第五章 昇進を期して
第17話 呼び出し
これからは彼女と向き合って、仕事に専念するほかない。
真人間とは言わないまでも、できるかぎり女性関係を抑制しよう。
しかし会社にはこれまでベッドをともにしたことのある女性が多かった。今年の新入社員にはまだ手をつけていなかったものの、それ以外とはかなり幅広く致していたのだ。
今日とて、関係を持ったことのある女子社員から誘いを受けている。だが最近では、食事に誘うだけで寝ることはないよ、と伝えても「食事だけでも」とOKしてくれる女性が多かった。
そこには常務と秘書室長の真弓が女子社員へそれとなく圧力をかけていたからでもあろう。当の真弓が「社内の連携をとるうえで、食事などをともにするのは当たり前です」と社内報で発言しているのも大きかった。
彼女が迫ってくるのは誰もが知るところであり、会社ではいわば「本妻」とみなされていたのだ。
その彼女が許しているのだから、一夜をともにせず食事程度の付き合いなら許されるという風潮が生み出されていた。
その真弓から常務執務室へ来るよう伝えられていた。
「高石課長、お早いお着きで」
「常務からの呼び出しですので、馳せ参じました」
「十四時の予定で、十三時半に到着してお待ちするというのですか」
「お待たせするわけにはまいりませんので」
秘書室長と型どおりのあいさつをしたあと、常務執務室で待つこととなった。
ドアを閉めた途端、秘書室長が慣れた口をきいてきた。
「なにかいいことがあったような顔をしているわね」
「常務から悪い知らせを受けるようなヘマはしていないつもりですので」
「そうじゃなくて。お隣さんとうまくいったのかしら?」
やはりこの人には隠しごとはできないな。
入社同期でありながら、片や課長、片や秘書室長である。
出世のスピードには個人差があるとはいえ、彼女の栄達は目覚ましいものがあった。
「引っ越すという話が出たんですが、なんとか踏みとどまっていただきました」
「どういうこと?」
「実は、うちの部屋に盗聴器が仕掛けてあったんですよ」
「ええっ!? それいつ頃なの?」
「入社した後で、隣人が部屋に訪ねてきたことがありまして。おそらくそのあたりに仕掛けられたものかと」
事の経緯をありのまま述べた。
「それじゃあ、私の声も聞かれていたかもしれないってこと?!」
「最悪は……」
「はあ……、録音されて変なことに使われないといいんだけど」
ヤツがうちにやってきて、目を盗んでベッド周りに盗聴器を仕掛けた。だが真弓との頃はまだ時期的にかぶっていないはずだ。
「ですが、これで彼女にうちのベッドの音が漏れていた理由がわかったんですよ」
「その元隣人が受信器を設置していたってこと?」
「うちに仕掛けられた盗聴器が六つ。
「それでどうしたのよ」
警察を呼んでいたので、探索がスムーズに行なわれたのだ。
「被害届を出して元隣人を探していただいています。刑事さんの話だと、録音されている可能性が高いそうですが、売りつけるにしてもルートがあまりないそうで。市場に流通していたとしても警察の情報網に引っかかるかと。いちばん多いのは個人で楽しむためだそうです」
「個人の趣味ねえ……。それでもあなたとの熱い一夜がダダ漏れにされていたんじゃたまったものじゃないわね」
「頼りになりそうな刑事さんだったので、すぐに捕まると思いますよ」
「そう願いたいものね」
夜の秘め事で男はあまり大声を出さないが、女性は羽目を外して大声を出すと思われがちだが、きちんと抑制が聞いているものなのだ。
このあたりはアダルトビデオや成人動画の影響が大きいだろう。
しかし真弓も自覚があったのだろうか。とくに「防音だから」と部屋に誘っていた俺にも
「実は盗聴器がわかったのも、彼女が引っ越すと言い出したからなんですよ」
「どういうこと?」
あの騒ぎの一連を詳らかにした。
「なるほどね。急病かなにかと勘違いして、警察官を呼んで踏み込んで、結局誰もいなかった。でも彼女が退去すると言い出したのはあなたのベッドの音が漏れていたから」
「
「それで持ち前のカンが働いたわけね。まさにケガの功名だわ」
約束の時間が近いので、そろそろ怒りモードを解除しておいたほうがよいか。
美人は怒っている顔もさまになるから困るな。
「ちなみに元隣人がうちに初めてやってきたのは、真弓と寝た後でしたよ」
「なんだ、それじゃあ心配して損したわ」
あっけらかんとした様子だ。
自分に累が及ばないとわかればこうなるんだ。この人は。
「いや、おそらく秘書室長と夜にうちへ入ったのを見ていた野郎が、音だけでもいいから聞きたいと思って盗聴器を仕掛けに来たと考えてよいかと」
「きっかけにはなったってことか。美しいって罪なことね。真面目な青年を犯罪者に変えてしまったんだから」
自分で言いますか、美人って。
「あ、それじゃあもうあなたの部屋で寝ても、隣人さんには聞こえないってことね」
「そういうことになりますね」
「それじゃあ、私とまた熱い一夜を迎えても誰にもわからないわね」
やはりそう来るか。
「まだ『同じ女とは二度と寝ない』主義を撤回したわけじゃありませんよ」
「いいじゃないの。もうお隣さんにも私のことは説明したんでしょう」
「説明はしましたが、理性より感情が先に動くかもしれません。昨日の今日ですし、とうぶん女性は呼べませんよ」
「あら、坂江取締役が寝たいって言ってきても呼ばないの?」
理乃とはできれば早く会いたかったが、向こうも取締役としての仕事がある。気楽にわが社へ顔を出せるものでもない。
「まだその時期じゃないと思います。
「関係を整理したいってこと?」
「今までが
「これで昇進でもしたら、ますます身を固めるように常務から言われるでしょうね」
まあ役職に就いたときに女性関係が整理されていればよい、くらいの心づもりではいたのだ。まだ時間はあるだろうから、今からじょじょに絞っていけばじゅうぶん間に合うだろう。
「まあ昇進はまだ早いですよ。三十前で課長というのも出来すぎなくらいですし」
「三十前で取締役もありうるかもね。それにしてもあなた、夜はあんなに自信家のくせに、昼は案外心配性なのね」
「昇進はルールがよくわかりませんからね。たまには常務へ提案などもしていますが、基本的には与えられた仕事を果たすのみですよ」
しがないサラリーマンは、上司から与えられた仕事に万全を期して取り組むだけだ。もちろん課長として部下を管理育成しなければならないが、自分はどちらかといえばプレイングマネージャーだから、俺の背中を見ろ、くらいの気構えでいる。
「で、身を固めろと言われて、今のあなたの視野に私は入っているのかしら?」
「これで入っていなければ、怒りを爆発されるんでしょうね」
「あ、そうか。彼女に『ふたり気になっている』って言ったのよね。ということは私も入っているんだったわ」
「ご明察」
他愛ない雑談をしていると、程なく常務が帰着した。
「おお、高石くん、来ていたか。さすがは時間に厳しい男だな」
「時間厳守くらいしか取り柄がございませんので」
真弓はそばの冷蔵庫から緑茶のペットボトルを出すと、ふたつのカップに注いで持ってきた。常務はありがとうと伝えると、それをひと息で飲み干した。その場で二杯目が注がれる。
「高石くん喜べ。総務部長への昇進が内定したぞ。九月には正式に辞令が下りるはずだ」
「いささか性急な気もしますが──」
「性急なものか。課長の権限だけでわが社のみならず、他社と交渉して業務提携案に漕ぎ着けた実力は、取締役会でも高く評価されている」
私だけの力ではない。そう伝えたが、一顧だにされなかった。
「それだけでなく、これまでの精勤への褒美もある。報奨金の支給も決まった。そろそろ身を固めるべきだぞ、高石くん」
秘書室長が常務の後ろで気づかれないように小さく笑っている。
真弓はこうなるとわかっていて、さっきまで話をしていたのか。やはり食えない人だ。
「身を固めるにしても、ふさわしい女性が幾人もいるのに、当の本人が不適格者ですからね」
「だから報奨金を使って身辺を綺麗にしておくんだ。そうすればもっといいことが待っているはずだぞ」
どんないいことがあるのかはわからないが、この常務を信頼していれば地位がみるみるうちに上がっていくのは明白だ。
商社で俺が二十代で課長をしているのも、常務の覚えがいいからだ。
やはりこの常務には逆らえないな。こうやって社内に独自の派閥を作ってきたのだろう。
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