第八章 新たなる明日へ
第29話 追憶、そして……
結局その日のうちに聴取は終わり、翌日いつもどおり出社した。
真弓と理乃さんが出社しているか確かめるためにも、心配をかけた常務へ報告に向かう。
秘書室に入るとそこに真弓がいた。彼女も昨日取り調べを受けたのだが、関係が薄いということで参考人としてだったそうだ。
彼女を介して常務室に入った。
「おう、ご苦労さんだったな。昨日のうちに刑事さんから電話があってな。お前はシロだろうって話だった。信じとったぞ」
「常務、たいへんご迷惑をおかけ致しました」
「しかし、事情聴取を受けとるときくらい仕事はいったん忘れたらよかったのにな」
笑い声が室内に響いた。
結局解放されたのは、真弓と理乃さんが聴取されたあと、夜九時を過ぎてからだった。
それだけの時間があれば、なにもしないのは効率が悪すぎる。
潔白なのだから仕事を停滞させるわけにはいかない。
「今回の件でお前の昇進話にケチがついたが、予定通り九月から部長だ。それを見据えていろいろ準備しておけよ。まあ俺が言わなくてもだいじょうぶだと思うがな」
「もちろんそのつもりです。隣人トラブルの一種ですが、解決しないと私もなかなか腰が落ち着かないものですから。そちらの解決も図らなければなりませんね」
容疑がかけられている以上はそれと向き合わなければならない。冤罪で退社を迫られたとしたら、大きな悔いを残すことになりそうだからだ。
常務がやさしい表情を浮かべる。
「あまり根を詰めるなよ。なにか厄介な出来事があったら、岡田をうまく使ってくれ。彼女もお前のためならなんでもやるぞ。誘拐や殺人以外だがな」
「あの人は頼りになる方ですので」
「できれば幸せにしてやるんだな。本人もそのつもりなんだから」
真弓の覚悟はそれほどなのか。決めかねているこちらが未熟なままでいるような気がした。
「私はまだ、誰のことが本当に好きなのか、決めかねております。いちおう三人にまでは絞りこんだのですが、そこからが難しくて」
「まあ俺に恋愛のことは聞かんでくれよ。お前と違ってこっちは学生結婚だったんだから」
この豪快な常務が学生結婚だった。真弓から聞いたことはあるが、なかなかに信じられない話である。若い頃は俺並みに女性に手を出していたらしいけど。
しかし結婚して、責任感を持って仕事をしてきたからこそ、常務取締役にまで登りつめたのだろう。ただ威勢がよくて包容力のある年配というだけではない一面が垣間見れた。
「常務、どうだった?」
「信じていた、と言われたな。あとお前を頼むって」
「やはり常務にはバレていたようね。極力隠していたんだけど」
「まあ社内外で一緒にいることが多いんだから、なかなか隠せないよな、俺たちの場合」
勤務している部署が異なっているのに、昼食を一緒にすることも多く、社内では公認の関係に見えていたことだろう。
そういえば真弓たちはどんなことを聞かれたのだろうか。
「私、刑事から『お前が殺したんだろう』って言われたわ。冗談じゃないわよって怒ったら『そんな性格ならやりかねねえな』ですって。そんな反応にさせたのはあんたのせいでしょうって怒鳴り返してやったわよ」
「それ、ますます状況を悪くするだけだぞ」
「私も思ったけど、言いたいことを言わないと気が済まなくって。今でも怒りがこみ上げてくるわよ」
確かに言いたいこともわかる。俺だって冗談じゃねえ、くらい言ってやりたかったところだ。
「あとは理乃さんか。彼女、出社しているのかな?」
「ええ、出社した際に必ずうちに寄ってくれるから」
昨日の今日だから真弓にもついてきてもらおうか。
しかし彼女も昨日の遅滞を取り返そうと、秘書室をにぎやかにしていたので結局ひとりで行くことにした。
理乃さんの執務室はここの右隣のブースにある。確かにこれなら毎朝顔を出せるな。
秘書室にはひとりだけが詰めていた。理乃さんは担当秘書をひとりしか連れてこなかったのだ。彼女に取り次ぎを頼むと、程なくして執務室へ案内してくれた。
理乃が秘書にお茶はいいわよと告げていた。
「高石課長、お疲れさまでした」
「坂江取締役も、昨日はご迷惑をおかけ致しました」
ソファに促され、着席すると彼女が向かいに座った。
「高石課長にとって、
「そうですね……。なかなかひと言では表せません」
どうも彼女のことは話しづらい。顔見知りなのは確かだが、実はあまりよくわかっていないのだ。
「素直な印象をお聞きしたいんだけど」
「素直な、ですか。そうですね。そばにいると楽しくなる人、ですかね」
「楽しくなる……」
「でも、どこか線が細いところもあって……。その割には朝方に部屋のドアを叩いて『ヤッてる』とか言うんですよ」
「それはたいへんね」
「ですが、その強そうな印象があるのに、どこか
「私や真弓さんとは異なる感情なのでしょうか」
「三人三様と言いますが、やはりそれぞれに抱く感情は違います」
頭を掻きながら挙げていく。
「真弓はとにかく強い女性です。どんな困難なことにでも挑戦していって、持ち前のパワーでぶち抜いていくような」
言いすぎかなと思わないでもない。
「でも、そのぶん影で誰かが支えてあげないと、いつかポッキリ折れてしまいそうな。そんな脆さが見えるときがたまにあります」
「あの真弓さんでもそんなときがあるのですね」
「ええ、気が強いのを売りにしているぶん、誰かがサポートしてあげられたら、そのぶんさらに上までいけるような人ですね」
真弓が男だったら親友になれたに違いない。あの常務譲りの豪快さは、入社してふたりとも総務企画課へ配属となり、仕事に行き詰まっているときはすこぶる頼りになった。それなのに常務秘書室へ異動となり、急に疎遠になりつつあった。
それでも彼女はこちらを気にかけてくれていた。その情熱は出会った頃からなにひとつ変わらない。
そして理乃さんを見据えた。目線を外さないよう意識する。
「理乃さんは、知的な印象を受けます。とくになんでも強引に進めようとする真弓と比較すると、選択に慎重なところがあります」
そうですか、と微笑んでいる。
「化粧がいくぶん派手ですが、おそらく薄化粧でもじゅうぶん美人だと思います。それを隠すためにあえて濃くしている印象すら受けますね」
「あら、あなたから美人と言われるなんて、ちょっと照れちゃうわね」
「女性を美人かブスかで論じたくはないので、日中では言いませんね。それでも表現したいときは美人とか美女とか、そういう言葉は使います。悪いほうはけっして言いませんよ」
それだけではなかった。
「ただ時折、なにか隠しごとをしているような印象を受けます。誰にも絶対に踏み込まれたくないなにかを持っている。おそらく私でも立ち入れないでしょう」
「それは確かにありますわ。誰にも話せない、誰も知らない私がいる。だから今の私は頑張れるんだと思います」
「そのせいでかはわかりかねますが、行動が慎重になりすぎる面がありますね。そこが男心をくすぐるのですが。自分色に染めてやりたいって思ってしまいます」
「学生時代はそうでしたわ。周りの男性が私を奪い合うんです。自分のものにしたいって意識が強すぎるのかもしれませんね」
「男にそうさせるだけの魔力が理乃さんにはあるのでしょう。だからそういったところを巧みに隠していらっしゃる」
「でもあなたと出会って、考えが少し変わったような気がします」
「そう言っていただければ光栄です」
理乃さんは意地悪な顔を浮かべている。
「それで、私と真弓さんと
「今は三人とも同一線上ですね。誰かが抜きん出ているわけではありません。ただ、そろそろ決断しなければ、とは考えています」
「誰かを、選ばれる、と……」
「まあそのためにも
理乃さんは真剣な面持ちでいる。
「おそらく、ですが……。でも、あの遊園地をもう一度訪れて、今度は彼女が楽しみたいようにさせてあげたいんですよね。あのときは私が強引すぎましたから。彼女、おそらくそれほど楽しめなかったと思うんですよ」
「それで、もし
理乃さんはさらに思いつめたような表情をしている。
なにかあるのか、この質問に意味が……。
「そうですね。もし亡くなっていたとしても、私が後追い自殺するのは望んでいないのではないでしょうか。彼女は少なくとも私が知るかぎりでは、誰かを殺そうとしているようには思えません。元カレが自殺しているのを今も気に病んでいるくらいです。もし私が早とちりをして自殺してしまったら……。彼女に合わせる顔がありませんよ」
「そう……ですか……」
「もし本当に亡くなっていたとしても、彼女を供養し続けるほうが彼女のためになると思います。自殺したとしたら、誰の幸せも守ってあげられなくなります。理乃さんにしても真弓にしても……」
理乃さんは下を向いていた。声をかけようとしたが、震えていて声が出せないようだった。
やはりなにか隠しているのだろうか。
もしかして彼女が
いや、そんなはずはない。理乃さんにそれができるはずはないんだ。彼女は……彼女は……。
待てよ……。
そうか、そうだったんだ!
今までなぜ気づかなかったんだろう。答えはとても近いところにあったのに。
同情じゃなく、愛情でもなく。
本当の彼女から目を背けないように。
心の孤独を誰かが照らさなければ、彼女は救われない。
それが今わかった気がする。
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