第32話 新たなる明日へ
「あんたら、全員帰っていいぞ。上には報告しておいたから」
「警視さん、ありがとうございます」
「なに、いいってことよ。それよりお前さんも、そろそろ年貢を納めたらどうだい」
警視の意地の悪い質問だった。
「雄一は私と結婚しますのでお気遣いなく」
真弓が身を乗り出して話に割って入ってきた。
「ははは、あんたはあれだけ詰められてもピンピンしてるな。元気がいいことでなによりだ」
理乃さんいや優子さんは警視に向かって深々とお辞儀をした。
「このたびはたいへんご迷惑をおかけ致しました」
「まあ事情もわかったし、あんたも成り行きでこうなってしまっただけだ。でもまあ最初から素直に言ってくれればよかったんだけどな。そうすれば騒動にすらならなかったろうに」
「反省しております」
「まあいい。あんたら幸せになれよ。昨日のことばかり見ていないで、これからは明日へ向かって頑張れや」
はい、と三人で声を揃えた。
「それより帰りはどうする? 俺たちも早とちりとはいえ覆面パトカーで連れてきちまったからな。必要ならそれで送り返すが」
「いえ、まだ容疑者の気分になってしまいますから、スマートフォンでタクシーを呼びますよ」
「そうか。まあ今回の事件──とも言えないが、解決したのはお前さんのおかげだ。押収した資料の類は部下に言って今日中に送り返させるからな」
警視が右手を差し出してきた。それを握って答えた。
「ありがとうございます。では失礼致します。たいへんお世話になりました」
警視庁をあとにして、会社へ向かうタクシーを待っていた。
「真弓さん、関係ないあなたまで巻き込んでしまって本当にごめんなさい」
「まあ失踪がなかっただけよかったわ。まさか雄一があなたを殺したと言われて逆上していたくらいだったから」
「お前は俺をどう見ていたんだよ」
「二度目のお相手に決まっているじゃないの」
ふたりの顔から
「これからどうしますか、理乃さん。俺が決めるものでもないんだけど、会社では今までどおりビジネスネームを使い続けますか。それとも本名に戻しますか」
「そうですね。とうぶんはビジネスネームのままにします。いきなり名前が変わったら会社の方々からも不審がられますし」
「確かに今まで『坂江取締役』と言っていたのに、今日から『
結婚してもいないのに名字が変わるだけでもたいへんなのに、名前まで変わってしまったら皆混乱してしまうだろう。
「ええ。それにこのビジネスネーム、有名な占い師の方につけていただいたんです。仕事では大吉なんだそうですよ」
「へえ、私も占ってもらおうかしら。雄一と結婚できるかどうか」
その言葉ににやりと返した。
「なに余裕かましているんだ、おまえは。考えてもみろ。俺が気になっていた三人のうち
「そう言われたらそうよね。でもこれからは私と理乃さんのふたりだけになるんだから、一騎討ちとも考えられるわよ。絶対に負けないんだから」
「私も負けませんわ」
「雄一はどちらをとるの?」
「あ、タクシーが来たな。こっちこっち!」
「さりげなく無視したわね」
真弓の恨めしい声が聞こえたがここはスルーしておこう。
「常務、このたびはたいへんご迷惑をおかけ致しました」
三人で常務に謝罪した。
「なに、事情は先ほど警視さんから電話で伺った。それを受けて緊急の取締役会を開いて今回の件を報告しておいた」
「どんな処分も甘んじて受ける覚悟です」
「ああ、高石と岡田はなんらかの処分を覚悟しておけよ」
「私の出世もここまでなのね」
「お前の上は取締役しかいないんだから、とうに出世しているだろうが」
常務はがははと笑った。豪快な人で助かった。
世間体を気にする人だったら、今頃俺たちは会社を追われていたはずだ。
「坂江さん、あなたのほうも向こうへ報告しておいた。まさか『坂江理乃』がビジネスネームだとは俺も思わなかったよ」
「申し訳ございません。うちの会社では取締役はビジネスネームを名乗ることになっていまして」
「それも聞いたな。社長ですらビジネスネームだと知って驚いたよ」
「わが社くらい大きくなると、本名で執行役員を務めているだけで、何者かに狙われるおそれがありますので」
「用心深いのも結構だが、こういうときに困るわな。で、どうするね。うちでの呼び方。まだ『坂江理乃』でいいのかな」
「はい、これからも『坂江理乃』でよろしくお願い致します」
「わかりました。それと高石。もうじき部長だが、真弓にしろ坂江取締役にしろ、どちらかを選んだら必ず幸せにしてやるんだな。お前ならそれができると信じているぞ。お前の手腕は高く買っているんだからな」
「はい。部長の役職に恥じない私生活を築いていきたいと存じます。どちらを選ぶかはまだ結論が出ておりませんが。もう以前のように女子社員をつまみ食いすることはありません」
「その意気やよし。もう俺や岡田の手を
「常務、私の降格はどうなるんですか?」
「なぜお前を降格にせにゃならんのだ。罪を犯したわけでもあるまいし。お前に秘書室長をやってもらわんと。あれだけの美女揃い、俺ひとりじゃ統率できんじゃないか」
「ねえ、雄一、理乃さん。今晩うちに寄っていきませんか?」
「あれ、お前、秘密主義はどこへ行ったんだよ」
以前はどのマンションに住んでいるのか、聞いても教えてくれなかったのに。
「雄一と理乃さんのマンションはわかっているのに、こっちだけわからないのはフェアじゃないわ」
言われてみればそうか。こっちの居場所はすでに知られているも同然だ。理乃さんの部屋だってうちの隣だからすぐにわかるだろう。
「実はここなのよね」
と案内されたのは……。
「ここって……うちの隣のマンションじゃないか!」
「そうなのよねえ。このへんですぐに入居できるマンションを探してもらったんだけど、ここしか
そんなことを言いながらマンションのオートロックを解除して中へ入っていく。俺たちはそれに付いていった。
それにしてもここまで周到に狙っていたのか。そもそもなぜ真弓は俺のことをそんなに気にしているんだろうか。
「お前、俺のどこに惚れているんだよ」
「夜のテクニックに決まってるじゃない」
「な、お前、公衆の面前で言うことかよ、それが!」
思わず赤面してしまった。
以前はなんとも思わなかったのに、今は致すことを口にするのが
少しは真人間に近づいたのだろうか。
「まあ付いてきてよ。簡単なものだけど手料理くらいご馳走するわよ」
「真弓さん、料理おじょうずなのですか? 私、夜はコンビニ弁当ばかりで……」
「料理なんてコツさえつかめば簡単なものよ。理乃さんにもこれからたっぷり教えてあげるわ。敵に塩を送るのが私のスタイルですので」
「では遠慮なく教えていただきますわ」
「
「お弁当は買ってくるだけですから。量も少ないですし、好きなものだけ買えばよいので」
「ああ、なるほど。夕食はガッツリ食べたいし、毎日のレパートリーを考えると難しいよね」
「そういえば高石さんの朝食、手早く作っている割にはおいしかったですよ」
「それは言えるわね。単純にトーストとサラダと飲み物だけなんだけど、なぜかおいしいのよ」
「コーヒーにはこだわっているからな。どこの粉末コーヒーがおいしいのか。日々開拓している俺の苦労もわかってほしいところだよ」
食事を終えて、俺の部屋でコーヒーを飲んでいる。
「やっぱりこのコーヒーは絶品ね。これが粉末コーヒーっていうのが信じられないわ。今度仕入先を教えてよ。私も飲みたいから」
「うちでしこたま飲む、という選択肢もあるぞ」
「そうね、それもいいかも」
真弓は肩を揺らしている。
「高石さん、ライバルを容易に近づけないでください。飲むのなら三人で飲みましょうよ」
「それもいいわね。三人で夜明けのコーヒーを飲むのも悪くないわ」
勘弁してくれ。
ふたり同時に「二度目」の相手なんてできるか!
「まあそれは冗談にしても、毎週日曜にでも皆でコーヒーを飲む時間を持つのも悪くはないわね」
「今回のことで、変に隠しごとをすると皆さんにご迷惑がかかるとわかりました。皆で隠しごとをせずにお付き合いしていきましょうよ」
「そ。たとえ雄一がどちらかを選んだとしても、この友情が
まったくだ。ひと騒動を経験して、俺たち三人には強い絆が生まれたようだ。
そして真弓と優子さん、どちらを選んでももうひとりを
結婚はひとりとしかできないが、友情は何人とでも結べるのだから。
自分と結婚しなかったからといって見向きもしなくなるような間柄の人と付き合っていたなんて考えたくもない。
そもそもなぜ結婚するとその相手ひとりだけとの関係に集約しなければならないのか。
新しい明日を築くなら、この三人が一丸となって挑めばいい。
明日はなにも決まっていないのだから。
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