第二章 恋の予感

第5話 好転

 坂江理乃と夜を明かしたその日、仕事がなかなか手につかなかった。

 どうにも理乃が気になって幻影が浮かんでくるのだ。

 これまでの女にはなかったなにかを彼女に感じるせいだろうか。


 化粧は濃いのだが、顔立ちはどこかで見たことがある気がする。女優にでも似ていたのだろうか。だとすれば毎日のようにテレビで顔を見ているだけに、妙な親近感を覚えているのかもしれない。


 理乃を考えているとなぜか紡木つむぎさんが浮かんでくる。理乃の嬌声きょうせい紡木つむぎさんの怒声とは当然ながら異なっていた。もっと甘くつややかな声質である。

 でもシャワーを浴びていたときの驚いた声は、やや紡木つむぎさんと似ていたような気がしないでもない。


 だが、女性の怒鳴り声と驚いた声はあまり区別がつかないのも確かだ。

 ある程度高い音程になると誰も似たりよったりになる。もちろん地声が違えば大声も異なる。しかし理乃と紡木つむぎさんはなぜか大声がそっくりに感じてしまったのはなぜだろうか。


 内線電話が鳴った。内線番号を確認すると常務秘書室からである。

「高石課長、申し訳ございませんが至急常務執務室へお越しくださいませ」

 先日お願いしていた業務提携案について、早速緊急取締役会が開かれたのだろうか。さすが常務はフットワークが軽い。

「かしこまりました。すぐにおうかがい致します」

 内線を切ると、部下に常務執務室へ行くと伝え、一目散に総務企画課を離れた。


 常務執務室へは常務秘書室を通らなければ入れない。そして取締役の執務室は高層階の「取締役フロア」に集まっていた。

 そこで高級社員用のエレベーターを使って上階へ向かうこととなる。


 エレベーターがチンと鳴って降りると常務秘書室の前に出た。

 ここで理乃と初めて会ったんだったな。

 ゆうべの感触がまだ手や体に残っているような錯覚に陥る。

 今朝別れたばかりだが、すぐにでも再会したい衝動に駆られる。

 これまでどの女にも抱いたことのない感覚だ。


 まさか惚れたかな。


 この感覚がよくわからない。

 ただ数時間前までのことだけに、印象が強く残っているだけかもしれなかった。

 最近『同じ女とは二度と寝ない』主義が揺らぐような展開ばかりやってくる。


 常務秘書室から室長の真弓が出迎えていた。

「あら、高石課長。お早いご到着ですわね。もう少しお時間がかかると想定していたのですが」

「先日お頼み致した案件であれば、いち早く結果をうかがいたいですからね」

「それだけでしょうか?」

 不敵な笑みを浮かべている。

「坂江様とはどのようなお話をなさったのかしら?」


 耳のそばに近寄ってきて小さくささやかれた。

「ゆうべはお盛んだったようね。白目が血走っていますわよ」

「これは先ほどまでパソコンのモニターをじっとにらみ続けていたからですよ」

「本当かしらね」

「本当ですよ」

 まさか未明まで交わっていた、などと口に出すわけにもいかなかった。

「それなら今夜は私とご一緒しない? 私ならいつでもOKだから」

「その件につきましては考えさせてください」

「あら、真っ先に断られると思ったのに。宗旨しゅうしえなさったの?」

 そんなつもりはさらさらなかったはずなのだが、どうも「二度目」も許せるような心境になっているようだ。

「坂江様となにがあったのかしら。ちょっと焼けちゃうわね」

 秘書室長が俺の耳元から離れる。

「常務がお待ちです。どうぞこちらへ」


「先方から先ほど電話があってな、高石くん。まあかけたまえ」

「失礼致します」

 常務室のソファに対面で座った。

「君が持ってきてくれた広告代理店との業務提携案についてだが、条件付きで認可が下りそうだよ」

「どのような条件でしょうか?」

 こういうときの条件は厳しいものが予想される。

たとえば買収する前提で、ということもありうる。

 だが今回は相手が大手広告代理店だ。買収は不可能だろう。

「わが社が主導する形で提携できるのであればだそうだ」

「主導ですか……。先方は対等での提携を持ちかけてきておりましたが」

「問題はそこだな。いや、そこだった」

「……だった、ですか?」


「ああ、先ほど先方の責任者の坂江取締役から電話があって、君が窓口になってくれればわが社主導での提携で合意してもよいとのことだ」

 理乃がそんなことを。

「まぁ坂江取締役も先方の取締役会にはかってくれるそうだし、私としてもまた緊急の取締役会を開いて具体策を取りまとめなければならないがな」

「わが社の有利に進んでいるのですね」

「君が持ってきた業務提携案は、取締役会での評価がひじょうに高い。今回の提携が実現すれば、君も総務部長に昇進だろうな」


 軽く眉間にしわを寄せてしまった。

「おや、昇進が嫌なのか?」

「嫌というわけではございません。ただ仕事の量が増えますと残業も増えてしまうのではないかと……」

「いやいや、部長になっても仕事量はさして変わらんよ。責任が今より少し増すだけだ。それも君くらい優秀ならじゅうぶん務まるだろう」

 常務の覚えがよいのも考えものかもしれないな。

 あまりにも地位が高くなるのも良し悪しだ。

 女子社員に手を出しているとバレたときが一大事。解職、よくて降格か左遷は免れないだろう。


「君もそろそろ結婚して身を固めたらどうかね。家族を養うと出世の重要性もわかってくるだろうしな」

 この語り口だと常務も薄々わかってはいるようだ。それで見て見ぬふりをしてくれるのだからたいした度量である。

「そうですね。私もそろそろ身を固める時期なのかもしれません。ですが私にふさわしい女性ともなると、そう簡単には見つからないでしょう」

「なに、君に似合いの女性ならいくらでも紹介してやろう。たとえばうちの秘書室長なんてどうかな?」

 この話を当の秘書室長の目の前で行なう常務のしたたかさが見てとれる。


 秘書室長を見上げると口の端が緩んでいるようだ。

「これほどの美女ですと、緊張して萎縮してしまうばかりです」

「まあ社内で一、二を争う美しさだからな。無理もない」

 それを秘書室長に抜擢しているのだから、この常務もなかなかのタヌキではないだろうか。

「だが、君ほどのり手には、彼女くらいの美人でなければ釣り合わんだろう。それとも他に好きな人でもおるのかね?」

「結婚したいとまで思う女性はまだおりません。岡田秘書室長ほどの女性を妻に迎えられればおとこ冥利みょうりに尽きるかもしれませんが。まだどのような方かわかりかねますので、今は判断致しかねます」

「それなら昼休みにふたりで食事してくるといい。少しは人となりも掴めるだろうしな」




「素直に、付き合ったことがあります、とは言えないわよね」

「当たり前だろう。まさかすでに〈突き合って〉いました、なんて言ったらどんなことが起こるやら」

 秘書室長の真弓と鰻屋でランチを食べている。しかも常務公認だ。

 彼の辣腕ぶりはつとに有名である。また女性を見る目もひじょうに高い。

 だからこそ社内の多くの美女を常務秘書室で独り占めしているのだ。


「まぁ一喝くらいはあるでしょうけど、あのような方だから口頭注意くらいで済むと思うわよ」

「それを試すのも怖いな。本当に一喝されるだけで済むのか、言った瞬間クビになるのか。考えただけで背筋が凍えそうだよ」

 自由に女子社員をとっかえひっかえするには課長くらいの役職のほうが都合はよいのだ。とはいえ、一介の課長が常務秘書室長とデキていたなんてことが許されるのだろうか。すべては常務の意向次第だ。


「話は変わるけど、ゆうべの坂江さん、どんな感じだったの? 今朝彼女から電話が入って驚いたわよ。まさか先方からあなたを名指ししてくるとは思わなかったから」


「う〜ん。まあ綺麗な人だとは思ったな。また会えたらいいな、くらい印象はよかった。他の人とは違うなにかを持っている人だね」

「あなた、だからさっき私の誘いを断らなかったわけ?」

 そうなのだろうか。

「いや、その前から『同じ女とは二度と寝ない』が鉄の掟ではなくなってきたような感覚はあったんだ。そこにたまたま彼女が現れて、できればもう一度、なんて思ったくらいで」

「焼けるわね。あなたからそのくらい思われてみたいものだわ。さっきの続きだけど、もう一度私と寝てみない?」

「常務にバレたらそれこそ一大事だ。今回はお断りするよ。常務の監視が緩んだら、そのときはまた考えるさ」

「考えるだけ?」

「これまで一顧だにしなかったんだから、一歩前進だろう?」

「そうとも言えるわね」

 真弓は苦笑いしながら、鰻丼をつついていた。



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