第6話 ぎくしゃく

 ピンポーン。

 玄関のチャイムが鳴る。


 また彼女だろうか。だが今日は文句を言われる筋合いがない。


「あ、紡木つむぎさん。おはようございます」

「おはようございます」

 やや苛立いらだちの雰囲気が漂っている。


「今日はどんなご用ですか?」

 言いづらそうな表情を浮かべたものの意を決したようだ。

「ゆうべはその、意地悪しなかったんですね」

「意地悪、ですか?」

「女性の方と、その、楽しまれなかった、と、いうこと、です……」

 途端に顔が赤くなっている。

 怒った表情ばかり見てきたせいか、そんな姿に好感を持ってしまった。

「ああ、ゆうべは聞こえませんでしたか? おかしいな、昨日も致していたのですが」

「その、女性の声が、聞こえてこなかったので……その……」

 やはり普通の女性が素面しらふで「ヤッてる」なんて言えないよな。


「注意されればちゃんとできるのでしたら、これまでにも対処する機会はありましたよね?」

 おっと、ここで食ってかかってきたか。

「ですから、ゆうべも女性と一緒でしたよ。声が聞こえなかったのなら、ここが防音だったと証明されたのでしょう」

「そんなはずありません! あなたが女性と、その、ヤッてる声はこちらに筒抜けなんです! 昨夜は女性の声もベッドの揺れもありませんでした!」


 やっぱりなにかがおかしい。

 確かに昨日は久方ぶりに女性と一緒に寝ていない。

 だが紡木つむぎさんにもそれがわかるというのはどういうことなんだ?

 ヤッてる声がダダ漏れで、女性がいなければ声も漏れてこない。

 明らかにこちらの声が隣の彼女の部屋に筒抜けになっているようだ。


 だが彼女の部屋から声が聞こえてきたことはこれまで一度もない。

 テレビの音声すら漏れてこないのだ。

 もしあちらの声もこちらに届いていれば「防音材がないか薄いか」は確かだろう。

 だが、こちらの音がダダ漏れで、あちらの音がいっさい聞こえない。

 これで「防音材」を疑うのには無理がある。


「すみません。かまをかけました。紡木つむぎさんが毎朝訪ねてきて『ヤッてる』なんて言うので、本当に声が漏れているとは思えなかったのです。しかしこちらが致していない日がわかるというのであれば、本当にこちらの音が漏れている可能性がありますね。よろしければ、あなたの部屋におうかがいして調べてみたいのですが」

 すると|紡木〈つむぎ〉さんは声をつまらせた。

「ちょっ、ちょっと。毎晩違う女性を抱いているような人を女のひとり住まいにまねけるとお思いですか?」

「しかし、実際に調べてみないことには、本当に音が筒抜けなのか確認しようもありませんし」

「おっ、お断りします!」

 なにかやましいことがあるのだろうか。

「それでは管理人さん立ち会いでならどうですか?」

「誰であろうとお断りです! 男性を部屋に上げるなんて、私できません!」

 ピシャリとはねつけられた。

「とにかく! あなたが女性とヤッてる声は聞こえてくるんです! これからも静かな夜を過ごさせてください! 私が言いたかったのはそれだけです。では失礼しました!」

 ドアを勢いよく閉められ、額に叩きつけられてしまった。


 痛いんですけど……。



 それにしても紡木つむぎさん、なぜ引っ越さないのだろうか。

 女のあえぎ声を毎晩聞かされたら気が狂いそうになるのはわからないでもない。まあ男はその声が心地よく感じるのだが。

 それなら管理人に確認させてこちらを退去させるか、自ら転居するかくらいするのが常識だろう。

 それなのに管理人から指摘されたこともないし、彼女が転居する気配もない。

 毎日のように文句を垂れに来るだけ、というのがどうにもおかしい。

 なにかを隠しているのだろうか。


 もしかして盗聴の趣味があるとか? それだと寝室に隠しマイクがあるはずだよなあ。

 土日に室内を掃除しているが、今までマイクなんて見たこともないんだが……。

 まあ隠しマイクを探す目的で掃除しているわけじゃないので、気がつかなかっただけかもしれないが。

 次の土曜に寝室を探してみようか。




「ねえ、雄一。今日は抱いてくれるわよね?」

 常務秘書室長の真弓が迫ってくる。あれから毎日ランチをともにしなければならなくなった。

 これは常務に「彼女とは合いませんでした」とでも言わないかぎりいつまでも続きそうだ。

 もしかしたら常務はそれが目的なのではなかろうか。

 だが俺の行動を縛ってなんの得があるのだろう。


「なあ、常務からなんて言われているんだよ」

「なあんにも」

「まったく吹き込まれていないのか?」

「どうしてそんなことを聞くのよ」

 この様子ではなにも知らないみたいだな。


 常務がなにを考えているのかもわからないまま、ランチをともにしなければならないとは。

 このせいで女子社員を誘う機会が減って、毎晩違う女を抱けなくなってしまっている。

 そのためか紡木つむぎさんはあれから怒鳴り込みに来なくなった。

 まあ、致せない夜が続いているのだから怒鳴り込む理由がない。当然か。


 来なければ来ないで、なにか寂しいような気もするが。

 毎朝の恒例行事のようなものだったからな。


 スマートフォンの着信音が鳴った。真弓がすぐに電話に出ると、なにやら楽しげに話しながらチラチラとこちらを見ている。

 俺の話でもしているのだろうか。どうにも気になる話し方だな。

 電話を切った。

「あなたにいい話があるわ」

「誰からの電話だ?」

「常務よ」

 なにやらにやつきながら人物の名を挙げた。

「坂江理乃取締役、知っているでしょう?」

「意地が悪いな、お前。一度寝た相手の名前なら全員憶えているぞ」

 まめねえ、と返されたが意に介さなかった。

「彼女からご指名よ。あちらの業務提携案がまとまったそうよ。こちらも大詰めまで来ていたから、彼女の連絡を受けて午後には可決されるだろうって。午後いちで常務執務室へ来て待機しろとのことよ」

「それで坂江さんがやってくるってわけか」

「ご明察」


 なるほど、秘書室長がにやにやするわけだ。

 周りにうちの社員がいないともかぎらないので、声量を落とした。


「彼女をもう一度抱いたら、自分も抱いてもらえると思っているだろう」

「よくわかったわね」

「そんな顔をしているよ。だがまた会ったからといって必ず寝るとはかぎらないぞ。『同じ女とは二度と寝ない』主義はまだ続いているかもしれないからな」

「そうでないことを願うわ」

 あまり長い間ひそひそ話をするのも注目を浴びてしまいかねない。

「すべては彼女に会ってからだ。業務提携が結ばれるのかもそれ以外も」




「よくいらっしゃいました、坂江取締役。こちらの取締役会もじきに提携案を可決すると存じますので」

「お邪魔しております」

 ファンデーションの上からでも頬が染まっているのがうかがい知れた。

 あの夜のことを思い出したのかな。まあこちらもあまり正視できなくて目線を外してしまったが。

「お茶をお取り替え致しますね」

「あ、おかまいなく」

 真弓が秘書室長らしく機転を利かせたようだ。


「いえ、好きなだけ飲んでいってください。ワインでないのが残念ですが」

「まあ。酔わせてなにをなさろうとしていらっしゃるのかしら?」

「さあ、なんでしょうね。少なくとも、そちらとの業務提携が決まったら、祝杯をあげたいなとは思っておりますが」

「さようですか」

 ちょっと残念そうな表情を浮かべている。

 こちらが積極的に出るのを期待しているのだろうか。

 だが一介の課長が他社の取締役に公然と言い寄るわけにもいかない。


 それに気持ちよく眠っている紡木つむぎさんをまた騒がせてしまうのも酷だ。

 そう考える時点で、理乃のことはそれほど深く思っていないのではないだろうか。

 ひょっとしたら、今は紡木つむぎさんのほうがたいせつな人だと思っているのかもしれない。


 『同じ女とは二度と寝ない』がまだ続いているようだ。


 だが理乃はなんの思惑があってこちらに乗り込んできたのだろうか。

 先方の提携案を直接伝えに来たとしても、その役目はすでに終えているはず。

 こちらの可決が判明するまで居残るように言われているのかな。

 それを広告代理店へ持ち帰り、正式に日時を調整して業務提携が公式に発表されることになる。

 その大役を任せられているのだから、坂江取締役はよほど優秀なのだ。

 自分の手に負える相手ではないのかもしれない。

 あの夜は激しく燃えたふたりでも、今は遠い世界の人に思えてしまう。


 しばらく気まずい空気が流れるが、真弓が新しいお茶を持ってきて空気を和らげた。

 本当、この女は自分がもう一度抱かれるためなら、ライバルにも塩を送るタイプなのか。

 そこまで美女に惚れられたら悪い気はしないはずなのに、なぜか申し訳なく感じてしまう。

 誰に対してなのかはわからないのだが。



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