、息が浅い。しっかりしろ、と抱き起そうとして、思わず手を引っ込める。


「おまえ、冷えるって言っていたけど、冷えなんてもんじゃない! まるで氷じゃないか」

これが、ジゼルが言っていた『力の使い過ぎ』でなる冷えか。


 なぜかロファーの目に涙がまる。涙をぽろぽろこぼしながらジゼルを抱きかかえると大急ぎでキッチンを回り、ステンドグラスのある部屋に向かう。


「面倒だ、いろいろ作り替えられるんだから、元気になったら居間から寝室に入れるようにしろ」

自分でも訳が判らないが、ジゼルを怒鳴りつける。勿論ジゼルは反応しない。


 ステンドグラスの向こう側の部屋は、居間やキッチンを合わせたより広く、奥にほそい柱を三本並べた仕切りがあって、その向こうにベッドが見える。


 そこにジゼルを寝かせると掛け布団をかぶせながら、ぐるりとロファーは部屋を見渡す。


 奥にクローゼットを見つけ中を見ると、ケットが山積みされている。それを引っ張り出してジゼルに掛ける。有るだけ掛けてから入り口近くの暖炉に走る。


 横に積まれたたきぎを中に放り込み、焚き付けはないかと探していると、勝手に薪が燃え始めた。


 魔導士の暖炉だ、もう驚かない、驚くものか、と、やはり訳もなくロファーは決意する。


 その頃には涙も止まり、濡れた頬をロファーが拭う。そして思う。なんで俺は泣いているんだ? そしてそう思った途端、再び涙が溢れ始めた。


「もう、クソったれ! 構うもんか!」

 何を怒っているのか、何が悲しいのか、混乱しているロファーには思いつけない。それよりジゼルを少しは温められたか?


「ジゼル、ジゼル?」

ベッド際でジゼルにそっと声を掛ける。青白い顔のままジゼルに反応はない。そっと頬に触れると、やっぱり氷のように冷たい。


「うん……」

 ロファーの手にジゼルの手が触れた。


「ジゼル?」

「水を……水が欲しい」


「喉が渇いているのか? 今、持ってくる、すぐ持ってくる」

 キッチンに向かうとき、宙に浮かんだ薪が身を投げるように暖炉に入っていくのが見えたが、気にならなかった。それどころではなかった。


 水差しに湯冷ましを入れ、カップも持って寝室に戻る。カップに水を注ぐと水差しをテーブルに置き、ベッドに腰を掛けてジゼルを抱き起す。


「ジゼル、水だ。飲めるか?」

 ジゼルは目を閉じたまま、反応を示さない。仕方なく、口元にカップを持っていくが、意識があるのかないのか、ぐったりとしたままだ。


 唇を濡らす程度にカップを傾ける。すると少しだけ唇が開く。そこに少しずつ流し込むが咽喉のどが動く様子がない。口角から漏れ出すだけだ。


「ジゼル、しっかりしろ。飲むんだ」

必死のロファーだが、ジゼルの首は虚しく傾いてくる。支えられても上体を起こしていられない。それにこのままでは体を温めるのもままならない。


 ロファーは水を飲ませるのは後回しにして、温める事を優先することにし、ジゼルを横にすると包み直す。


 キッチンに行ってあたりを探り、布巾を見つけて戻ってくる。それを濡らして緩く絞り、横たわったままのジゼルの頭を少しだけ横に向け、口の中、舌に乗るように布巾の先を含ませてみる。


「ん……」

ジゼルの口が閉じられ、咽喉がゴクリと動いた。すかさずロファーが布巾を引っ張り出す。それを何度か繰り返し、何度か目にジゼルが呑み込むのをやめた。


 水はもういらないのか、それとも、もう飲み込む力が残ってないのか? 判断付かないロファーだが、これ以上、無理やり与えて気管を詰まらせる方が怖い。


 水を片付けて、再びジゼルの頬に触れる。

(少しも温まらない……)


 暖炉を見ると赤々と燃えている。いつの間にかキッチンに続く壁のり抜きが布で塞がれ、部屋はうっすら汗ばむほど暑い。それなのに、ジゼルを包む布団に手を入れると凍るように冷えたままだ。


(どうしよう……)


 迷うロファーの背に何かがぶつかってくる。ジゼルの妖精だろうか? 俺に温めろと言っている? 他にできることはないのだろうか? 考えても思いつかない。


(そうだ、そうだよ、子ども相手に意識する、俺のほうがおかしい。体温で温めて欲しい、と言っていたじゃないか)


 とうとうロファーは恐る恐る冷たいジゼルのベッドに潜り込んだ。


(あぁ……これはローズマリーだ)

ベッドに潜り込みジゼルに寄り添うと、バスを使って出てきた時、ジゼルから感じた匂いの正体が知れた。きっとバスにローズマリーを入れたんだ。ローズマリーは体を温める。少しでも温まるように入れたんだ。


 そう言えばティーカップを包み込むように持っていた。少しでも温かいものに触れたかったからじゃないのか? 


 オーギュたちが帰るとき、『寒いから』と言っていたのは自分が寒かったからではないか?


 ここに帰ってすぐにバスを使うと言った。あの時、すでに冷えは始まっていて、だけどオーギュたちのために我慢していた。


「ジゼル?」

相変わらず青白い顔、浅い息。そのジゼルを覗きこんだロファーの涙腺がまた緩む。


 おまえは頑張り過ぎだ……


 気付かなかった俺が迂闊うかつだった。もっと、おまえをよく見ていれば良かった。ロファーは更にジゼルに体を添わせ、それでも足りなくて抱き締めた。


 俺でお前を温められるなら、幾らでも温めてやる。だから……


 冷たいジゼルの体に自分が冷やされていくのを感じ、魂が吸い取られているんじゃないか、と思った。それでも、いつの間にかロファーも眠りに落ちる。


(俺はこの、子どものような魔導士に食い殺されるんじゃないのか?)


 浅い眠りの中、ふとロファーは思う。そして、それを怖いとも嫌だとも感じていなかった。


 体が冷やされていれば、当然眠りは浅い。何度もロファーは目を覚ます。そのたびジゼルを見、息をしているか確認し、少しは温まったかと頬に触れる。やはり冷たいジゼルを、温めようと無意識にジゼルの頭を自分の喉元に包み込む。


 ロファーの息がジゼルの髪を揺らし、額を温める。そしてまたロファーは睡魔に引き込まれていく。


 何度目に覚醒したときだろう。ジゼルの顔を見ようと動いたロファーの背にジゼルの腕が回されているのに気が付いた。


 そう言えば、まだ冷たいが氷のようだとは感じない。安心すると同時に嬉しく感じているとロファーは気が付く。だけど深くは考えられない。再びジゼルを抱き締めて、その額に口づける。そしてまた眠る。


 ぐっしょり気持ちの悪い汗をかいてロファーが目覚める。今度は随分長く眠ったように感じる。窓を見ると白み始めていて、夜明けが近いと知れる。


 ジゼルを見るとすやすやと眠っている。しっかりした息をしている。だが、まだ頬は冷たい。取り敢えず、自分の汗を拭こうとタオルを探すためロファーはバスルームに向かった。


 暖炉の火は消えて、壁の刳り貫きを塞いだ布も消えている。何か白いものがひらひらと、目の端に見えたが、気にしないことにした。


 食糧庫に向かう階段の対面にはドアがあり、中に入るとリネン類が納められた棚があった。さらにドアがあるのはその先がバスなのだろう。棚からタオルを一枚取った。


 寝室に戻ると、ジゼルに掛けた毛布が宙に引っ張られ、一枚一枚取り除かれていく。きっと妖精の仕業なのだろうと、持ってきたタオルでロファーが自分の体を拭いていると、また背中に押された感触がある。


 手伝えって? 苦笑してロファーがジゼルの毛布を取り除き、畳んでクローゼットに仕舞った。ジゼルに布団を掛け直すと、ロファーはキッチンに向かった。酷く喉が渇いていた。


 ごくごくと水を飲みながら、あれだけ汗を掻けば無理もないか、とぼんやり思う。そして、ジゼルはどうだろう、と思い、水差しに湯冷ましを入れ直し、トレイにカップも乗せて寝室に運んだ。


 トレイをテーブルに乗せてから、ベッドに腰かけてジゼルの様子を窺う。まだ顔が青白い。頬に触れるとやはり冷たい。と、ジゼルは目を開けた。


「大丈夫か?」

「ロファ……」


か細い声でジゼルがロファーを呼ぶ。それきり何も言わず、ただロファーを見詰めている。


「喉は? 乾いていないか? 水で良ければすぐ用意できるよ」

 それにはコクリとジゼルが頷く。水を取ろうとロファーが腰を浮かせると、ジゼルがロファーのシャツを掴む。


「行かないで」

泣き出しそうな目だ。

「そこのテーブルに置いてある。それくらい我慢しろ」

苦笑してロファーがジゼルの手を解く。


「ゆっくりと飲むんだよ」

 ジゼルの上体を起こし、カップを手渡しながらそう言うと、ジゼルは素直に頷いてカップを受け取り一口ずつ飲み始める。


 飲み終わるとカップをロファーに渡し、

「ありがとう」

と呟くように言った。


 カップをテーブルに戻しながら、ロファーはジゼルの視線を痛いほど感じていた。振り向くと、ベッドに横になったジゼルはやはりこちらを見ている。ロファーがベッドに腰かけてもやっぱり見続けている。


「そんなに見張ってなくても、どこにも行かないよ」

と、ロファーが冗談めかして苦笑する。ジゼルは何も答えない。


「体調はどうだ? 冷えは納まったのか?」

 今度は真面目にロファーが問う。やはりジゼルは答えない。ロファーは困ってしまい、どうしたものかとジゼルから目を離す。


 ジゼルが動いた気配に、ロファーがそっとジゼルを見ようとする。が、ジゼルはロファーの背中にもたれてロファーからは見えない。


「抱いて……」

「!」


 ロファーの背中に何かが走った。今の声は、今の声は女の声だ。男を誘っている。


「私を抱いて」

再び声がする。ロファーの動機が早まる。だって、どうして?


 後ろから自分の胸に回されたジゼルの腕を取り、ジゼルの顔を見詰める。表情がない。視線は俺に向かっているのに俺を見ていない……


「ジゼル、しっかりしろ!」

 がくがくとジゼルを揺さぶる。ジゼルの周りでチラチラ白く何かが輝く。


「ジゼル!」

と、急にジゼルに表情が戻る。


「どうかした? ロファー、腕が痛いよ」

慌ててロファーは掴んでいた腕を離す。


「どうしたもこうしたも……おまえ、変だったぞ?」

「変だった? いつもより?」

「うん、いつもより変だった」

普通だったら笑ってしまいそうな会話だがロファーを笑わせてくれはしない。


「何か悪いものに憑り付かれたかと心配した」


「ふーーーん」

と、ジゼルはベッドに横になる。


「後で説明するよ。言っておかなかった私が悪い。怖い思いをさせてしまったね」

それより、まだ完全には回復していない。悪いがもう少し温めて欲しい。


 そうは言われても、はいそうですか、とあんなことがあった後では答えられない。あの声は間違いない、男に甘える女の声だ。


 鼻にかかったような、息が抜けていくような、あの声をこんな子どもが出すのか?


「ロファー?」

ベッドに腰かけたまま動かないロファーをジゼルが眺める。


「何かに憑り付かれたような、って言ったね。私はロファーに何かした?」

「覚えてないのか?」


 だるそうにベッドに上体を起こしてジゼルがため息を吐く。


「いい忘れていた、と言ったが、私が冷え始めてから、何か飲ませたり、食べさせたりしてはいけない」


冷え切ったジゼルに水を飲ませたロファーが慌てる。

「飲ませるとどうなる?」


「水は更に体を冷やし、食べ物なら胃が働いて、体力を更に奪う。回復し始めてからなら大丈夫だが、冷え初めや、冷え切っている時だと、目覚めてから胃に何か入った時、力が暴走する。よくは判らないが、胃に何かが入ることに危険を感じるのだと言われている」


「力の暴走、って?」

「本人が使おうと思っていない力を発揮してしまう、ってことだ」


「うーーん、俺は冷え切ったおまえが、水を欲しがったから水を飲ませた」

「うん、言っておかなかった私がいけない」


「それで、さっき、咽喉が渇いたというおまえに水を飲ませた」

「それは問題ない。回復し始めていれば必要なものだ」


「そうしたら、おまえの様子が変わって、なんだ、女になった」

「女になった?」

ジゼルが首を傾げる。


「おかしいな。私は女でも男でもないのだが」

「あ?」

ジゼルを見るロファーの顎が外れそうだ。


「男でも女でもない?」

「うん、いずれどちらかを選ぶことになるけれど。それで、女になった私はなにかしたのか?」


 納得いかないロファーだったが、

「なんだ、その、俺を誘惑しようとした」

なぜかロファーの顔が熱くなる。


「誘惑? その前に、私はロファーをじっと見つめていなかったか? あるいは傍にいて欲しいと言わなかったか?」


「言っていた。水が欲しいというから取りに行こうとしたら行くなと言った。それで、我慢しろと俺はおまえを振りほどき、水を取りに行った。その間中おまえは俺を見ていた」


「なるほど。珍しいこともあるものだ」

一人でジゼルは納得しているが、ロファーは全く納得いかない。


「どういうことなんだ?」

 そんなロファーを見て、クスリとジゼルが笑う。


「女になったと言ったが、私に触れて確認した訳ではないのだろう?」

「あ、当たり前だ」


「では、私は私のままだ。女になったわけではない。だが、それなのに『魔女の誘惑』を発動させている」


 魔女についてはまた今度説明するとして、『魔女の誘惑』とは魔女が男を誘い、男の精気を吸い取るときに使う術だ。掛かった男は魔女の言いなり、ボロボロになるまで魔女に奉仕することになる。傍にいて欲しいという私の願いが暴走して、そんな術を使ったのだろう。


「で、あなたはその術にかからなかった。私が魔女ではないからか、あなたに授けられた守りからかは判らない」


 それにしても魔女ではない私がこの術を発動させたと聞いたら、呪文学の教授が大喜びしそうだ。ジゼルがクスクス笑う。もちろんロファーは面白くない。


「訳が判らない。いや、言っていることは判ったが、俺はものすごく危険なヤツと関わった、と言うことか?」

「ものすごく危険? 私の事か。私はそこまで危険じゃない。今回の事は私の過失と認めるが、これでロファーも私が冷えた時、もう水を飲ませたりしないはず。だから安心していい」

そう言うと再びジゼルは横になる。


「ロファーが納得していないのは判っている。納得するまで説明したいが、どうやら私は限界だ」

 え? とロファーがジゼルを見る。そう言われれば顔色がまた悪くなっているようだ。頬に触れると完全に冷たい。


 その手にジゼルが触れてくる。ヒヤっとするほど冷たい手だ。ロファーがジゼルを見ると、深い緑色の瞳でジゼルがロファーを見詰めている。涙が溢れて潤んでいる。


「お願い、温めて。ロファー」

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