第6話

 高校の夏休みといっても七月下旬から八月末までの約四十日間まで連続で休みというわけではない。必ず途中に二、三日の登校日が設けられているのだ。

 今日は鳴子川高校の登校日。

 といっても授業が行われるわけではない。

 最初に教室で点呼を受ける。まずこの段階で数人が来ていない。

 次に灼熱の体育館にぎゅうぎゅうに詰め込まれて全校集会が行われる。あまりの人口密度の高さにここで数人が保健室に運ばれていた。

 そして最後に教室でホームルームが行われる。一学期の終業式の日に説明された注意事項をもう一度聞かされる。この段階では脱落者は出ないがほとんどの生徒が担任の説明なんてものは聞いていない。

 十時を過ぎたころに生徒たちは解放される。いつも活動している部活動も今日ばかりは休みのところもあるようだ。生徒たちは休みの再開と友人との再会に興奮したようすで我先にと教室を出てどこかに遊びに駆けていく。

 そういうクラスメイトのはしゃぐ姿を見送り、教室内も人がまばらになったころに東郷は教室から出て行った。

 これから彼は自宅に帰るわけではない。

 もちろん他の生徒と同様、登校日の予定が終わったらすぐに家に帰りたいというのが東郷の本音だった。この炎天下の中を四、五十分も自転車を漕いで帰宅するのはだるかったけども、その苦労があるからこそ冷えた麦茶も美味しく感じるというものだ。

 しかしその重労働が億劫ですぐに下校しなかったわけではない。

 鶴見に呼び出されていたのだ。

 教室を出た東郷は幼馴染に待ち合わせ場所として指定された図書室へと向かう。音楽室から聞こえてくる吹奏楽部の楽器の音を聞きながら廊下を歩いていく。ホームルームが終わってそこまで時間が経っていないというのに熱心なものだ。

 自分もその練習に加わらなければ、とは東郷は思わない。

 そもそも東郷は鳴子川高校吹奏楽部の部員ではない。いつもの練習の日は細島中学校の卒業生という立場で参加している。それにいまから飛び込みで練習に参加したとしても使用する楽器がないだろうし部員たちも困るに違いない。

 それに加えるならば東郷はまだ演奏会への参加を誘われている段階だ。参加するともしないとも返答はまだしていない。

 そういえば演奏会に誘われた日から時間が経っている。練習に参加しつつも未だに悩んでいる状況だ。そろそろどちらにするのか返答しないと柘植を筆頭とした指導陣が困惑するだろう。

 よし、今日のうちに答えは出すぞ。

 また明日考えようと繰り返してこんな時期になってしまったんだ。鶴見に呼び出された理由は知らされていないが今日は弁当を持ってきていない。用事が長引いたとしても十二時頃には解放されるだろう。そこから自転車をのんびり漕いでも十三時過ぎには帰宅することができる。麦茶で喉を潤したら寝るまでには答えを出そう。

 そう決意しながら東郷は図書館の重い扉を開いた。室内は静まり返っている。彼は入口を通過すると振り返って扉を静かに閉めた。べつにそうする必要はなかったが扉から手を放して自然に閉鎖させてはいけないかのような感覚に陥っていた。

 図書室内は静かに人の話し声が聞こえてくる。

 その会話よりも外から聞こえてくる吹奏楽部の楽器の音のほうが大きいぐらいだ。

「東郷、遅かったじゃないか」

「ホームルームが長引いたんだよ」

 読書用の机には鶴見と対面するように一人の男子生徒が座っていた。

 鶴見は東郷の疑問を感じ取ったようで彼らの紹介をしてくれた。

「この人は軽音楽同好会の副部長」

「あ、どうも」

 初対面である東郷と副部長は会釈を交わす。

 なんだかチャラチャラしたような見た目をしている。いや同好会の幹部を務めている先輩だ。こう見えて意外としっかりしているのかもしれない。

「……それで用事は?」

「単刀直入に言うけども一学期も終わったことだし学校にも慣れてきただろ?」

「それで?」

「だから副部長と一緒に東郷を軽音楽同好会に勧誘しようって事になった」

「いや、一学期に入部するつもりはないって言ったよね?」

「あのとき東郷の家は喪中だったからな。もう散骨式は終わっただろ?」

「つくづく思うけど鶴見君ってえげつないよね」

 べつに彼の本性を知らなかったわけではない。

 だけどもうすでに手遅れだ。

 東郷は押しに弱い。同級生と鶴見ならばともかく三年生の先輩、しかも同好会の部長から勧誘されたら逃げ切れそうにはなかった。もはや東郷は図書室に入った時点で火の中に飛び込んだ虫も同然だった。

 なんだかんだと活動風景を見学することになってしまった。

 東郷は連行同然に軽音楽同好会の活動教室に移動することになった。


「おい、止まれ!」

 鶴見や副部長たちとバンド談義に花を咲かせながら活動教室に移動していると背後から怒号が飛んできた。

 突然の怒号に東郷はビクビクしながら振り返った。

 そこには授業で世話になっている体育教師が怒り狂ったように迫っていた。

「無理やり生徒を部活見学に連れていくんじゃねぇよ!」

「違いますよ」

「ギターだかベースだか知らんが、そんなものをやってる不良の言うことなんか信用できるもんか!」

「いえ、僕は本当に興味があって見学に……」

「黙ってろ! お前なんかとは話してない!」

 無理やり連れていかれていると思い込んでいる枕崎の誤解を解こうと東郷は説明を試みたものの、会話の相手ではないということで相手にしてはくれなかった。

「先生落ち着いてください。東郷が言っている通り俺たちは興味のある生徒を見学に連れて行っているだけなんです」

「本人がどうかなんて関係ねぇ! 俺にそう見えたからそうなんだ!」

 枕崎の主張はめちゃくちゃだった。

 ここ鳴子川高校は宮崎県の県立学校だ。当然、そこに勤務する教師たちは非常勤講師を除けば全員が宮崎県の教員採用試験をクリアしている。

 しかしここまで思考回路が破綻している教師がいるとは。よりにもよって自身が通う高校にそのような教師がいるのだから東郷はただ嘆かわしかった。

 高校を卒業したら市役所で働きたいと考えている東郷は高校一年生の今の時期から地方初級公務員試験の対策を始めている。だから公務員採用試験についてはある程度の知識を持っていた。

 東郷は教師になるだなんて考えたことすらないから教員採用試験の事は全く分からない。しかし目の前で鶴見たちに因縁をつけている枕崎はその試験を通っている。東郷が勉強している地方初級公務員では文章理解や作文といった論理的な思考ができるかどうかの試験が行われるが、教員採用試験では実施されていないのだろうか。もしも実施されているのであれば、ここまで滅茶苦茶な理論を展開する枕崎がその試験に通ったとは到底思えなかった。

「やましいことなんて何もしてないんだからさ。もう行こうぜ」

 もう話にならないと副部長は判断したのだろう。確かにその枕崎に対する評価は東郷も同じだった。教師というものはもっと理路整然としていて事情を話せば理解してくれるものと思っていた。

 時間の無駄と考えた副部長はこの場から立ち去ろうと振り返った。しかし枕崎はまだ軽音楽同好会に対して「仕事」とやらをしたかったのだろう。立ち去ろうとする副部長を制止するために彼は手を伸ばした。その手は副部長が手にしていたエレキギターのハードケースを乱暴に掴んでいた。

「俺の楽器に触るんじゃねぇ!」

 楽器は演奏者の体の一部だ。自分の体よりも大事な楽器を乱暴に掴まれて激怒しない演奏者なんていない。

「なんだその態度は!」

 副部長の反応を想定していなかったのだろう。

 枕崎は副部長の胸倉を掴み上げ、顔を近づけて唾を飛ばす。

「お前、生徒指導室に来い!」

「教師が生徒の胸倉を掴んでもいいんすか?」

「生徒指導部を舐めるなよ!? お前なんか謹慎、いや停学にしてやる! 軽音とやらも廃止にしてやる!」

 最初はちょっとした言い争いだったが、とてつもなく物騒なことになっている。

 軽音楽同好会の見学に行こうとしていたはずなのにこのような事件に巻き込まれるだなんて。謹慎だの停学だの、優等生で通っている東郷には無縁の単語が飛び交っている。

 いったい東郷は何をすればいいのだろう。

 間に割って入るとしても枕崎は東郷の話に取り合う様子がなければ腕っぷしでも負けてしまうだろう。かといって他の教師を呼びに行こうものならばその間にもっと騒動が大きくなっているかもしれない。

 これまでに直面したことのない状況に東郷は戸惑っていると、空から絹を切り裂いたかのような悲鳴が聞こえた。

 そして教師の向こう側にどさりと何かが落ちてきた。

 だれかが飛び降りたのだろうか。

 いやな予感がして東郷の背中から冷や汗が噴き出る。

 しかし落下してきた物体は身投げしたわけではなかった。

 その物体は何事もなかったかのように立ち上がると触手のように教師の顔面に手を這わせていた。

「楽器を丁寧に扱わないとは感心できんなぁ」

 ドスの効いた声だった。

 ここまで太く濁った声を使う人間なんて荒くれものばかりの漁業組合にさえいない。

 しかしその声には聞き覚えがあった。

 え?

 なんで!?

 その声の主が分かったとはいえ、なぜ彼がこんなところにいるのか理解ができなかった。

 教師は口を塞がれた上に仰け反った状態で拘束されている。

 胸倉を掴まれていた副部長に向けて、空から降ってきた宗太郎が問いかける。

「大丈夫か?」

「え、あ……怪我はありません」

 予想もしなかった宗太郎の登場にその場の誰もが驚いている。

「そうじゃない。エレキギターは無事か」

「あ、たぶん大丈夫です」

「セミアコースティックか。多くのジャンルに対応できるいい楽器だ」

 怪我よりも楽器の安否を優先して確認するのはさすが楽器経験者と言うべきだろうか。それともただ単に鬼畜なだけだろうか。

 そしてギターケースを見ただけでギターの種類を言い当てるだなんて。エレキギターと聞いたら多くの人がソリッドギターを想像するはずだ。特定のジャンルにとらわれない音楽の知識は師匠譲りなのだろうか。

「え、宗太郎さん……?」

「どうした東郷」

「なんでここにいるんですか?」

「女神様のお使いだ」

「いや……空から降ってきましたよね?」

「空じゃない。三階だ」

 信じられないとでもいうように東郷をはじめとした誰もが天を仰いでいた。さっきまでガンガン聞こえていた吹奏楽部の楽器の音は止まり、三階の窓からは吹奏楽部員たちが心配そうに見下ろしている。

「変なことは考えるなよ?」

 宗太郎は警告を与えたのちに教師を解放する。

 しかしそのメッセージは届いていなかったようだ。

「誰だ!」

 突然拘束されたことで激高したのだろう。

 教師は解放されるやいなや宗太郎に掴みかかる。

 まさか乱闘になるのか。東郷はとんでもないトラブルに巻き込まれたと不安になるがそれは杞憂に終わった。

 宗太郎は一瞬にして教師を地面に組み伏せていた。

「ほう、元同業者といったところか」

 宗太郎はそう呟いた。

 その声には恐ろしいほどに何の感情も含んではいなかった。

 彼は何かの荷物を扱うかのように教師の腕を背後に捻り上げていた。

「お前ら誰でもいいから職員を呼んで来い。あと離れておけ」

 宗太郎の指示のもと東郷たちは一斉に職員室に向けて走り出した。職員を呼んでくればいいだけだったから一人で十分だった。しかし全員が一緒に行動した。誰かと一緒にいたほうが個々の生存率が上がるという本能によるものだろうか。

「東郷! さっきのゴリラ誰だよ!?」

「吹奏楽の知り合い!」

 準備もなしに走り出して乱れた呼吸の合間でそう情報を伝え合う。その会話は悲鳴に近く、もはや職員を呼びに行くというよりも職員室に逃げ込むかのように走っていた。


 息を切らして飛び込んできた生徒に職員室は大騒ぎとなった。事情を聞いた教職員は事件現場へと急行した。別に現場では二人が殴り合っているわけでもなく、宗太郎が枕崎の腕を捻り上げたままだった。

「これは困りましたねぇ」

 校長室の応接ソファに座った校長がため息をついた。

 事情聴取ということで東郷と軽音楽同好会の部員二人と共に宗太郎は校長室へと移送された。これが生徒と教師のいざこざであればこんな待遇にはならなかったはずだ。殺風景な生徒指導室へと連行。良くても職員室だろう。

 しかし今回は来客者と職員の争いだった。学校運営の責任者である校長が出てこないわけにはいかなかった。

「先ほども説明しましたが中庭で生徒と教員が言い争っているのを私は音楽室から見ていました。そして教員が生徒の腕を掴んでいるところを現認しました。これは体罰、厳しく言えば暴行罪に該当する可能性があります。言い争っている状況からして教員が激高して生徒に怪我をさせる危険も十分に予想できました。つまり暴行罪を通り越して傷害罪になるわけです。傷害罪は暴行の認識で十分であり傷害の認識は不要と解釈されています。もしも本人に生徒を怪我させる意思が無かったとしても理由にはなりません。たしかに刑法第35条で正当な業務による行為は違法性を阻却するという旨の規定がありますがあれは教師の正当業務からは逸脱していると判断しました」

 応接セットを挟んで校長と正対した宗太郎が堂々と事情を説明する。

「私は上から見ていましたが生徒は教師を挑発しているような言動は見られず教師が一方的に行動したことからこれは生徒の自招侵害ではなく急迫不正の侵害と判断しました。さらに刑法第36条の1には「急迫不正の侵害に対して自己又は他者の権利を防衛するためにやむを得ずにした行為は罰しない」といういわゆる正当防衛の規定があります。本件の私の行動は生徒の身体の安全という法益を防衛するためのものだったと主張します」

「それにしても張り倒すなんてねぇ……」

「いやいや、あの人って元自衛官ですよね? しかも部隊格闘指導官でしょう」

「確かに教員になる前には自衛隊で格闘の教官をしていたらしいですけども」

 あの教師が昔は自衛隊にいたことは噂に聞いていた。

 高校では空手部で全国大会に出場し、そしてスカウトで大学へと進学。そしてその後に陸上自衛隊に入隊したのちに空手の指導者になりたいということで学生時代に取得していた教員免許を活用して高校教師になったと話を聞いている。

 しかし格闘技の教官をしていたとは聞いたことがなかった。もっとも高校時代に全国大会に出場した実績もあるため不思議ではないが少なくともそのような話を東郷は聞いたことがなかった。

 いったい宗太郎はどこでその情報を手に入れたのだろう。

「刑法第36条の2には限度を超えた防衛行為。いわゆる過剰防衛の規定があります。しかし相手はプロでした。私は急迫不正の侵害と同程度の防衛行為しか行使していませんし使用したのは制圧術の一種で固め技しか使っていません。そもそも私がその気になっていたら関節を外していますよ」

 最後は宗太郎が冗談めかして説明していたが、本当にやりそうで全然笑い話には聞こえなかった。東郷は宗太郎にそんな考えがなかったと信じているけども。

「事情はわかりました。私もあの教師の行動はやりすぎだったと思います。たしかに軽音楽同好会は部員を強引に勧誘しているとは思えません」

 鳴子川高校には六百名前後の生徒たちが所属している。

 普通の生徒が校長と関わるのは全校集会や式典のときぐらいだ。長ったらしい演説を一方的に聞かされるだけでありこうやって膝を突き合わせて会話をすることなんてない。あるとすれば謹慎になるような問題行動を起こす問題児ぐらいのものだろう。

 当然のように東郷も軽音楽同好会の二人も校長と会話したことはなかった。

 しかし校長の口ぶりは彼らが問題行動を起こすとは思っていない堂々としたものだった。東郷たちは在校生六百名のうちのごく一部にすぎないがそれでも彼らの事を信じていた。

「そして生徒たちを守ってくださりありがとうございます」

 校長は宗太郎に対して感謝の言葉を述べる。

 しかし彼の行動について思うところがあったようだ。

「それでも高いところから飛び降りるだなんて無茶なことはしてはいけません」

「いやいや、無理はしますけど無茶はしませんよ」

「三階から飛び降りることを世間一般では無茶と言うんです」

 それはまさしく正論だ。

 あんなところから飛び降りようものならば軽傷だったとしても片足の骨折は覚悟しなければならない。宗太郎の行動は投身自殺を疑われても仕方がないものだった。

「学校で何か事故があったら私の責任になるんですから」

「……はい」

「ともかく生徒たちに問題がなかった事も、彼らを守るためだったという事も分かりました。みなさんに不都合がないように私のほうからも説明しておきましょう」

 そう校長に約束されて東郷たちは事情聴取から解放された。

 東郷が最後に校長室を退出すると静かにドアを閉めた。

「面倒だったな」

「宗太郎さんが飛び降りるから余計に面倒になったんですよ」

 争いごとに割って入ってくれたことはありがたかったけどももっとマシな登場方法があったはずだ。

「もしかしてあの先生と知り合いだったんですか?」

「いや初対面だった。そもそも知り合いだったらあんな事にはならないだろ」

 東郷は疑問に思ってそう質問した。

 そんなわけないだろう、とでも言うかのように宗太郎は面識を否定した。たしかに彼の言う通り、知り合いであればあんな騒ぎにはならなかっただろう。

「そしたらどうして元自衛官ってわかったんですか?」

「そうですよ。あの先生の経歴は生徒たちの間では有名ですけど、格闘技の教官をしていたなんて初めて聞きましたよ」

 たしかにそれは疑問に感じた。

 あの教師の経歴はほとんどの生徒たちが知っている。

 その内容ならばともかく、宗太郎は彼が元自衛官というだけではなく格闘の教官をしていたことも見抜いていた。校長はその経歴を把握していたようだけども生徒たちは誰も知らないことだった。

「あんなの見る人が見ればすぐにわかる」

「あの先生って正直強いんですか?」

「強いかどうかで言えば強いほうだろうな」

 なんてこともない、とでも言うように宗太郎はさらりと答えた。

 確かに宗太郎は現役の自衛官だ。

 東郷はよく分からなかったけども本職の人が見ればあの教師がそういうレベルだと分かるのだろうか。

 しかし掴みかかってきた元教官の手を宗太郎は回避するどころか反撃として地面に組み伏せていた。東郷たちが教師たちを呼んできたときには完全に枕崎を制圧していた。

「おっと、音楽室に楽器を置きっぱなしだ」

 悪いが俺はもう行くぞ。

 そう言った宗太郎は音楽室に続く階段に足を掛けた。

 その直後に何かを思い出したようだ。

「ああそうだ。東郷、今度の演奏会のことは決めたか?」

「いえ、本当は今日家に帰って考えようとしていたんですけど」

「そうか。また決めたら教えてくれ。急がなくていい」

 東郷はただ申し訳なかった。

 演奏会に誘われた最初の日から結構な時間が経過している。それにも関わらずいまだに答えを出すことができていない。

 このままずるずると進んで結局はステージに上がるかもしれないけども、このような決意が固まっていない状況で演奏に参加しても迷惑をかけることだろう。

 かといって参加しないという決断をする勇気もなかった。

 なぜだろう。東郷は吹奏楽から離れた身だ。高校に入学して吹奏楽部の見学に行かなかったように練習にも参加しなければいい。しかし自然と練習のために母校に戻っているのだ。

「俺は東郷の意思を尊重する。だけどたまには大勢で舞台にあがるのも良いものだぞ」

 宗太郎はそのように背中で語りながら音楽室に続く階段をのぼって行った。

「なぁ東郷」

「ん?」

 彼が立ち去るのを見届けたのち、隣の鶴見が東郷に語りかけた。

「演奏会ってなんのことなんだ?」

「この前に話したことだよ。宮崎県の凄い音楽家が来て、細島中学校と鳴子川高校の吹奏楽部が共演するってやつ」

「もしかしてさっきの人がその凄い音楽家?」

「いや、その弟子」

 今日は柘植のお使いで学校に来たと宗太郎が言っていた。

 彼はチューバを吹いているからきっと低音パートの指導にやってきたのだろう。

「本当にあの人は何者なんだよ。三階から飛び降りて枕崎を張り倒すし。それに校長室では刑法の何条がどうとか弁護するし。しかも音楽家の弟子ときた」

 鶴見は戸惑っている様子だったけどもやや興奮している様子だった。

 彼は生徒総会で議長の独裁的な進行に異議を唱え、軽音楽同好会の部活動昇格に反対する大村の意見を丁寧に、そしてえげつなく潰していった。

 あの弁論は今となっても全校で伝説となっている。生徒会役員や吹奏楽部の圧力を受けている被害者ということで同情されているだけかもしれない。しかしあの事件から軽音楽同好会の人気は確実に上昇している。それに大きく貢献したのが鶴見の弁論だった。周囲からの圧力に屈することなく堂々と自分たちの実績を主張し反対意見を毅然と撃破していく彼の姿に多くの生徒たちが驚いていた。

 そんな彼は弁護士になることを夢見ている。そのことを同級生や軽音楽同好会の部員たちは知らないが、幼馴染である東郷だけは本人の口から教えられた。

その目標は口先だけのものではない。放課後には同好会に参加しながらも定期テストでは常に学年一位だ。鳴子川高校はバリバリの進学校というわけではないけども彼は法学部がある大学に進学することを目標に休日には進学塾に通っている。

弁護士という日本最難関の資格を目指している彼だからこそあの整然とした宗太郎の弁論に感動したのだろう。宗太郎は自衛官であって弁護士ではないけども正当防衛や過剰防衛といった専門用語だけでなくその根拠となる条文や解釈を持ち出して説明する姿に鶴見が感動しないわけがなかった。

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