第7話 業務提携

 常務が取締役会から戻ってきた。

「坂江取締役、お立ち寄りいただきまして誠にありがとうございます」

 常務はさっそく名乗るとソファへ歩み寄った。

 すぐに立ち上がって場所を譲ると、常務がそこへ座った。


「たいへんお待たせ致しました。こちらの取締役会でも今回の業務提携案が可決されました。これも坂江取締役のご尽力の賜物です。ありがとうございました」

「いえ、わが社にとっても今後を占う重要な提携となりますので、ご理解いただき感謝申し上げます」

 坂江さんがチラッとこちらに視線を送ってきた。

 だがこちらが合わせようとすると逃げるようにらされてしまう。

「確かに今回はこの高石くんの功績も大きいですな。多少難がなくもありませんが、優秀な課長ではあります」

 ガハハと豪快に笑いながら眺めてくる。


「恐縮致します。これもひとえに、常務に素早く取締役会を開催いただけたからに他なりません」

「君がとてもよい提案を持ってきたと確信したからな。うん、ピンときた。価値のない案件で取締役会など開けんよ。ですよね、坂江取締役」

「は、はい、このたびの業務提携は、わが社にとっても大きな飛躍となるまたとないチャンスでございます。担当部署同士の信頼感がなければ、この案はまとまらなかったことと存じます」

「そうですな。高石くん、君も覚悟しておきたまえよ。提携案を取りまとめた手腕は上からも高く評価されておる。あくまでも拒まなければ、だが、九月には部長の人事が内定しておる」


 いよいよ部長か。その座は理乃を使ってかちえたような気がしないでもない。

 そう考えると、目の前にいる彼女になにか申し訳ない気持ちが先走る。


 すると後ろからなにやら視線を感じた。

 ちらりとうかがってみると、秘書室長がにやにやしながら見ている。

 これは誰に対する嫌みなのだろうか。まあわからないでもないが。

 ただ昇進祝いだ、とまた誘いを受けることもありうるな。

 だが『二度目』がまだ頭をよぎってしまう。

 このぶんだと理乃とも『二度目』はないことになるな。

 彼女がそれを望んでいるのだろうか。

 今日せ参じたのも『二度目』を期待してのことかもしれない。


 いや、これはさすがに自惚うぬぼれがすぎるな。

 大手広告代理店の取締役が、商社とはいえ課長程度との一夜を待ちびているとは考えづらい。

 多分にビジネスライクでいるはずだ。


「高石くん、人事のことは正式に辞令が下りるまで内密にしたまえよ。それでは至急職務に戻ってくれたまえ。残り少ない課長職をしっかり噛み締めておくんだな」

 またガハハと豪快に笑っている。やはりこの人には勝てないな。

 人生経験の差もあるだろうが、心臓が鋼で出来ているに違いない。

 プレッシャーにまったく縁がなさそうな人である。

「かしこまりました、常務。では坂江取締役も失礼致します」

 真弓が先導して退室を促している。

 常務執務室にこのまま理乃を残していくのは忍びなかったが、常務の言うとおり自らの職務に精励しなければならなかった。

 常務のでまかせでなければ九月には昇進しているだろう。

 すると、これまでどおり女子社員をとっかえひっかえするわけにもいかなくなる。

 なにせ部長の上には役員しか残っていない。

 多くの部長が役員を目指している。

 競争相手に不都合なことがあれば、それを暴いて追い落とそうとするのは至極当然のことだ。


 だが、このところ女性に対していまいち食指が動かない。

 理乃を抱いた日から、なぜだか誰とも夜をともにしていないのだ。

 それで隣人の紡木つむぎさんが怒鳴り込んでこなくなって、静かな朝を迎えてはいる。

 しかし毎朝のように顔を合わせていたので、急に会わなくなるともの寂しさが募ってくる。


 理乃とは一度手合わせしているが、紡木つむぎさんとはそんな関係になったことはない。

 もちろん口うるさいからなのだが、こちらの正体を知っている女をあえて口説こうという気にもならない。


 理乃の顔を考えていると紡木つむぎさんが浮かんでしまうのは、理乃との朝に彼女が現れなかったからかもしれなかった。

 それだけで紡木つむぎさんに罪悪感を持ちつつ、理乃にも申し訳ない思いを抱いてしまう。


 常務秘書室を抜けてエレベーターホールへたどり着いた。

「だいじょうぶ。常務も昔はあなたに負けないほどのプレイボーイだったらしいけど、今じゃ性格も丸くなっていらっしゃるから」

 不安が顔に出ていたのだろうか。秘書室長がすかさず話しかけてきた。

「でも焼けるわね。あなたがそんなに心配するなんて」

「別に心配しているわけじゃないさ。ただいろいろあってね」

「いろいろ、ね」

 すると真弓が俺にすり寄ってくる。

「どうせ彼女と二回するのなら、先に私とはいかがかしら? 奮発しちゃうわよ」

「正直に言うと、最近女性と寝ていないんですよ。だからあなたを満足させる自信がないなあと」

「その程度なら問題ないわ。どうせ持っているものが錆びついているわけでもなし。テクニックだって実戦を始めたらすぐに取り戻せるわよ」

 彼女が耳元に口を寄せてくる。

「あなたの第二の筆下ろし、いただきたいものね」

 少し声を張りつつ、

「少し検討させていただけますか?」

 と答えると秘書室長はびっくりした顔をしたものの、すぐに爽やかな笑みをたたえて離れていった。

「期待しているわね」

 背を向けて左手で投げキッスすると、そのまま秘書室の中へ入っていった。



 午後からの仕事にも気合が入る。

 まさか部長へ昇進するとは思っていなかったのだ。

 しかし多くの人に支えられてのことである。

 自分の力で成し遂げたとは思えなかった。

 やはり理乃の存在が大きいだろう。

 相手の最年少取締役であり、あれだけの美人が発言すれば、周りが同調しても不思議はない。


「課長、今夜ご予定はございますか?」

 考えごとをしていると女子社員が声をかけてきた。

「予定はないけれど、なにか相談ごとかな?」

「はい」

 こちらの耳元に手を添えて小声で、

「来ないんです」

 と伝えられた。


 ちょっ、ちょっと待て。

 確かにこの子と寝てはいる。

 しかしスキンはきちんと使っていたはずだ。

 すべての女に対してそうなのだから、この子だけ例外なはずはない。

 それで妊娠なんて何万分の一の確率だろうに。

「冗談ですよ、冗談」

 イタズラっ子の表情を見せた女子社員がたたずまいを整えた。

「冗談って、君ねぇ……」

 くすっと笑った顔がまぶしく感じる。


「実は、近々結婚しようと考えておりまして」

「えっ、結婚? この時期に?」

「はい。実はもう両親には報告済みなんです」

「ということは退社するのかい?」

「そのあたりも含めてご相談したいのですが……」

 まあこの子ともお近づきになった過去があることだし、課長としても相談に乗らないわけにはいかないか。

「わかりました。それでは定時であがって待っていてください」

「かしこまりました」

 今にも弾みだしそうなほど嬉しそうに立ち去っていった。



 職場近くだと会社の誰かが来るかもしれないので、いつも寝る子と使うフランス料理店にやってきた。

「懐かしいですね。あれから何カ月経ったんだろう」

「う〜ん……たしか一カ月半くらい前じゃないかな」

 よく憶えていますね、と嫌みが返ってきた。

 全員憶えているわけではない。ただの当てずっぽうだった。


「それに君が『来ないんです』と言っていたから、それがわかるのってだいたい一カ月半から二カ月くらいだよね?」

「一般的にはそうらしいですね。個人差はあるようですけど」

 やっぱりサバサバした子だなぁ。

 まあだからこそ後腐れがなく、遊び相手としては好都合なんだが。

「それより、結婚する仲の男性がいるのに、なぜ誘いを断らなかったのかな」

「課内の女子がみんな褒めているくらいですから。それに課長に好意を持ってもいましたし。どうせ結婚したら浮気もできませんしね」

「ずいぶん軽く考えるんだね」

「課長が不器用なだけですよ。今どき『同じ女とは二度と寝ない』なんて言う人いませんよ」

 苦笑いするしかなかった。

 言われてみれば、課の男連中と飲みに行っても、そんなヤツひとりもいやしなかったな。


「それで、いつ頃に結婚式を挙げる予定なのかな」

「挙式は三カ月後の大安で一粒万倍日になります」

「君、たしか占いに凝っていたよね。だから大安なの?」

「課長、よく憶えておいでですね。一度寝た子のことは一生忘れないタイプですか?」

「そんな態度だと相談に乗れないんだけど」

 ここらでひとつ脅しをかけてみた。

 このままではこちらの遍歴を衆目にさらされるだけだ。

 話を本題に戻させる。


「すみません。大安を選んできたの、実は彼のほうからなんです」

「珍しいな、占い好きの男って。ほとんどのヤツは『占いなんか信じない。俺が信じられないのか』ってなりそうなものなのに」

「それ、明らかに時代遅れですよ、課長」

「だろうな。君との会話で実感したよ」

 いわゆる「古いタイプ」なのは認めよう。

「で、結婚式に俺を呼んで性癖をみんなにバラす、とかないよね?」

「そんなわけないじゃないですか。第一、課の女子にはウケるだろうけど彼や親御さんがなんて思うか……」

 それは確かに言えやしないな。



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