第4話 特別な朝

 いつもと同じ朝が来た。変わっているのは隣で寝ている女がいつも違うことくらいだ。

 今朝は理乃が胸で眠っている。

 アラームをかけなくて正解だったな。


 起こさないようにベッドを抜け出し、いつものようにふたりの衣服を拾って、下着はドラム式洗濯機に入れる。


 冷たいシャワーを浴びて気分がシャキッとした。

 これで日課のスチームアイロンがけにも励めるというものだ。

 体を拭いたバスタオルも洗濯機に放り込んでスイッチを入れた。

 静音タイプなので時短コースでも寝た子を起こさずに済む。


 脱衣所の棚からパンツを取り出してはき、ドライヤーで髪を乾かしていく。

 あらかた乾いたところで、ティーシャツ、ワイシャツ、スラックスを身に着け、アイロン台を引き出した。


 まだ眠っている理乃の顔を覗いてみたら、隣室の紡木つむぎさんを思い出してしまった。また怒鳴り込まれたらたまらない。

 眠っている間にアイロンを済ませてしまおう。


 愛用のスチームアイロンでまずは紫色のツーピースのしわをとっていく。

 紫は高貴な色とされているが、彼女のは男の欲情を駆り立てる赤紫である。


 脱がせてわかったが、同じ色の下着を身に着けていたので、もしかしたらすべて特注品かもしれない。

 変なしわは残せないな。

 毎回義務感を持ってアイロンがけしていても、今日はとくに念入りにする必要がありそうだ。

 まずは除菌消臭スプレーを念入りにかけておく。


 ツーピースのスカートは隠しプリーツを整えるのに難儀する。

 そこを手際よく片づけられるのも経験がなせる技だろう。

 仕上がったらアイロン臭を消すためにスプレーを吹きかけた。


 次の上着部分へスチームアイロンを当てていく。自然と鼻歌交じりになるが、気にせず手早く完了した。


 そこに洗濯機のブザー音が鳴った。

 静音タイプなのだが、この出来上がりのブザーだけはひじょうに大きな音がする。

 理乃が起きないか心配してベッドをのぞき込むが、まだ眠っているようだ。

 なんだか幸せそうな顔をして寝ている。

 よほど安心しているのだろうか。


 洗濯機から下着を取り出し、自分のものは洗濯ハンガーに吊るし、その手で脇の棚からバスタオルを三枚手にしてアイロン台へ戻った。


 女ものの下着は温度管理が微妙だ。

 男もののようになんでも当てればよいわけではない。

 とくにレース部分は熱に弱く、高温だと溶けやすい。

 そのためにバスタオルで挟んで当て布にする必要があるのだ。


 まずはショーツにアイロンを当てていく。

 こちらはブラのようにワイヤーが入っていないので、温度にさえ気をつければスムーズにかけ終わる。

 次にブラの番だ。ワイヤーを熱して曲げてしまうと特注品なら使いものにならなくなる。

 どの位置にワイヤーが入っているかを確かめた。

 しかしどこにもワイヤーは入っていなかった。

 しかもパッドも付いていない。

 そういえば下着もツーピースも特注品かもしれなかったのだ。

 体形に合わせた下着なら、取り立ててワイヤーやパッドなど入れなくてもピッタリとフィットするのだろう。

 それだけ彼女は体形に自信があるのだともいえた。


 最大の敵であるワイヤーとパッドさえなければ、いつもよりスムーズにアイロンがけができる。そしてあっと言う間に仕上がった。


 まだ起きてくる様子はない。起きてからシャワーを浴びたあと着やすいように衣服を重ねて脱衣所のスツールに重ねておく。

 ハンドバッグの中を詮索するつもりはないが、化粧品の類が入っている可能性が高いので、衣類の脇に立てかけた。


 そのあとは自分のスーツをいつものようにアイロンがけする。毎日やっているので手間なくスムーズに終わった。

 どうせ土曜にまとめてクリーニング店へ持ち込んでいる。仕上がったものをランドリーバッグに重ねて入れておいた。


 そういえば、そろそろ紡木つむぎさんがやってくる頃合いか。

 毎日来るわけではないのだが、当然彼女にも事情はあるのだろう。

 今日来られるとさすがにまずいかもしれない。どことなく有名人の誰かに雰囲気が似ているため、変な誤解を招くおそれもある。


 それまでは朝食を作ることにしよう。

 食パンは食べる直前に焼くとして、サイドメニューをどうするか。

 野菜室にトマトとレタスがあったので、簡単にフレンチドレッシングであえてサラダを作ろう。たしかゆで卵も一個残っていたはずだ。

 あった。これを潰して混ぜ合わせればいいだろう。


 今朝は時間があるのでコーヒーにするか。

 とはいえサイフォンがあるわけでもなく、コーヒーの粉末をカップに入れてお湯を注ぐだけだが。

 電子ポッドでお湯を沸かし始めた。


 そのとき理乃が目を覚ましたようだ。

 布団がもぞもぞと動き始める。


「お目覚めですか、お姫様?」


 寝ぼけた顔をしていたものの、起き上がってひとつ伸びをすると「早いのね」と言われてしまった。

 夜の営みの最中でなくてよかったセリフだ。

 あのとき言われていたら男のプライドがズタズタにされてしまっただろう。


「お隣さんが乗り込んでくるかもしれないから、早めにシャワーを浴びてきなよ。すっきりするからさ。あるものはなんでも使っていいよ」


 理乃はまだシャッキリしない状態で浴室へと歩いていった。

 だいじょうぶかな、彼女。

 まぁシャワーで目が冴えたら、にっこり笑ってくれるのがいい女ってものだ。

 そうでなければそれまでの人でしかない。


 しかしこの時間でもまだ怒鳴り込みに来ないか。紡木つむぎさん、なにかあったのかな?


 すると頓狂とんきょうな声が浴室からあがった。

 あまりの音量にびっくりしたものの、長いこと女性と一夜を過ごしているとよくあることだ。


 出会ったばかりの男と夜をともにした事実を受け入れられないのだろう。

 まあこんな冴えない男に嬌声きょうせいをあげていたことに代わりはないのだが。


「いちおう化粧水とかファンデーションとかアイラインなんかは安物だけど揃っているから、きっちり女を磨いてくださいね」

 楽しげに声をかけた。

 まあともに達した男であっても化粧を落とした素顔は見せられないだろうな。これなら朝食を用意する時間が稼げそうだ。


 トーストとコーヒーはすぐに出来る。

 サイドメニューのトマトとレタスと卵のフレンチサラダの仕込みを始めよう。

 まずはトマトを櫛形に切ってボウルに入れ、レタスは食べやすい大きさにちぎって同じボウルに散らばらせる。

 それが済んだらゆで卵をマッシャーで潰し、フレンチドレッシングとともにボウルに入れてかき混ぜた。

 ゆで卵さえあれば出来るお手軽メニューの完成だ。

 だがなにか物足りなくて、冷蔵庫からベーコンを出して小さく切り、フライパンで焼いていく。脂の焼ける香ばしい匂いが立ち込める。

 生ハムでもよかったのだが、あいにく切らしていた。

 こんがり焼けたベーコンもボウルに混ぜ合わせる。

 食器棚からガラスの小鉢をふたつ持ってきて、ボウルの中身を分けていった。


「シャワーは終わったのかな? 朝食がじきに出来るからさ」

「えっええ。バスタオルをお借りしておりますわ。洋服も綺麗にしていただいてありがとうございます」

「いえいえ、化粧品が肌に合わなかったら言ってくださいね。いちおうオーガニックコスメとやらで肌にはやさしいと聞いていますけど」

「なにからなにまで申し訳ございません。すぐお化粧を終えて戻りますので」

 その声を聞いて食パンを焼き始め、次いでコーヒー粉を入れたカップに電気ポットから熱湯を注いだ。


 それにしても紡木つむぎさん、昨夜は用事があって出かけていたのかな? 何連戦したか憶えていないが、あれだけ女性の激しい嬌声きょうせいが続いていたら、寝られたものじゃなかったはずなのに。


「お待たせ致しました。殿方を待たせるなんて女性失格ですね」


 ハンドバッグを直しながらダイニングへやってくる。

 やはり愛用の化粧品が入っていたのかな。


「理乃さんはそんなに化粧を厚くしなくてもじゅうぶん美人だと思いますよ」

「わ、私の素顔、ご覧になったのですか?」


 理乃がうろたえている。うかつにも彼女に誤解を与える言いぶりだった。


「いえ、素顔はまったく。ただ顔立ちを考えるとたとえ化粧をしていなくてもじゅうぶんお美しいはずだと」

「まあ、おじょうずね。その手で何人の女性と夜をともにしたのでしょう?」

「わかりません。いつからか夜ごと女を変えて寝てますが、数えようと思ったことはないので」

「なぜですの?」


 テーブルの前の椅子を引いて理乃を座らせる。

 そして焼き上がったパンと注ぎたてのコーヒーをフレンチサラダの前に並べて置き場所を整える。


「数える、というのは女性をモノとして見ている証拠です。私は女性との夜の営みをはばかりませんが、それは相手をないがしろにしようと思ってのことではありません。女性とはつねに対等であった、と思っています」

「それではわたくしもてあそばれたわけではないと?」


 美しい女性と一緒に寝るのは確かに男の本懐ほんかいだろう。

 ただ欲望にまかせてそれをするのはゲスでしかない。

 そのへんの分別はわきまえているつもりだ。


「理乃さんとふたりで一夜を彩った。ひとつの芸術をともに作り上げたのです」


 歯の浮くようなセリフが次々と出てくる。どうも理乃のペースに巻き込まれているような気がする。

 厚いファンデーションの奥で、彼女の頬が染まったことに気づいた。

 しかし知らないていで接する。


「早く朝食を済ませてしまいましょう。怖い隣人が乗り込んでくるかもしれませんからね」



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