016-1 奇跡は此処に

 ルークとニフトの戦いが始まってから、凡そ半刻程の時間が経過した。

 半刻と言っても、その間に両者の間で高速で繰り返された攻防は、数百にも上ろう。

 そしてその多数の攻防の全てにおいて、ルークは先に固めた決意の通り、見事優勢を勝ち取ってみせた。

 分かりやすく比率で表すのなら6:4、いいや、7:3程の優位を取り続けたと言って良い。

 例えばこれが、柔道の試合であったのなら、全てが技ありをもぎ取っており、合わせ技一本で100度以上ルークの勝利が宣告されているだろう。

 ボクシングであっても、判定勝ちだ。



 強かったのはルークだった。

 熟達うまかったのもルークだった。




 …………だが、勝っているのはニフトだった。



「――っ、き、さまっ……」




「ああ、痛いですわ」



「お、おじさんっ」

 

 傷らしい傷は見えないルークに対し、寸前の攻防でも押し負けて、体に幾つもの焼き傷が見えるニフト。

 されど、前者は苦し気に息を吐き、後者は得意げな笑みを浮かべている。

 その様子を見比べれば、どちらが優勢であるのかは、瞭然であった。

 未だ完全に、邪視の影響から逃れられていないアレンなどは、その様子を心配げに見る事しか出来ない。


 問題は何故その様に不可思議な事――常に優位に戦闘を進めている者が、最終的に劣勢を強いられている――が起こっているのか?と言う点だろう。

 その原因となった要素は、大きく分けて3つ。

 


 まず1つ目。最も直接的理由かつ、重要な要素。

 それは継戦能力の差。簡単に言えば、スタミナの差と言い換えても良いかもしれない。

 

 たった今、少し前までニフトにあった筈のルークが与えた傷が、跡形も無く消え去っている。

 再生能力か、治癒魔法か。

 どちらにせよ、ある程度の傷は自動で治っていくようで、これまでルークが何度も攻防を制してきたと言うのに、それによる負傷が積み重ねっていない絡繰りは、これだった。

 しかし、その回復能力自体が問題、と言う訳では無い――自己回復程度ならルークにも可能である。



 当然の話だが、人間が活動するには、体力なり・精神力なり、何らかのエネルギーを消費する必要がある。

 それが魔法であるのならば、魔力だ。

 戦闘ともなれば、使うエネルギーは膨大となり、すぐさま決着のつく瞬殺劇を除けば、戦いとは即ちリソースの削り合いだ。

 よって一連の攻防により、ルークはかなりの消耗を強いられている。

 それは、当たり前の話で、正常な事象である。

 だと言うのに対するニフトには、その消耗が欠片も見られないのである。

 攻撃にせよ、回復にせよ、それによって魔力及びその他のエネルギーが減少している様子が、まるで見えない。

 

 

 だが、底抜けのエネルギーを持つ怪物か……と言われるとそれも違う。

 供給。そう、敢えて形容するのならば供給だ。

 消費したエネルギーが、その端から直ぐに補給されている――ルークの眼にはそう見えた。



 まるで巨大なナニカ・・・・・・と繋がっている・・・・・・・様だ・・。 





 よって厳しい。

 酸素ボンベを背負った相手と、潜水勝負をしている様な物で、正攻法では、まず勝てない。



 ただし、それだけだったのなら。

 この第1の理由だけならば、大幅に不利になりはするが、決定的とまではいかなかった。

 何故ならルークは歴戦の冒険者。

 この世界における冒険者とは、主に廃呪カタラを狩る者たちであり、そして上位の廃呪とは、人間を大きく上回るスペックを有するものである。

 故に、自らを上回るエネルギーを所有する敵との戦闘など上級の冒険者には当然の事であり、相手のスタミナが自分より上だったので手も足も出ませんでした、等と言うさまに簡単に追い込まれるような冒険者には、歴戦という枕詞は付きはしない。

 よってルークの劣勢を決定的した要因は他にある。



「さあ、まだまだいきますよ?」



「――チィッ!?」



 ニフトの周囲から、本日何度も繰り出された、爆発する鱗粉が噴出し、ルークへと殺到する。

 先のリソースの削り合いと言う観点に立って考えるのならば、この攻撃に対し、ルークは最小限度の力で切り抜けるべきだろう。

 それが自身を超えるエネルギーの持ち主に対する戦い方の1つであり、ルークにはそれを可能とするだけの力量がある。




「――ッ。雄々ォォォォォォォォォオオオッッ!!!」



「ああ、痛いィィ。また、負けてしまいましたわね。フフッ」



 だが、ルークはその対処を選択しなかった。

 鱗粉の濃霧を、真っ正面から完全にねじ伏せる。 

 そしてまた、ニフトにそれなりの傷を負わす事には成功したが…………直ぐに回復される上に、残り少ない魔力を、更に消費したという意味で、確実に敗北の足音が近づいて来ていた。

 何故、こんな負けに行くような対処の仕方を?

 何故、最小限の力で切り抜けようとしなかったのか?

 それらの疑問の答えは簡単だ。



 そうしなければ・・・・・・・アレンとエレノア・・・・・・・・に被害が・・・・及んでいたからだ・・・・・・・・



 そう。それこそが、ルークが劣勢にある理由の、その2つ目。

 アレンとエレノアを庇っている所為で、戦闘方法を制限されていることであった。

 露骨に人質であると、ニフトが宣言した訳では無いが、そういった意図を持っているのは、疑いようも無く明白であった。

 ルークが、一撃で相手を倒せる大技を使う。或いは、攻撃を小さな労力で凌ぎ、隙を狙う。

 そういった効果的な戦法を取った場合、倒れているアレンやエレノアに被害が及ぶ様な戦い方を、ニフトは繰り返していた。

 それが、エネルギーの補給を活かしたリソースの削り合い勝負へと自分を追い込むための罠である、とはルークも分かってはいる。

 しかし、ニフトに勝つことでは無く、アレンとエレノアを守り切ることが勝利条件のルークとしては、乗らざるを得ないのだ。


 ああ、つまり――



「うふふ。貴方1人でしたら勝てたでしょうに。なんなら今からでも、やってみます?」



「ふざけろっ!!」



 ――そういう事だ。


 ニフトの言葉は、適当にふかした物では決して無い。

 もしもこれが、1対1でかつ、よーいドンの掛け声で始まる勝負であったのなら、もっと厳しい戦いになっていたであろうことは、ニフト本人からして、認めざるを得ない。

 無論、ニフトとて未だ出していない奥の手の1つや2つは持っている。

 持っているが……、しかしそれはルークも同じことだ。

 アレンやエレノアを気にしなくて良かったのなら、取れた戦法、使えた技は幾らでもあっただろう。

 それを鑑みれば、1対1ならどれだけ上手くやったとしても相打ちまでしか持っていけず自分の勝利は無いだろう、と言うのがニフトの目算であった。


 しかしながら、人生に、たらればは無い。

 タイマンであったのならば云々は置いておいて、ルークが極めて劣勢な状態にある、と言うのが現在の変わる事の無い真実だ。



「――ならばッッ!!」


 


 ここでルークが勝負に出た。

 前述した2つの理由でかなりの不利を背負っている状況ながらも、相手にバレぬ様慎重に、そして僅かずつ体内で魔力を練り上げて、大技を放とうとした。




「ああ、それは通しませんわ」




「ッッ!?貴様、またッ――」

 



 そう。しようとしたのだが……。


 

 その攻撃が放たれる直前。

 正に、其処しか無い!と言える様な神憑り的タイミングに、ニフトの爆炎による攻撃が加えられた。


 その攻撃その物は防いだルークだったが、機先を制される形となり、起死回生の一手となる筈であった攻撃は放たれることすらなく、潰された形になった。



 これが、ルークが劣勢になった第3の理由。

 何故だかルークの呼吸・癖がニフトに読まれているのである。



 しかし、スタミナ差・人質、と言ったある意味分かり易かった2つの理由に対し、この3つ目の理由だけは、イマイチ腑に落ちない。

 これまでの戦いを見れば一目瞭然だが、戦闘の技量その物は、ニフトの動きにぎこちなさが見られることもあり、ルークの方に軍配が上がっている。

 態と手を抜いているという事も無さそうである以上、ルークの癖や呼吸をニフトの方が一方的に見抜く、と言うのは道理が合わないだろう。

 逆なら、兎も角だ。



 …………これではまるで、ルークの癖を・・・・・・最初から分かって・・・・・・・・いたかの様だ・・・・・・

 そう。ニフトがルーク・・・・・・・の知り合いであれば・・・・・・・・・この話は成立する・・・・・・・・

 ルークの側に思い当たる節が無い以上、確認のしようも無い事だが。


 


 とにかく、こうした次第でルークの不利は形作られていた。

 一手、一手と、詰め将棋の様に戦況が詰んでいき、それを覆す手段が存在しない。

 そして、遂に――。



「つ・か・ま・え・た♪」



「しまっ――――」



「ッッ!おじさんッ!?おじさぁああああんッッッッ!!!!」



 絶えず繰り返されていた攻防に、遂にルークが敗北する。

 それも唯の敗北では無い。

 これまでニフトがやられてきた、優位を取られるだけの物では無く、力と技を絞りだした末での敗北である。



 赤黒い爆炎がルークの体を包み込み、その中から炎に焼かれたルークが現れて、地面に倒れ伏した。

 ギリギリの所で、最小限の防御が成功したのか、命だけは助かった様だが…………最早、勝負は決していた。



「あ、レン。逃げろっ。お前……。だけ、でも……」



「あ、ああっ。うぁぁぁっ」



 倒れたルークの意識が闇に消える。

 それは、アレンの守り手が居なくなったことを意味していた。



 アレンの体は未だ満足には動かない。

 スペック上の数値でだけならば、アレンならばニフトの邪視の影響を跳ね除け得る筈なのだが、現実とは何事もスペック通りにはいかない。

 ニフトに対する過去のトラウマがアレンの才を縛り、回復を遅らせていた。


 それでも何とか。小鹿の様に震える足で、立つことは出来たアレンではあったが……。



「あら、可愛らしい」



「ぅぁっ!?」



 ニフトの複眼がアレンの瞳を捉える。

 それだけで再びアレンの体は地に伏せた。

 今度は意識を奪われはしなかったが、果たしてそれが良かったかどうか。

 ともかく、これで詰み、だ。



「う、うぁぁぁ……」



 こつん。こつん。とニフトの靴が、繭の床を歩く音が反響する。

 その音は徐々に、徐々にと、アレンの方へと近づいてくる。



「や、やめっ――」



 遂に、アレンの間近まで音がやって来て。

 そして、そして――――。





















「怖がらなくても大丈夫、何もしませんわ」



「………………え?」



 ――何もせずに・・・・・通り過ぎた・・・・・

 助かったのかと、一瞬だけ安堵したアレンだったが、次の瞬間にはその顔色を真っ青にしていた。




「――!?や、やめろぉおおおおおッッッッ!!!!!!!」



「うふふ。だからぁ。そんなに叫ばなくても何もしませんわ。――貴方には・・・・ね?」



 だって、ルークにも、そしてアレンにも何もしなかったのなら、ニフトの狙いは唯の1人に絞られるのだから。

 ニフトの足はゆっくりと意識を失って仰向けに倒れるエレノアへと向かっていく。



「俺が目的なら、俺に手をだせ!!!母さんに手を出すなッッッ!!!!!」



「これは、随分と勇ましい事。でも残念。私の狙いは最初から、この糞女なので」



 その言葉の通り、ルークやアレンを相手にしている時は、どこか親し気さすら感じたニフトの語気が、エレノアに対してだけは、極寒の凍土の様であった。

 その様子を見れば、ニフトをエレノアに接触させては絶対にならないと、否が応でも理解出来る。

 だから、アレンは必死に体を動かそうとした。


 動け、と。

 動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、動け、と。



 そうやって全神経を集中させているというのに、アレンの体は彼の意思に反してちっとも動いてはくれなかった。

 動かせるのは、目と鼻と口だけで、今のアレンに出来ることは自分の母親に危険が迫っているのを叫びながら見ていることだけだった。



「お願いだから!母さんには何もしないでくださいっ!!代わりに俺が何でもしますからッッ!!!!!」



「嗚呼。漸くこの時が来ました……」



 恍惚とした様子のニフトには、アレンの懇願が届いているのかすら分からない。

 しかし、届いているにせよ、無いにせよ、そのアレンの言葉をニフトが聞き入れることはまるで無く、彼女は意識を失い倒れ伏すエレノアの前まで、たどり着いてしまった。

 ほんの少しの間、エレノアを侮蔑するように見下したニフトは、その足をエレノアの顔の上で静止させた――まるで、汚らしい害虫を踏み潰そうとしているかの様に。




「やめろ、やめろ、やめろ、やめて、やめて、やめて、やめて――――」



「あはっ」




 そして、アッサリと。余りに呆気なく。ニフトの足が振り下ろされた。

 何か・・が砕ける、嫌な音が辺りに鳴り響いて、何か・・赤い液体が辺りへと飛び散った。

 その液体の一部が、アレンの頬にぴちゃり、と降り掛かった。




「ぁ、ぇ――――」



「ずっと、ずぅーっと、こうしたかったぁ」


 踏む。踏む。踏む。踏む。

 飛び散る何か。エレノアだった・・・物。


 分からない。何が起こっているのか、アレンには理解できなかった。

 脳が理解を拒否していたのだ。

 どうして、寝ている母の顔がある筈の部分が良く分からない何か壊れた肉塊になっているのか。


 ワカラナイ。ワカラナイ。ワカラナイ。

 アレンの頭はおかしくなりそうだった。



「ゴミはキチンと燃やしておかないといけませんね?」



 茫然自失としているアレンを他所に、ニフトがエレノアの体に燃える鱗粉を放った。

 直後、爆発。

 エレノアの身体が、赤黒い炎に包まれて、僅かな時間で塵も残さず燃え尽きた。


 残っているのは、焼かれなかった頭部のみ。

 最も、それも原型を留めない程に破壊されて、ただの辺りに飛び散った肉塊となっているが。



 エレノアは死んだ。

 それが現実。

 そう、理解せざるを得なかった。



「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッ!!!!」



 空間そのものを震えさせるような、アレンの絶叫が轟いた。

 脳みそが、怒りと憎しみで沸騰する。

 過去のトラウマ?そんなもの、最早どうでも良い。

 ■さなきゃ。直ぐに目の前のコイツを■さなきゃ、とアレンの頭にあるのは、ただそれだけだった。

 動かなかった筈の身体が、少しずつ動いていく。

 溢れ出る感情の儘、無理に肉体を動かそうとしている影響で、アレンの体中から血が流れ出して、全身の骨が軋む。

 だけども構わない。コイツを■した後なら、自分などどうなって良い、とアレンは思っている。



「ああ、駄目ですよ。そんなに無理をしたら怪我をしてしまいます。だから、止めましょう。ね?」




 その言葉が。

 嘲りも、揶揄いも感じられず、ただ自分の身を案じているのだと理解わかるその言葉が。

 まるで母親の・・・・・・物の様であったから・・・・・・・・・――




「――――――――――――――殺す」



 ――――アレンの思考は完全に焼き切れたのだ。




 先ほどまでの重さが嘘の様に消え失せて、アレンの体は軽やかに地面より立ち上がった。

 ふと、アレンが自身の左腕を見やると、そこに巻かれていた筈の包帯が無くなり、竜の様な腕が露出していた。

 それが何故かは明白だった。

 アレンの左腕から、腕に巻き付くように炎が発せられていて、それが包帯を燃やし尽くしたのだ。

 その炎の色は、黒。

 ニフトの放つ、赤黒い等と言う中途半端な代物ではない。

 アレンの抱く憎悪と殺意を具現したかの如き、光を吞む漆黒。

  


 自らが突如としてニフトの呪縛より逃れ得たのは、この力のお陰である、とアレンは感覚的に理解した。

 そして、自身の左腕は、何処か彼方に居る、何か途轍もなく不吉なナニカに繋がっていて、自分は今、そのナニカから力を引き出しているのだ、とも。



 ――構わない。後でどうなろうとも。



 されど、その事実を理解して尚、アレンの心には一片の躊躇も、恐れも沸き起こりはしなかった。

 業腹な事だが、自身の力は目の前の怨敵に遠く及ばない。

 その如何ともしがたい差を埋められる可能性が少しでもあるのなら、悪魔とでも契約しよう、と。

 事が終わった後でなら、自身の魂だろうがなんだろうが、好きに持っていけば良い、とも。

 


 ――だから、ありったけを寄越せ。



 アレンは、そう、強く、強く、自身の左手に祈った。

 その願いに応えるかのように、噴き出す黒炎の勢いが増した。 




  


 嘗て少年は夢見た。

 他者の親切に報いる事の出来る人間に成りたい、と。

 受けた恩を忘れずに、そして自分からも思いやりの輪を広げていける、そんな人でありたい、と。



 ああ、だけどもしかし。

 受けたのが恩では無く、あだならば?

 決して許すことの出来ない、深い深い仇ならば?



 決まっている。

 論じるまでも無い。



 罪には罰を。

 仇には咎を。

 因果応報の報いを此処に。




「――焼き殺してやる」



 釣り合いなんて取れやしないけど。

 コイツを殺した所で、母さんが戻って来る訳でも無いけれど。

 それでも、同じ目に遭わせなければ、道理が通らないだろうと、アレンは固く、強く、決意を抱いた。

 

 

「ああ。素晴らしい。なんて素敵な黒い炎――」



「なら、その身で受けろ――ッッ!!」



 多分これが始まりで終わり。

 アレン・ルヴィニと言う少年を主役として綴る英雄譚の、始まりの終わりを飾る最後の1戦。

 その決戦の火蓋が切られようとした、正にその瞬間。




 ――白繭の壁が強い衝撃で破壊された。



 崩れ落ちた壁の外から、1つの人影が現れる。

 それは、ルークもエレノアも倒れ伏した今、アレンが唯一反応を示す人間だった。



「――――クリス?」



「う、ん」



 汚れた襤褸切れに身を包んだ白髪の子供――クリスが絶望に包まれたこの場にやって来た。

 クリスは、とことこと歩いてアレンへと近づいて行く。



「なんで、此処に?いや、それよりも――――」



 自らに近づくクリスの姿を見てアレンの脳内に、ニフトの邪視で見せられた自身の左手を罵倒する人間たちの情景がリフレインする。

 あれは幻で、本当にあった事ではないと、頭では分かっている。

 しかしそれでもアレンは、今の自分の姿をクリスに見られたくはなかった。

 もし、クリスの瞳に怯えや蔑みの色が見えたら、きっと耐えきれないだろうから。



「これは…………」



「大、丈夫。怖く、ない、よ」



「だ、駄目だ!炎が!!」



「それ、も、平気」



 僅かに怯えた様子のアレンに対し、その左腕をクリスはそっと優しく自身の両手で握りしめた。

 必然、黒い炎がクリスの両手を焼くが、クリスに怖がる様子も熱がる様子も見られなかった。

 その光景を前に、ニフトが笑う。



「あらあら、これは。随分と可愛らしい騎士ナイトだこと!うふふふふふふっ」



 その表情は余りに余裕だった。

 それはやって来た手助けが、余りに小さく頼りなかったから――――では無い。



 ルークとニフトの戦闘の余波で破壊されていないのを見れば分かる通り、白繭の檻は極めて堅固である。

 その壁を破壊してやって来た以上、クリスに見た目より反した何かしらの特異性がある事はニフトにも分かる。

 しかし、その上でどうでも良いのだ。



 何故なら彼女の目的は、アレンの目の前でエレノアを惨殺して、その憎しみを持ってアレンを黒炎に目覚めさせる事。

 つまり、もう目的を達しているのである。


 最早、現状は詰みチェックメイトですら無く、決着ゲームセット

 当に勝敗は決している。



 よってニフトにとって、今の時間など唯の暇つぶし。

 仮にここで、突如として神から力を渡された英雄が現れて、ニフトを惨たらしく殺したとしても、彼女は楽し気に微笑んで死ぬだろう。

 ああ。だから。もしも、アレンを救わんとするのなら、エレノアが死する前までに来なければならなかったのだ。

 その事実を把握しているのか、いないのか。

 惨憺たるこの場の光景を見て、クリスは軽く目を閉じた。

 その動きに呼応する様に、辺りに飛び散っていたエレノアの頭部だった物の残骸が、淡く光り輝き始める。

 それを見たニアスが堪えきれない、とばかりに大笑する。



「ぷっ。くふっ、くふふふふふふふふふふふっ。あらあら、これはこれは。小さな騎士ナイトでは無く、神官様だったのかしら」



 まあ、確かに?

 それを・・・――――エレノアの蘇生を為せるのなら話は別だろう。

 全てを覆す神の一手と言っても良い。

 ああ、けれどもそんな事は起きないのだ。



「ですが、ごめんなさいね。その阿婆擦れには個人的な恨みもありまして。絶対に蘇れないように、念入りに殺してありますの。だから、無駄な事はお止めなさいな」



「――ッッ!クリス、良いよ。ありがとう、でも母さんは蘇らない。俺は敵を取るから、クリスは逃げてくれ」



 ニフトにとってエレノアの殺害は絶対に成し遂げなければならない事柄だ。

 しかもニフト自身が何度も言っている様に、個人的な恨みもある。

 だから、その殺害は極めて念入りに。

 それこそ、この世界における回復魔法の使い手の上位10人がこの場に突然現れる、なんてふざけたご都合主義が起こったとしても問題の無い程に執拗に行われている。

 それは息子であるアレンですら、一欠片の希望を抱くことすら出来ない位の惨状の物なのだ。

 


 死んだ者は蘇らない。

 それが、世界の法則ルールだ。

 医術や魔法などで多少の誤魔化しは効くが、飽く迄それは結末を先延ばしにしている程度の事。

 誰であろうと、絶対に逃れ得ぬ摂理なのである。




 よって此処に断言しよう。

 それこそ、奇跡が起きない限り、エレノア・ルヴィニが生き返る事はない。



 

 ああ。つまり、それは――――


















































 ――――――何も問題が・・・・・無いという事だ・・・・・・・

 

 

 


「――【治癒】」



 死んだ者は蘇らない? 成程。

 それが世界の法則ルールで摂理? 成程。


 成程。成程。


 …………嗚呼。それで?だからどうした。



 己が治れと言ったのだから、疾く治れよ。

 それが法則ルールで摂理だ。


 そもそもの話。数分前に頭を砕かれて、全身を燃やし尽くされた程度・・、死んでいる内に入らんだろう。


 故に、紡いだ祈りは蘇生・・ですら無く、治癒・・



 そんな風に、傲慢さすら感じさせる神聖な祈りが、此処に奇跡を巻き起こす。



 炎に焼かれて塵すら残さず消え去ったはずの体が元に戻った。

 原型を留めない程、グチャグチャにされていた頭部が、綺麗に治る。

 物理的に心臓が焼失して、止まっていたはずの息が吹き返された。

 それは、まるで動画の巻き戻しを見ているようであった。



 時計の秒針が1度動ききるよりも早く。

 そんな僅かばかりの時間で、余りにもアッサリとエレノアは元通りに生き返った。




「――――ん?これ?……ま、あ。一緒、に、治せ、ば、いっ、か」



 いいや、元通りでは無かった。

 体を病弱にしていた原因も簡単に治されて。

 エレノアは死ぬ前よりも、元気な体になっていた。




「――――え?」



「――――はぁ?」



 被害者と加害者。

 正反対の立場である筈の2人が、目の前で巻き起こった出鱈目に、同じ様に呆気に取られた声を上げた。

 呆然自失となっているアレンに対し、クリスは朗らかに微笑みかけた。



「お母、さん。治っ、たよっ!」



「――――――っ」



 その時のアレンの表情と感情を一体何と言い表せば良いだろうか。

 急転する絶望と希望によって彼の情緒は滅茶苦茶になっていた。

 どこまでも深い絶望から、とても呆気なく救い出されて、喜びよりも先に呆然としてしまっている。

 歓喜の声を上げたいと思うほどに幸福が溢れ出して来ているが、余りに奇跡染みた救い方をされて、目の前の光景が信じきれない。

 だけど、本当は直ぐにでも信じたい。

 そんな、かき乱れる心模様がアレンの心中だった。



 恐る恐る、慎重に。

 ゆっくりと確実に、確かめるように、アレンの手がエレノアに触れる。

 その鼓動が、熱が、アレンに伝わる。

 生きているのだ、確かに。

 突然の展開に麻痺していたアレンの脳みそに、漸く実感の灯が点いた。



「ぅ、ぅぁぁぁっ。母さんっ、母さんっっ」



 感極まったアレンは、生き返った母の体に顔を押し付けて、大量の涙を流していた。

 先程まで、激しく燃え盛っていた黒い炎はいつの間にか、すっかり消え去っている。

 その様子を、クリスは嬉しげに、そして少しばかり申し訳無さそうに見ていた。



「遅れ、て。ごめ、んね」



 エレノアの治癒に抜かりは無いが、そもそもこんな状況になるまで間に合わなかったことをクリスは悔いていた。

 治るからと言って、傷ついて良い、だなんてクリスにはちっとも思えないのだ。

 最悪の事態は回避したとは言え、もっと早く来れるようにするべきで、アレンが受けた精神的苦痛を思うと、クリスの胸は張り裂けそうなほど悲しくなった。

 だが反省するのは、後だ。

 未だこの事件は終わっていない。相対しなければならない相手が居る。

 クリスは、ニフトの方へ視線を向けた。


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