第3話 取引先の人

「あら、高石課長、常務になにかご用でございますか?」


 昨日取引先から示された提案が、部課長の権限では処理できないと判断し、取締役会の承認を得ようと常務執務室へやってきた。

 常務の覚えがよいのと、この常務秘書室長の女・岡田真弓と顔見知りだから、よくここに顔を出している。


「申し訳ございません。あいにく常務は只今ただいま取締役会に出席しております。ご伝言なら承りますが?」

「そうですか。では言伝ことづてをお願い致します」


 取引先が示した業務提携案を受け入れるべきかどうかに関して至急ご相談致したい、と秘書室長にことづけた。

「確かに承りました。常務が戻り次第お伝え致します」

 すると秘書室長が手を立てて耳打ちしてきた。常務秘書室の他の人には聞こえないようささやく。


「ねえ今晩予定が空いているんだけど、またいいことしない?」


 スタイル抜群で、出るべきところが出て引っ込むべきところは引っ込んでいる。

 胸の膨らみがスーツのジャケットを窮屈そうに押し上げ、タイトなミニスカートからは煽情的な太ももがのぞいている。常務の女性の好みがそのまま表れているかのようだ。


「とてもありがたいお申し出ですが、あいにくと二度する趣味はございませんので」

 こちらも周りに聞こえないよう音量を落とす。

「あら、私は全然OKなんだけど。すでに先客がいらっしゃるのかしら?」

「とんでもございません。ただ特定の方と親しくなるわけにもまいりませんので」

 話の流れからふたりで秘書室をそっと出ると、目の前のエレベーターホールで真弓が俺にしなだれる。

 わが社一の美人と呼び声の高い女から迫られているのだから、受けないのは男の名折れだろう。

 しかし『同じ女とは二度と寝ない』と決めているのだから、それを曲げるのも己の尊厳を傷つける行為だ。


「あの日のあなたのことが忘れられないのよね。またあのときのように……ね?」

 耳に甘い吐息が漏れる。

「食事だけでよろしければいつでもお相手致しますよ。それ以上はお受け致しかねますが」

「あら、あなたまだそんなことを言っているの? もしかして今も毎晩女をとっかえひっかえして楽しんでいるのかしら」

「当たり前ですよ。そういう男に惚れたんでしょう?」


 真弓がネクタイにしがみついてもてあそび始めた。


「んもう。あのときにも言ったけど、そんな主義さっさと捨てちゃいなさい。あなたには他の男にはない魅力があるんだから。それを活かさないと人生もっと楽しめないわよ」

 黒スーツの胸に化粧した頬を擦りつけてくる。

 ファンデーションが付いたらどうするつもりなのだろうか。


「俺の魅力ねえ。そんなごたいそうなものがあるのやら、ないのやら」

「もう、ベッドの上ではあれだけ自信満々なくせに。普段は本当、野暮天やぼてんよね」


 エレベーターが到着した電子音が鳴った。

 すると秘書室長は急いで俺から飛び退いて佇まいを直し、笑顔を浮かべる。

 まったく変わり身の早い女だ。

 今度はわざと秘書室内に聞こえる音量を選んだ。


「では常務によろしくお伝えくださいませ。それでは失礼致します」


 エレベーターから降りてきた女と目線が合った。

 なかなかの美女である。

 痩せすぎずスマートな体形で好みのタイプだ。

 お互いに微笑みを交わして入れ替わりでエレベーターに乗ると、彼女の爽やかな残り香が漂っている。

 だからといって長居はできないので、そのまま取締役フロアをあとにした。




 以前とは異なり、なぜか最近「二度目」を意識するようになっていた。

 あの秘書室長・真弓の言うように、もうそんなマイルールに縛られるべきではないのだろうか。


 それにしても、エレベーターから降りてきたあの女はどこの誰だろうか。

 あれだけの美女は社内にはいないはずだ。

 今年の新入社員はまだ全員チェックしきれていないが、気品の高い振る舞いと鼻を甘くくすぐる香水の匂いは身分の高さがうかがい知れた。


 雰囲気はどことなく誰かに似ているような気がしないでもない。有名人によくある顔立ちなのかもしれないが。落ちつきのある女の振る舞いだった。


 どうにも気になって仕事が手につかない。

 内線で常務秘書室に電話をかけた。すると室長の真弓が出た。

〈あら、やはりあなた様でしたか〉

「どういう意味でしょう」

〈先ほどすれ違った女性のことをお知りになりたかったのではありませんか〉


 やはり見抜かれていたか。

 まあこの手で社外の女性を幾人もつまみ食いしてきたのだから当然だろう。

 彼女はいわば共犯である。


「よくおわかりで。で、どちら様でしょうか」

〈電話ではお話し致しかねますので、対面でお願い致します〉

 毎回対面を要求してくるのだから、この女の執念を感じざるをえない。

「さようですか。ではランチ休憩の際にそちらへお伺い致しますので」

〈高いランチになるかもしれませんよ〉

「かまいません。ではよろしくお願い致します」




 真弓によると彼女は大手広告代理店の最年少取締役で、なんと俺が取締役会にはかるよう申し入れた案件の先方責任者だった。


 名前は坂江さかえ理乃りの。年齢は俺と同じほどと見られるが詳しくはわからない。

 まあ仕事で来ていて年齢を名乗る必要もないからな。

 ただ連絡先の携帯電話番号は手に入れていたらしい。


 さっそく坂江取締役に、こちらの案件について相談したいことがある、と携帯電話へ連絡を入れて行きつけのフランス料理店へ招いた。

「あなた様が絡んでいる案件とは知りませんで、先ほどは失礼致しました」

「いえ、私も初対面のときに気づけず申し訳ございません」


 互いに形だけの謝罪の言葉を述べると、目を見つめ合ってやわらかく微笑みを交わした。

 一度すれ違っただけだったが、見る目に間違いはなかった。

 とくに今夜のメイクは艶やかで、香水も昼間の爽やかなものとは異なっている。

 欲情を駆り立てるような甘く立ち上る香りだ。


 男慣れしている。そんな気がした。

 雰囲気こそ違えど、初めてを捧げた風俗の女と似た雰囲気を醸し出しているように感じる。

 俺が出世のために女と手段を選ばなかったように、この女も出世に手段は選ばなかったのではないか。

 似た者同士が惹かれ合っているようだった。


「ここの料理、とてもおいしいんですよ。私は頻繁に利用しています」

「あら、そんなに稼いでいらっしゃるの?」

「いえ、大学時代の友人が経営していまして。毎晩通うからまかないでも食べさせろ、と脅しているんですよ」

 まあ、悪い方、との返事を聞きながら、女の装いをさり気なくチェックしていく。


 派手さはないものの紫色のエレガントなツーピースでありながら胸元がきわどく開いてダイヤモンドのネックレスが存在を主張する。

 すらりと伸びた肢体はスマートで、胸のサイズの割に腰回りも細いように見受けられた。

 とはいえツーピースの上着越しだから確かなことはわからない。

 だが経験を踏まえれば間違いなく柳腰やなぎごしだろう。

 顔貌がんぼうはどこはかとなく誰かに似ていた。きっと有名人の誰かだろう。


 食前酒としてシャンパンが注がれた。


「食事代はこちらで持たせてくださいませ。いくら坂江様のほうが上役でも、女性に食事代を払わせるなんて男のすることではありません」

「あら、意外と古風なお考えなのですね」

「まあわがままみたいなものです。お聞き入れいただければと存じます」

「硬い口調は、せっかくの料理に合いませんわ。まずは料理を楽しみましょう」


 まずは、なんてまるでこれからどんなことになるのか理解しているかのようだ。

 やはり同類か。それならとことん楽しむまでだ。


 爽やかさをたたえた笑みを浮かべながら、ふたりでシャンパンに口をつける。


「それにしても、朝お会いしたとき胸に女もののファンデーションを付けていらっしゃいましたわね。もしかして、エレベーター前で待っていたあの秘書の方のかしら?」

「ええ、そうです。彼女が慌てていてつまずいたものですから、私が支えて差し上げたんです。おそらくそのときに付いたものでしょう」

「女性におやさしいのですね。誰に対してもなのかしら。それとも美人さんだったからかしら?」

 探りを入れに来たようだ。


「彼女は社内一の美人ですからね。男子社員羨望せんぼうの的です。かくいう私も、できればお近づきになりたいと思っております」

「なぜそのような方より私を選んでくれましたの?」

「女性としての魅力でいえば、坂江様のほうが数段上です。彼女は高嶺の花ですからね。失礼ながら坂江様のことはよく存じませんので、俄然がぜん興味が湧いてきます」


「褒められた、と受け取ってよろしいのかしら?」

「はい、そうとらえてくださってけっこうです」

「今夜は長い夜になりそうですわね」

 彼女は口元に妖しげな笑みを浮かべている。



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