第16話 何処へ

 結局その日、紡木つむぎさんは帰ってこなかった。


 念のため、彼女の部屋のドアに「盗聴器が発見されて回収されました」と短く書いたメモを差し込んでおいた。彼女の反応を見たかったのだが。


 なぜ彼女は「退去したい」なんて管理人に申し出たのだろうか。

 そして、なぜ部屋の中があんなに綺麗だったのだろうか。


 もしかして、あの部屋は日常を過ごす場所ではなかった、とか。

 本当に元カレに似ているからそばにいたかっただけなのかもしれない。

 それなのに、夜ごと女を連れ込んで致していたわけだから、彼女は深く傷ついたはずだ。

 一緒に遊園地に行ったのも、最後の別れを期して想い出を作りたかっただけではないのか。あくまでも元カレの代理として。


 その代償行動がかえって彼女の悩みを大きくした可能性はある。

 遊園地は彼女にとって元カレとの最後の約束であり、それが果たされずどうしようもなくやりきりない思いを抱いていた。そこへ、元カレに似た男が現れたのだ。

 無理を言ってでも「カレと遊園地に行く」という目標を達成したかったのではないか。その相手として選ばれただけで、彼女にとっては心残りがなくなって囚われていたものから解放されたのかもしれない。

 そうであれば、代償行動が果たされて彼女はそれで満足してしまったとも考えられる。

 それなら急に退去すると言い出した理由がわからないでもなかった。


「すべての約束が果たされて未練がなくなり、もう生きている意義を見いだせなくなった……」


 言葉にしてみると、とても納得できようはずもなかった。


 じゃあ俺はただ「カレの身代わり」であって、ひとりの人間とすら見てもらえていなかったのか。

 彼女が生にしがみついていた「生きる意味」を、最後の約束を果たすことで断ち切ったというのだろうか。


 それでは駄目だ。


 彼女は死人に縛られてはならない。いや、なんびとも死者に囚われてはならないのだ。

 生き続けるのは、死者に「いい思い出になったからもうだいじょうぶ」と知らせるサインであるべきだ。死者の呪縛から逃れられず、死にいざなわれてはならない。

 生き残った者は、死者のぶんまで生きてこそ、役目を果たせるのではないか。

 今よりも幸せになることで、死者への手向けとするべきではないのか。

 死者はもはや現世へ介入してはならない。それを許せばテロリストや殺人犯を肯定するのと同義だろう。


 なんとしても彼女と話さなければならなかった。

 まだ最悪の結果になったと決まったわけではない。

 彼女を説得してこちらの世界へ引き戻さなければ。

 もしそれが叶わなければ、彼女との騒がしい朝は永遠に想い出の中だけになってしまう。


 とにかく、彼女を探さないと。しかしどこを探せばいいのだろうか。

 彼女が立ち寄りそうなところは、隣の部屋と俺の部屋、それ以外に……あの遊園地か? もっと他にないのか……。

 そうだ、思い出した。

 あのフランス料理店がある。あそこに女を連れていくことを知っていたのだ。もしカレではなく俺に用事があるのなら、俺ゆかりの場所を選ぶはず。

 もしあそこにいてくれれば、まだ望みはあった。


 矢も盾もたまらず下着と洋服を着ると、すぐそこへ行こうとした。

 だが、念のため隣の部屋に寄ってからだ。

 靴を履いて玄関を出ると、隣の部屋の呼び鈴を押してみた。物音はしなかった。

 やはりいないのか……。試しにもう一度鳴らしてみる。

 反応はない──と思ったら、内鍵を外す音が聞こえてきた。

 まさか戻っていたのか?


 ドアが開くと、涙で目を腫らした女性が現れた。

 よかった、帰ってきたんだ。

 彼女には話しておかなければならないことがある。まだいてくれたことに感謝した。


紡木つむぎさん、実は君の部屋にあがらせてもらったんだ。管理人さんが心配していて。毎朝ケンカしていた俺のところにやってきたんだけど──」

 涙は止まっているようだが、鼻をぐずつかせていた。

「管理人さんから聞きました。私が急病じゃないかということで入られたんですよね」

「あ、ああ。でも紡木つむぎさん中にいなくて……。それより、退去したいって本当?」


「──ええ、事実です」

 一拍置いた紡木つむぎさんが気持ちを落ち着かせようとしている。


「なぜなんだ? 俺が他に気になっている女性がふたりいるって言ったから?」

「そうじゃないんです。私、あなたをただ利用していただけだって気づいてしまったので……」

「利用していただけって、もしかしてカレの代償として俺と遊園地に行ったことかな? それなら気にしていないよ」


 紡木つむぎさんは押し黙ってしまった。考えていたことを拙いけど言葉にして彼女に伝えた。


「おっしゃるとおり、死んだカレに縛られていたんだと思います。それでもう約束は果たしたから死のうって……」

「じゃあ俺と付き合うっていうのも、そのカレの代償としてなのかな?」


「──わかりません。あのときあなたにカレを重ねていたのだと思います。でも、素直でやさしいあなたに触れて、この人となら……と思ったのも事実です」

「素直……俺が?」

「はい。普通、女性から付き合ってくれと言われて『他にも気になっている女性がふたりいる』なんて言えませんよ。せっかくヤレるチャンスじゃないですか」

 無理に笑みを浮かべているようだ。

「ただ、もう一度捨てられてしまうかもしれない、と。そう思ったら怖くなってしまって」


 この話は廊下でするべきか。俺の部屋へ誘ったほうがよさそうだが……。


「俺は『同じ女とは二度と寝ない』主義でここまで来たんだ。だけどもう一度寝てもいいと思った女性がふたりいるとわかったんです。ひとりは同じ会社の方で、もうひとりは取引先の方。すでにふたりとは事を済ませているけど、おそらく紡木つむぎさんは知らないと思う」

「ここから先は同じ階の皆様にご迷惑がかかります。よかったらあがってください」

 ようやく彼女公認で部屋へあがらせてもらえた。


 ダイニングテーブルの椅子を示されたのでそこへ着席する。彼女は向かいの席にまわった。

「あ、そうだ。これも管理人さんから聞いているかもしれないけど、俺の部屋に盗聴器があってさ。それも六つも。警察の方に来てもらって探してもらったんだ。それでこの部屋にその受信器があるんじゃないかということで、警察の方があちこち探して。それでコンセントやベッドのフレームや底なんかに仕掛けられていたんだって」

「はい、伺いました。今までごめんなさい。防音だというので安心して選んだのに、よりによって隣のあなたの夜の声が筒抜けになっていて……。せっかくこの部屋を契約したのに、こんな残酷な目に遭わせられて……。正直に言って神様を呪いました」

「でも、もう俺の部屋の音は聞こえないはずだよ。あれだけ仕掛けられていて、当人がまったく気づかなかったんだから、間抜けもいいところだ」

「聞こえていたおかげで、最近は女性を連れ込んでいなかったんだな、とわかったのに。そんなに私に女性を連れ込んでいると気づかれたくなかったんですか?」


 軽口が出るようになれば、もうだいじょうぶだろう。

 死のうなんて衝動的に考えるもので、意識をそこから引き剥がせば死にたいなんて思わなくなる。


「いや、君にじゅうぶん寝てもらいたかったから。声が聞こえてくるんじゃないか、と怯えながら暮らすより、よほど精神的に楽になるはずだから」

「そうですね。もう聞こえないんだとわかれば、ゆっくり寝られると思います。まあとうぶんは幻聴がするかもしれませんが。そのうちそれも消えていくといいな」

 笑顔が自然になり始めている。よほどつらい思いを抱えていたんだろう。

「そういえば、高石さん。この部屋でなにを見たのか教えていただけますか。女のひとり暮らしで、どこまで知られたのか気になるんですけど」

 彼女の追及の手が伸びてきた。


「え、いや、そんなに見ていないよ。洗濯カゴに洗い物がなかったり、食器を洗った形跡もなかった。ゴミ箱にもゴミがなかったし、床に塵ひとつ落ちていなかった。ベッドもしわひとつなかった。それで警察の方も『生活感がない』って言ってて。言われてみれば確かに暮らしていたようには見えなかったなあと」

「実はこの部屋、あなたのそばにいたかったためだけに借りていたんです。だから食事は弁当を買ってきて。使っていたのはトイレと流し台、それにベッドくらいです」

 そのくらいなら毎日綺麗にしておけるな。


「だから、あなたとお付き合いするにしてもこの部屋はもう用なしかな、と思ったのも確かです」

「よかった」

「なにがですか?」

「嫌われたんだと思っていた。まさか付き合おうって言ったそばから『他に気になっている女性がふたりいる』なんて言われたら、こんなトンチンカンな男と付き合えるか、ってなるかなと」

「そう感じましたよ、実際。なんでそんなこと言うのかなぁ、と。釣った魚にえさを与えないタイプなの? って」

 くすくすと笑っている。

「じゃあ、付き合うのが決まったから、やはりここを出ていくのかい?」

「そう思っていたのですけど、やめにします。あなたとの想い出がひとつ出来たから」

「これも盗聴魔のおかげかな」

「そうとも知らず毎日ヤッてた人のせいですよ」

 にこやかな顔を見て、ようやく気持ちが落ち着いてきた。これだけ笑えればもうだいじょうぶだろう。


「そういえば、靴箱が目に入って、紫のハイヒールが目についたんだけど、あれって今の流行りなのかな?」

「なぜですか?」

「いや、知っている女性も履いていたなあと思い出してね」

「あれ、知らないんですか? 女たらしのくせに」

 意地悪な顔をしてこっちを見つめていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る