9

 キッチンに帰ると魔導士がいない。どこだ、と見ると、居間で立ったまま本棚を見ている。


 どうした、と聞くと

「一口大に切れと書いてあるが、口の大きさは皆違う。標準的な口の大きさを調べているが、書かれていそうな本が見つからない」

と本棚をにらんだまま真顔で言う。


 えっ? と、魔導士が今言ったことを反芻はんすうして、そうか、とロファーは笑ってしまった。なんて斬新な発想なんだ?


 一口大っていうのは、口の大きさ一つ、ってわけじゃなく、一匙ひとさじで口に入れる大きさのことだよ、と説明しながら笑いが止まらない。


 そしてなるほどね、と思う。この魔導士の発想を変わっていて困ると思えば悩ましいが、斬新で自由で真っ直ぐだと思えば、愉快なものになる。オーギュが言うように、堅苦しく考えなければいいだけなのだ。まぁ、どう考えようと、変わっている事は変わっているのだけれど……


 気が付くと、魔導士がうっすら涙を浮かべながらこちらを見詰めている。

「あ……」

と、ロファーが狼狽うろたえる。


「どうせ私はものを知らない」

それがそんなに可笑しいか? と魔導士はぽろぽろ涙を零し始める。


「私とて、自分が愚かで世間知らずなことは充分承知している。だから助手を求め、手助けして欲しいと願ったのだ。なのにそれをそこまで笑うか?」

「いや……ごめん。そんなつもりじゃないんだ」

 ロファーがそう言っても魔導士は、ロファーを睨み付けるばかりで涙が止まる様子もない。ぎゅっと唇を噛みしめているのは嗚咽おえつこらえているのだろうか?


「だから、なんていうのかな。おまえの発想が自由で斬新で、いいな、と思ったんだよ」

必死にロファーが言い訳する。


「俺には逆立ちしたってできない発想だ。それが、うん、なんだか楽しくなったんだ」

 楽しくて嬉しくて、愉快で、それが笑いになった。お前を傷付けようなんて思ってなかった。


「それじゃあ、ロファー」

やっと口を開いた魔導士だったが、我慢していた嗚咽が開いた口から飛び出して止まらない。落ち着くのをロファーがじっと待っていると、

「私が変だからと言って、ロファーは私を嫌ったりしない?」


 私のことを変だと言って、誰も私には近寄らなかった。陰でこそこそ笑ったり、顔を背けたり、みんな私を嫌っていた。


「ロファーは私を嫌わない?」

真っ直ぐにロファーを見詰めてくる。


 おまえの瞳は深い緑色だったんだね。そう思いながら、自分でも気が付かないうちにロファーは魔導士を抱き締めていた。

「嫌ったりしないよ、ジゼル」

「本当に?」

「本当に。だからもう泣くな」

うん、とうなずくのを感じて、体を離して顔を覗き込むと、親に抱かれた子が見せるような満足そうな笑顔が見えた。


 指で涙をぬぐってやると、

「それで、一口大はどう切ればいい?」

と尋ねてきた。


 野菜を切り終わり、厚めにスライスしたベーコンを充分炒めて油を出してから野菜を炒め、水を入れて煮始める。


 途中、なぜタマネギはこんなに私をいじめる? と、苦情を言うジゼルに、

「食べられたくないんじゃないか?」

と冗談を言った積もりが

「なるほど、ならば食べるのはやめておこう」

と真顔で言うのを、そこまでやったのだから、頑張って刻んで、食ってやらなきゃ却って可哀想だぞ、と誤魔化した。


 煮ている間にパンを作ろう、と言うと「今日はもう疲れた」とジゼルは本棚の前のソファーに寝そべった。


「そう言えば、自分の本棚にどんな本があるか、把握していないのか?」

とロファーが問うと

「当り前だよ」

と答えてくる。


「この本棚は魔導士学校の蔵書庫に繋がっている。どれほどの本があることか。校長だって把握してないと思う」

「繋がっているって?」

「蔵書庫の一部を切り取って、ここに置いた」

事も無げにジゼルが言う。


「だから、この前に立ち、どんな本が欲しいか願えば、禁書でなければ本棚が探して持ってきてくれる」

「よく判らないが、かなり便利なのは判った」


ジゼルがにこりと笑う。

「まぁ、常人のロファーはその程度の理解でいい。調べ物がある時はここに立ち、胸の内で調べたいことを考えれば、見合った本が棚から飛び出してくる。ロファーならいつでも好きな時に使っていい」


 そりゃあご親切に、と言いながら

「その、『常人の』って言い方、酷くないか?」

と抗議する。すると、

「今から魔導士になってみる? そしたら常人ではなくなる」

とジゼルが真顔で答え、ロファーを苦笑いさせた。


 疲れて作る気になれないが、パンは食べたい、とジゼルが言う。


 それじゃあ、俺がやるから、近くで見て覚えろ、と材料を揃えてロファーがキッチンに立つと、ジゼルはロファーのすぐ左に立ちロファーを見上げ、にっこりする。その時やっとロファーはあることに気が付いた。


「背が伸びた?」

ん? とジゼルが首をかしげる。


「昨日、広場で見た時は俺の臍位だと思った。次には鳩尾みぞおちには届かないと思い、今日は鳩尾よりは高いが、あごには到底届かないと思った。いくらなんでも、そこまで見間違えるはずがない。だとしたら背が伸びたのか? そうだとしても急激すぎる……いや、なにも、そんなことぐらいでおまえを嫌わないから安心しろ」


 そんなことぐらい、なのか? と、疑問に感じながら、そう言わないとジゼルにまた泣かれると、慌てて付け足すロファーだ。


 ぽかんとロファーを見ていたジゼルだが、段々と不安げな顔になり、ロファーの最後の付け足しで安心し、にっこりした。


そして、

「ロファーがそう言うのなら、背が伸びたのだろう」

と言った。

「私は自分を見ることができないから、よく判らない」

と、少しまた不安そうになった。


 いや、誰でも鏡などを使わない限り自分を見ることはできないさ、と思いながら、それは口にせずロファーが訊く。

「魔導術で背を伸ばしたのではなくて?」

「そんな魔導術は聞いた事がないけれど?」

でもあるのかな、人をカエルや山羊に変えるなら私にもできるから、もっと強い魔導術を使える魔導士なら成長させることもできるのかも、と言ってロファーの背筋を凍らせた。


「ひょっとして、ジゼルを怒らせたらカエルに変えられちゃう?」

「罪人にならそんな術を使うかもね」

魔導士が罪人を処罰することはロファーだって知っている。だけどその中に変身させる、と言うのがあるとは知らなかった。


「どちらにしろ、私の背が不自然な成長を見せていても、魔導術ではない。もし、誰か別の魔導士が私に術を掛ければ、気が付かないはずはないし、保護術は有効に働いている。有り得ない」

「ジゼルがそう言うのなら、そうなのだろうね」

納得できなくても、納得するしかない。


 この勢いで伸びれば、二日後くらいにはロファーの背丈を超えるだろう。雨後の筍か? 想像すると、笑いがこみ上げてくる。


「今日のロファーはよく笑う。怒っているよりはいいけれど」

少しジゼルは不満げだ。


 小麦粉と塩、砂糖を混ぜ合わせ、そこに卵とバターとパン種を加えて捏ね始めると、へぇ、と更にジゼルはロファーに近寄る。背中に何か感じたのは、ジゼルの手がロファーのシャツを掴んだからだろう。


 出来上がったパン生地を丸めて、それを濡らした布巾を固く絞ったもので包んだ。


「あとは三倍の大きさになったら、一度叩いて余分なガスを抜き、いくつかに小分けして、食べたいパンの形に成型する。この時、生地を少し取っておけば、次にパンを作るとき、それがパン種になる。できそうか?」

とジゼルの顔を覗き込むと、首を傾げて見返してくる。


 うん、無理そうだ、今日は諦めるしかない、帰って仕事をしようと思ったが、もう、夜にやるほかないようだ。


 そろそろ煮えただろうと鍋を見ると、いい塩梅だ。食器棚からスプーンを出して少しスープをすくってジゼルに渡す。


「味を見てごらん。あ、味を確かめてごらん」

スプーンをじっと見るんじゃないか、不安になって言いなおす。うん、と素直にジゼルはスプーンに口を付けると、

「美味しくない」

と悲しそうに言った。


 ジゼルからスプーンを受け取ってロファーも味を見る。

「親指と人差し指、それに中指で塩を摘まんで鍋に入れて」

とロファーが言うと、ジゼルは自分の指を見て確認してから、塩を一つまみ鍋に入れた。


 再びスプーンにスープを掬い、

「さっきと同じように味を確認して。これは味見と言うんだよ」

とジゼルに渡した。すると今度はニコリと笑顔を見せた。

「美味しくなっている……」


 よし、それじゃあこれは完成だ、とロファーが言うと

「ありがとう」

と、また背中から抱き着いてくる。


 いちいち抱き着かなくていいよ、とロファーが言うと、では、どうやって感謝の意を示したらいい? と訊いてくる。


「今までいつもそうしていたのか?」

「今までだれかに感謝するなんてなかった、ジェシカが初めて。ジェシカは抱き着いたら、よしよし、と言って笑ってた」


「なるほど、ジェシカか。ジェシカは年の離れた妹や弟がいるから、慣れているのかもね。俺は慣れてないから、抱き付かれたらどうしていいか判らないや」

「困るの?」

「困るというか、戸惑うね。小さい子どもは嬉しいと抱き付いたりするものだけど、おまえくらいの年だとしないかな」


 人と人とは丁度いい距離を保って接するものなんだよ、大人になればなるほどね、とロファーは言った。


「抱き付くのは近すぎる?」

「そうだね」

判った、気を付けるね、とジゼルはニッコリと笑った。

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