第7話
「みんな落ち着いて聞いて欲しい」
細島中学校での合同練習の日。
音楽室にみっちりと詰め込まれた部員たちを前にして指揮者台に立っているのは宗太郎だった。
「伝えないといけないことが二つある。両方とも悪い話だ」
ふと顧問たちの顔色を伺うが何か考えがあるような表情だった。
相当大きな問題が発生したのだろう。
「まず一つ。柘植先生がやらかした」
みんなが騒めいた。
何か失敗したとしても今日の練習には参加できるはずだ。
まさかここに顔を出せないようなことをしてしまったのだろうか。
「おいおい、別にパトカーに乗せられたわけじゃない」
何か事件を起こしたわけではないことで部員たちはホッとした。
もっとも、柘植はなにか事件を起こしそうには見えない。人の良さが顔や立ち居振る舞い、言葉遣いに現れている。
あの『女神様』が警察の厄介になったと少しでも考えた自分自身をぶん殴りたい。
むしろパトカーに乗りかねないのは宗太郎のほうだ。
「乗ったのは救急車だ」
宗太郎は爆笑しながらタネを明かした。
安心させてから突き落とすなんて彼は面白がっているに違いない。
東郷が感じた罪悪感は一体何だったのだろうか。この気持ちを込めて宗太郎を殴りたかった。きっと柘植も許してくれるだろう。
「階段を踏み外して転落。大怪我だ。どう考えても定期演奏会には間に合わない」
あの柘植が怪我をしただなんて東郷は信じられなかった。高齢者とはいえ職員室で突然ヒゲダンスを踊りだすほどに元気だったのに階段を踏み外して怪我をするだなんて。
知らない人からすれば指揮者は棒を振っている人という認識かもしれないが、楽器をやっている者からしたら不可欠な存在だ。指揮者がいるからこそあの大人数がそろって演奏することができるし、音楽表現の幅も広がる。
何より心強い。
ときには亡くなった指揮者を追悼するという意味で指揮者を立てずに演奏するという場合もあるがそんなのは例外中の例外。しかもプロオーケストラでの話だ。アマチュアどころかその中でも最底辺の吹奏楽部がそんなマネをできるとは思えない。
指揮者不在での合奏が非常に困難なものであると理解している部員たちに動揺が広がる。こうなってしまっては顧問に指揮をしてもらうほうがいいんじゃないか。
そういった声がちらほらと聞こえてくる。何人かの部員はお願いするような瞳でそれぞれの顧問を見ている。しかしその顧問たちは動じる様子がない。
「そして二つ。代わりに俺が指揮を振ることになった。女神様からのご指名だ」
「あの……宗太郎さん。柘植先生が怪我されたのはお気の毒ですけど、代理を指名されたのは喜ばしいことなのでは……?」
悪い話が二つあると言っていたうちの片方が代打の話だった。
これがどのように悪い話なのか理解できなかったのは東郷だけではなかった。その疑問を代表して、大村が恐る恐る尋ねてみた。
「まだ続きがある。問題は俺が指揮を振ることじゃない。俺が指揮を振るのが初めてだということだ」
混乱はさらに酷くなった。
指揮者が出られないどころかその代打が未経験者なのだから。
部員たちは口に出して近くの顧問に「代わりに指揮を振ってください!」と懇願するが、顧問は二人とも「まぁこのプランで行ってみようよ」と諭している。
代打として宗太郎に指揮を指示したのは『宮崎県の吹奏楽界の女神様』との異名を持つ大御所の柘植だ。その方針に苅田が異を唱えるのは難しかっただろう。教え子でもある星野ならばなおさらだ。
「みんな聞いてくれ!」
宗太郎が両手を振って注目を集める。
問題は二つだけだと彼は言っていた。これ以上の問題は起きないだろうと部員たちは宗太郎へと顔を向ける。
「俺は柘植先生から指揮法も習っている。あくまで本番で指揮を振ったことがないだけだ。それに今回の曲は特に変なものじゃない。「シュネーベルの『ノスタルジー』を振れ!」なんて言われていたらさすがに断っている」
「………………?」
「カーゲルの『フィナーレ』だったら少し迷ったな。はははっ」
「………………?」
意味が分からずに部員たちは近くの顧問に助けを求める視線を送るが、その顧問でさえも困っていた。
きっと不安を和らげるための宗太郎なりの冗談なのかもしれない。しかしその効果はないどころか逆効果だろう。
問題が三つに増えてしまった。
「さて、俺が指揮をふる前にもう一つ話がある」
冗談を飛ばしていた彼はどこかに行ってしまった。
彼の表情は引き締まっている。その姿は指揮者というよりも戦場の最前線で戦っている部隊の指揮官のようだった。
「みんなはまだ学生だ。きっときちんと勉強しているはずだろう。さすがに赤点を連発するような奴はこの中にはいないな?」
何人かの部員の顔がひきつった。
赤点は取っていなくても勉学に不安があるのだろう。
東郷だって人のことを言っている場合ではない。テストは平均点を軽く超えてはいるが、どうしても英語の成績が振るわない。赤点を取りかねないわけではないが全体を見るとどうしても英語だけが足を引っ張っているように感じる。
「抜き打ちテストだ。1904年2月から1905年9月にかけて日本とロシアが戦争になった。いわゆる日露戦争だ。南下してくるロシアとの戦争で、満州南部や遼東半島が主戦場となり、日本近海で大規模な艦隊戦が行われたのもこの戦争だった。さて、この大日本帝国とロシア帝国の戦争を何という? ……じゃあ鳴子川高校の部長」
「え? ………………日露戦争?」
「正解」
新手のひっかけ問題かな?
と不安になりつつも指名された大村は答えた。
それは何のひっかけでもなく問題にすらなっていなかった。ただ単に宗太郎の出題ミスだった。しいて問題があるとすれば出題した本人が気づいていないことだろうか。彼は優秀な社会科教師になれるかもしれないが、定期テストの作成で困ることだろう。
「日露戦争中に日本海海戦という大規模な艦隊戦が行われた。中学一、二年生だとまだ習っていないかもしれないが、この海戦で当時世界最強と呼ばれていたロシアのバルチック艦隊を日本の連合艦隊が撃破した」
中三のやつと高校生は全員知っているな?
その宗太郎の問いかけに対象者の全員が頷いた。
東郷の隣でコントラバスを抱えた久留米も頷いた。東郷はいつ習ったか忘れたが少なくとも中学校一年の夏頃はまだ習っていないはずだ。順調に行っていれば今頃は鎌倉時代、後醍醐天皇が島流しになったあたりだろう。
「どこかで「本日天気晴朗なれども波高し」という言葉を聞いたことがあるだろう。これは日本海海戦で送られた無線だ。意味はそのまま、晴れているけども波が高いというものだ。この海戦では事前に駆逐艦や水雷艇による水雷攻撃で敵戦力を削る計画だったが、波が高くてこの水雷攻撃は中止。いきなり主力艦隊による砲撃戦となった」
天気晴朗なれども波高し。
祖母がそう呟くのを東郷は何度も聞いていた。
耳に馴染んだ懐かしいフレーズだ。
「予定通りに物事が進む作戦なんてものはない。大事なのは想定外が発生したときにどのように計画を修正するかだ。日本海海戦で事前に水雷攻撃ができないからといって作戦自体を中止にしていたら歴史は変わっていただろう。むしろ晴れていて視界良好だったことで砲撃戦には有利だった。大砲の威力自体は劣っていたが、日本側は艦の速力、大砲と砲弾の性能。そして敵を前にして大回頭せよという司令長官の命令。この当時ではあり得ないような艦隊運動も影響してこの海戦に勝利したと言われている」
日本海海戦のことは中学の歴史の授業で習っていたが、軍艦や大砲の性能や当時ではありえないような艦隊運動のような細かいことまでは習わなかった。
「波の高さなんて変えることができない。みんなの状況に当てはめると柘植先生が怪我で本番に出られなくなったことはどうすることもできない。もしもこの問題をどうにかできると思っているやつがこの中にいるならば、部活なんてやっている場合じゃない。さっさと辞めて全ての時間を勉強に突っ込んで医学部に行ったほうがいい。就職先なら同僚の親が経営する総合病院を紹介してやる」
とんでもない提案に部員の誰もが顔を見合わせた。
柘植が怪我で出演できなくなったことは仕方ないと誰もが諦めていた。
「なんだ? 誰も医学部を目指していないのか?」
「医学部なんて私たちには無理ですよ!」
宗太郎の軽口に大村が笑いながら反応した。
二人の掛け合いによって周囲からも笑いが漏れる。
「今回合同で演奏する二曲は柘植先生が決めたと聞いているかもしれないが、提案したのは俺だ。俺の案を柘植先生がそのまま採用した。全員『海へ…』の楽譜を開いてくれ」
突然の指示を受けて部員たちは疑問に感じながら楽譜を開く。
この曲の正式な曲名は『海へ…吹奏楽の為に』だが、それでは長いので誰もが単に『海へ…』と呼んでいる。
「この曲を選ぶにあたって俺はきちんと意味を考えて提案した。これは2006年の吹奏楽コンクールで使用された課題曲の一つだ。気づいていたやつはいるか?」
そのように問われて手を挙げたのは一人だけだった。
それは部員ではない。
顧問の星野先生がただひとりだけ挙手をしていた。
「地元だから知っていると思うが、日向市に家鴨ヶ丘高校ってあるだろう?」
宗太郎は部員たちを見回す。
それに対して部員は頷いて応答する。
東郷もその高校の名前は知っていた。結局は隣町の鳴子川高校に進学したが、祖母には「わざわざ四、五十分も自転車を漕いで門川町まで行かなくても市内の家鴨ヶ丘高校に行けばいいのに」と言われていた。
「今となっては吹奏楽部が強い高校として有名だが、2005年までは県大会を突破できない弱小校だった。しかし2006年に歴史が変わった。家鴨ヶ丘に『女神様』が赴任してきたからだ」
その単語が出たことで場の空気が変わったのを感じた。
宗太郎はニヤリと頬を歪めて話を続ける。
「そう、柘植先生が赴任してきたんだ。それまでは県大会止まりだった吹奏楽部をあっという間に強くして県大会を突破。九州大会も通過して全国大会に出場。初出場にして金賞を獲得した。あれから十数年。柘植先生が定年退職した後も家鴨ヶ丘高校は今でも強豪校として結果を残し続けている。その伝説の始まりが2006年。その年に家鴨ヶ丘高校が選択した課題曲が『海へ…吹奏楽のために』だった」
誰もが口を一文字に締めてその歴史を聞いていた。
ただ一人を除いて。
宗太郎はその一人と視線を交わすと、その歴史のタネを明かした。
「そしてその最初の世代が星野先生だった。いま話したのは星野先生の最後のコンクールでの話だ」
鳴子川高校の誰もが驚いた。
高校時代に全国大会に出場したことは部員たちに言っていたのかもしれないが、その時の指揮者が柘植だったとは言っていなかったのだろう。今回のステージで柘植が指揮を振るということは事前に伝えていたのかもしれないが、柘植と星野が顧問と部員の関係にあったことは伏せていたのだろう。
「みんなには秘密にしてくれと言われているが特別に教えてやる。星野先生は柘植先生の影響で教師になることを決意したそうだ」
ふとホルンパートに視線を送ると星野が器用に肘で楽器を支え、両手で顔を押さえていた。気のせいだろうか宗太郎がニヤニヤしていた。本当に良い性格をしている。
「柘植先生の影響で吹奏楽指導者となった教え子が再び演奏者として柘植先生の指揮を受ける。それならばこの曲以外にないだろ?」
十七年の時を経て師弟が再会する。
師匠はあの時と同じく指揮者として。
影響を受けて師匠と同じ道を進んだ弟子は再び演奏者として。
結局は指揮者が怪我によって参加できなくなったが、なかなか心に響く演出だ。
宗太郎は見た目に似合わずなかなかのロマンチストなのかもしれない。
「そして次は『Make A Joyful Noise!』のほうだ。これを選んだ経緯を説明すると、ぶっちゃけ何も考えていなかった」
悪びれもしないカミングアウトに部員たちから呆れた声が漏れた。
さっきまでは選曲に至る過程や理由を熱く語っていたのだから、きっとこちらの曲も何か意味を込めているのだろう。そう期待していたのは東郷だけではなかった。
さっきのロマンチックな雰囲気もぶち壊しだ。
「あのときの自由曲を選んでもアンタらには無理だ。俺にも無理だ」
宗太郎がロマンチストというのは撤回しよう。
彼はただの傍若無人。
いや、謙虚な傍若無人だ。
「しいて言うならば定期演奏会が行われる十二月をイメージした。クリスマスが終わったかと思えばテレビから流れてくるベートーヴェンの交響曲第九番と共に年を超える。去っていく年に寂しさを感じながらも新年に対して期待がこみ上げてくるだろう。俺はこの『Make A Joyful Noise!』が何かと騒がしく忙しい十二月をテーマに作曲されたものだと解釈している」
序盤に鳴らされるスレイベルなんて雪が降ってくる時の音だろう?
宗太郎は同意を求めるように解説し、さらにはパーカッションに序盤のみを演奏するように指示を出した。
パーカッションについて詳しくない東郷はスレイベルがどの楽器なのか分からなかった。しかし複数の鈴が装着された楽器が準備されたと同時にその意味を理解した。シャンシャンと鳴り響くスレイベルはまさに十二月。サンタクロースに手綱を握られたトナカイが夜の空を駆け巡っているかのような音だった。
「俺は『海へ…』に意味を込めて選曲した。それで充分だろ? もう片方にはなんの意味も込めていない。ほとんど真っ白な白紙状態だ。みんなが後付けの意味を考えて色をつけていってもいいんじゃないか? 様々な色が付けられるだろうがそれも十二月の雑踏らしくて面白い。それを俺が一つの音楽としてまとめ上げよう」
演奏者は楽譜をただなぞっているのではない。
一つの音や一つのフレーズから何かをイメージして演奏している。
もちろん人によってイメージするものはバラバラだ。それをまとめ上げて一つの音楽として完成させるのが指揮者の仕事なのだ。
「柘植先生は指揮を振れないことを残念に思うどころか、純粋な観客として演奏を聴けることを楽しみにしている。いまは寝たきり状態だが演奏を聴きに行けるように治療も頑張るそうだ。その気持ちに音楽で答えようじゃないか」
演奏を大御所に聴いてもらうという経験は吹奏楽経験者ならば数回はある。
つまりコンクールだ。しかし聴くといっても審査のための鑑賞だ。どの学校にどの評価をつけるか。演奏の粗を見つけるためだけに耳を研ぎ澄ましている。
しかし審査ではなく純粋に音楽を楽しむために大御所が観客の一人として来場するなんて滅多に経験できることではないだろう。
「やめておくか? 撤収するなら早いほうがいい。後になったら退けなくなるぞ?」
宗太郎は目力がはいった視線で部員たちを舐めまわした。
強い視線だったが、それは異論を認めないという意味は含まれていなかった。
退くも自由、進むも自由。
ただしそれを選択して後悔はしないか?
そう覚悟を問う視線だった。
「よし、ここから俺は指揮者だ」
部員たちの覚悟を宗太郎は確かめると、そう宣言して合奏練習を開始した。
練習が終わり、東郷が音楽準備室で弓の松脂をぼろ布でふき取っているとマナーモードに設定していた携帯電話が振動した。メッセージであれば一回振動するだけだがずっと震えている。誰からの電話だろうかと東郷は弓をハードケースに収納した後にポケットから携帯電話を取り出した。画面には鶴見のフルネームが表示されていた。
どうせ大した用事ではないだろう。
東郷は携帯電話をポケットに放り込んだ。
弦を緩めたコントラバスにファスナーを被せてファスナーを閉める。
振動が途切れたのちに、再び電話がかかってきた。
もう一度取り出して画面を確認すると同じ相手だった。
鶴見らしくないけども急ぎの用事なのだろうか。
東郷はケースのベルトを締めると昔の部員たちが自分たちで作ったであろう木製のラックに立てかけた。倒れてこないことを確認すると東郷は音楽室準備室から近くの非常階段に移動して携帯電話を取り出した。
鳴子川高校は学校や部活動中での携帯電話の所持を禁止している。しかし今日の東郷は細島中学校の卒業生として練習に参加しているから問題ないだろう。
緑色の応答ボタンをタッチして耳に当てる。
すぐに鶴見の声が聞こえてきた。
『悪い。寝ていたか?』
「寝ていると思ったら二回も続けて電話しないでよ。今は吹奏楽部の練習に参加していたんだよ。というかまだ中学校にいる」
『そうか。この後は大丈夫か?』
「なにか事件でも起こったの?」
こちらの都合を聞くだなんて鶴見らしくない。普段ならばこちらの予定も気にせずに本題を切り出すというのに何かあったのだろう。
『今から門川に来られるか?』
「もう夕方なんだけど?」
今から鳴子川高校に行ったとしても用事を済ませて帰ってくる頃には真っ暗になっているだろう。これが朝であれば何の苦にもならなかったかもしれないが、夕方から五十分も自転車を漕いで隣町の高校まで行くというのはしんどかった。
それに東郷はどこの部活にも参加していないから知らないけども、きっと土日の部活動でも下校時刻が定められているはずだ。自宅に帰らずに今から直行したとしても十八時は軽く過ぎてしまう。
『それじゃあ日向市のファミレスだ』
「市内ならいいけど」
『これから消防署の近くのファミレスに行くからそこで合流な』
「せめて駅前にしてよ」
『分かった。駅前のファミレスで集合な。十八時過ぎには着くと思う』
日向市駅前であれば二十分もあれば到着できる。
門川町を悪く言うわけではないが、あの地域のファミレスなんて聞いたことがない。寄り道をせずにまっすぐ自宅に帰っている東郷が知らないだけかもしれないけども。
「それで何の用事?」
『軽音楽の今後についての話だ』
「……僕、部員じゃないんだけど」
『別にそれはいいんだ』
「まさか同好会に入れようって魂胆じゃないだろうね」
『今回はその話じゃない』
鶴見は今回の用件はそれではないと言っているが、東郷はこれからも勘弁してもらいたかった。いくら熱烈なラブコールを貰ったとしても東郷に入部する意思がないことはきっと変わらないだろう。
「分かったよ。一旦家に帰って着替えたらすぐに行くから」
『了解。先に入っておいてくれ』
要件が済んだようで電話が切れた。
いつもの待ち受けに戻った携帯電話の画面を暗転させ、東郷はポケットに収納する。楽器はすでに戻したし特に中学校でする用事はない。
「東郷、なにかあったのか?」
電話が終わるのを待っていたのだろう。
背後から宗太郎が話しかけてきた。
「いえ、幼馴染から呼び出しで」
「この前学校で一緒にいたやつか?」
「はい」
「ということは軽音楽関係か。それは面倒なことに巻き込まれたな」
「前回のは宗太郎さんが余計面倒にしたんですからね」
助けてくれたことには感謝しているが穏便に済む方法が他にあったに違いない。
「それじゃあまだ聞かないほうがいいな」
「なんの話ですか?」
「演奏会に参加するかどうかだよ。まだ答えが出ていないんだろ」
「……はい」
東郷は申し訳なかった。
本番当日は六十人近い規模で編成される吹奏楽団となる。その中の一人が抜けても問題ないと思われるかもしれないが意外とそうはいかない。ましてやコントラバスは二人しかいない。そのうち片方が抜けるとなれば少なからずサウンドに影響が出るだろう。
本来ならばもっと早いうちに参加するのかしないのか、それの返事を出さなければならなかった。いつまでも答えを出さずにずるずると引き延ばされても指揮者は困惑するだろう。
しかし東郷は参加すると返事することができなかった。
参加しないと返事することもできなかった。
なぜだろう。
東郷はすでに吹奏楽から離れた身だ。高校に入学してすぐに始まった部活動見学期間中だって吹奏楽部の見学に行くという考えは微塵もなかった。
別に中学の吹奏楽部で嫌いになっていたというわけでなければ嫌いな先輩がいたというわけでもなかった。「軽音楽同好会はうるさいから部活動に昇格させるべきではない」という生徒総会での発言で大村に対する信頼は揺らいだ。しかしそれは見学期間が終了してしばらくが経過した後のできごとだ。
見学期間中は大村に対しては絶大な信頼を寄せていたし、彼女が吹奏楽部の部長を務めているということも知っていた。しかし不思議と見学をするために音楽室へと足を運ぶ気にはなれなかった。
二度とコントラバスを演奏することはない。
東郷はそう思っていた。いや、むしろそれは決意に近かった。
なぜそのような決意を抱いたのか自分でもよく分からない。
それなのに中学時代の顧問である苅田に誘われたときは素直に母校へと戻り、音楽準備室からコントラバスを取り出していた。入れ違いに入部した後輩に教えるためと思っていたけども、今となってはただの大義名分だったと思っている。
二度とコントラバスは演奏しないと決めていた。
しかし再び母校に戻ってコントラバスを手に取った。
それは何か心の変化があったわけでなければ使命感というものもない。ただの惰性だ。
言動が一致していないことは自覚している。
それに現在は休日を潰してまで練習に参加しているというのに、演奏会に参加するとは断言していない。
参加するべきか否か。
その決心がつかない原因はこの言動不一致がなにか関係しているのかもしれない。
「すみません、僕が優柔不断なばかりに」
「別にいいよ。即答しろだなんて求めていない」
東郷は委縮して謝るが宗太郎は何も気にしていないようだった。
「言っちゃ悪いが吹奏楽部なんて学校教育の延長にすぎないんだよ。学校教育の一環として音楽という手段を使っているだけだ。柘植先生は定年後もいろんな学校を回って教えているが、全部そのためにやっていることなんだよ。あの人は音楽家である前に生粋の教育者なんだ」
俺が高校生の時からあの人とは関係があるんだ。それにいつも助手として着いて回っているからよく分かる。
そう宗太郎は自信満々に断言した。
「たまに勘違いしているやつがいるが吹奏楽部はプロの音楽家になるために入るものじゃないんだよ。これがきっかけで音大に進むやつもいるが、部活とは別にその楽器のプロから個人レッスンを受けなければ音大のオーディションにはまず通らない」
しかしネットの世界を散策しているとそういう意見をよく目にする。音楽大学に進学したければ吹奏楽の練習だけでなく、プロの演奏家による個人レッスンが必要だ、と。むしろオーディション合格に必要な技術を習得するための膨大なレッスン時間を確保するには吹奏楽部に所属している場合ではない、という意見すらある。
別に東郷は音楽大学に進学したいと考えているわけではない。しかし中学時代はコントラバスを、現在はエレキベースを嗜んでいる。音楽繋がりで自然とそのようなウェブサイトに引き寄せられてしまうのだ。
「東郷はどちらの吹奏楽部の部員でもない。返事は聞いていないが参加する意思がなければとっくに練習には来なくなっていただろう。しかし熱心に練習に参加している。きっとまだ迷っているんだろう?」
「……そうですね」
「大いに悩むといい。まだ時間はある」
「でも……いいんですか?」
いくら本番までに時間が残っているとはいえ、そろそろ本番時の編成での合奏練習を始めている頃合いだろう。
今は惰性で東郷が参加した編成で練習しているが、当の本人は参加するかどうかの返事を出していない。以前参加を誘われてから返事を保留している状態だ。
東郷は申し訳なく思っていた。
自分がもっと物事をはっきりと答える性格であれば、きっとこの時期にはもっと練習が捗っていたはずだ。
しかし宗太郎はそのようには考えていなかったようだ。
「俺が柘植先生から与えられた仕事は本番で棒を振るだけじゃない。この合同演奏に関する権限を与えられた。合同演奏に限っては音楽監督を任されているわけだ」
柘植によって宗太郎が合同演奏の全責任者に任命されたことをそれぞれの吹奏楽部の顧問たちも認めているらしい。さすがに柘植という大物の指示であればそれに異議を唱えることは難しかったのだろう。
「参加するか否か。この問題に向き合うことが東郷自身の成長につながる。俺はそう考えている。プロの吹奏楽団ではなく学校の吹奏楽部の音楽監督としてな」
その答えが宗太郎個人の考えではなく、プロの音楽家集団の考えでもなく、ただ教育機関の一部に過ぎない学校吹奏楽部の音楽監督の意見であると彼は強調した。
この問題はよい演奏をするために向き合うものではなく、東郷自身の成長のために向き合うものだ、という意味がその文言に込められていたのだろう。
「答えが出たら教えてくれ。本番前日になっても問題ない。なんなら本番当日でもいい」
「さすがに本番当日には言いませんよ」
前日までであればまだ最終調整の余地が残っている。宗太郎は問題ないと言っているがいくら優柔不断な東郷でも本番当日に不参加を表明するほど非常識ではない。
いくら悩んだとしてもさすがに前日には答えを出さないだろう。
しかしいくら遅くなったとしても前日までには返事をする。
東郷はそのように宗太郎に約束したのちに、鶴見に指定された駅前のファミレスに向けて学校を後にした。
来客のチャイムで店員が厨房から出てきて応対する。
入ってきたのは鶴見たちだった。
人数確認をする店員に何かを答えながら鶴見が辺りを見回す。
東郷は手を振って合図をすると彼はすぐに気づいた。
入口からまっすぐに進んだ突き当り。トイレの近くの人気がない座席に陣取った東郷のもとに三人がやってきた。東郷は鶴見を無視して軽音楽同好会のトップ二人とあいさつを交わした。
「それでなに?」
着席するやいなや鶴見に対して話題を切り出した。
「腹減った!」
彼は東郷の話を無視したまま自身の空腹を宣言し、壁に立てられていたメニューに目を通す。電話をしたときは東郷の都合を心配していたことから少しは成長したのだと感心したが、それはとんだ勘違いだったようだ。
「東郷は何がいい?」
「……もう食べたよ」
「そうか。じゃあ奢らなくていいな」
これまで奢ってくれたことなんてないくせに。
東郷は何かをいいたげな視線を彼に送るが、鶴見は意に介する様子もなくメニュー表のページをめくる。
その間に割って入ったのは部長だった。
「俺が払うからいいよ」
「いえ、そういうわけには……」
「いいんだ。呼び出したのは俺たちだから」
そういいながら彼は東郷の前に身を乗り出すと伝票を攫っていった。
ここまでされるのであればその厚意に感謝しよう。
「じゃあ……ありがとうございます」
「それで本題なんだけど」
メニュー表とにらめっこしている二人を放置して部長が切り出した。
「実は今日学校から部活動昇格の条件が出されたんだよ」
「とうとう昇格ですか? おめでとうございます」
部活動昇格を話し合った生徒総会では議論が紛糾し、最終的には校長がすべての問題を預かることになったのだった。
しかし突き付けられた条件は彼らにとって喜ばしいものではなかったようだ。隣の副部長が説明を引き継いだものの何やら困っているようだ。
「あ~、それがさぁ……条件を出されたっていうかさぁ……」
「条件ですか?」
「ああ、校長……というか学校から条件を出されたというか……。う~ん、どこから話そうかなぁ……」
説明に悩んでいる副部長の隣で部長が口を開いた。
「東郷君は一年生だから知らないと思うけど、毎年十月末に全校でクラスマッチがあるんだよ」
「そういえばパンフレットにそんなことが載っていましたね」
東郷が中学三年生に上がったばかりの頃に参加した鳴子川高校のオープンスクール。ちょっと上質な紙を畳んだだけのパンフレットだが彼は面接に備えて何度も目を通していた。
学校行事を時系列にまとめた項目にクラスマッチのことは記載されていた。ちょっと大人っぽいデザインの体操服姿でバレーボールを打ち上げる女子の写真が隣に掲載されていたから忘れるわけがない。
「そのクラスマッチの最後に特別試合が組まれることになったんだよ」
「あれってクラスごとに試合するんじゃないですか?」
「そうだけど今回は軽音楽同好会の部活動昇格を賭けた試合が最後に組まれることになったんだよ」
学校行事のクラスマッチということは体育の授業でやるようなスポーツをするのだろう。東郷は中学校の行事でクラスマッチに参加したが、そこではドッジボールやバスケットボールのような授業で経験した種目で試合が行われた。入学前に穴が開くほど目を通したパンフレットから推測するに、きっと高校のクラスマッチも似たようなものに違いない。
それなのに一体何に困っているのだろう。
軽音楽同好会はそれなりに人数が多い組織だ。それならば中には運動が得意という生徒もいるだろう。隣に座っている鶴見は運動神経がいいほうだし、ただの偏見かもしれないが目の前の部長だってとても運動ができそうに見える。運動部のレギュラーを務めているといわれても疑いようがないほどに。
なにも同好会に所属している全員が試合に参加する必要はないはずだ。東郷が知る限り選手数が多いアメフトで試合をするとしても同好会の全員は参加できないだろう。そもそも鳴子川高校にはそんな道具なんてあるわけがない。
はたしてどのようなスポーツで勝負をするのだろうか。
入学して半年が経過した東郷がこれまでの体育の授業で経験したスポーツはソフトボールとバレーボール。それと夏恒例の水泳だけだった。入学した直後は一、二カ月もかけて行進や整列のような団体行動の訓練が行われていた。
ただの県立高校がなぜここまで軍隊のような訓練を行うのだろう。
東郷はただ疑問だった。
「その試合で勝てば部活動になれるというわけですね?」
「その通りなんだ。だけどなぁ……」
部長はなにやら困っている様子だ。
軽音楽同好会は大所帯の組織だ。母数が多いからこそ運動が得意な生徒も多く所属しているはずだ。
しかし部長が悩んでいるということはそういう事なのだろうか。
スポーツをしているところを実際に見たわけではないが目の前の部長は運動ができそうな風格がある。副部長に関しては検討がつかないので差し控えるけども、東郷がよく知っている鶴見だって運動神経は抜群だ。
まさかその二人がいたとしても壊滅的なほどに運動ができない生徒しかいないのだろうか。だから東郷に助っ人を頼むためにここに呼び出されたのだろうか。
東郷は困った。
彼はあまりスポーツができるほうではない。
いや、正直に言うと壊滅的だ。
ソフトボールでは空振り三振。
バレーボールではホームラン。
できるとすれば水泳ぐらい。漁師町で育ったこともあってこればかりは得意だ。
しかしさすがに十月末のクラスマッチで水泳の試合はしないだろう。
鳴子川高校には水泳部が存在しない。そのため一学期の終業式の前日までにプールは閉鎖され、来年の六月までは活躍することがない。きっと今頃はプールに張られた水も濁っていることだろう。ただのクラスマッチのためだけに数十万もかけて水を入れ替えることができるほど鳴子川高校は裕福ではない。
考えた末に部長が口を開いた。
それは部員たちの運動神経が壊滅的で試合になりそうにない、というような悩みではなかった。むしろそれならばどれだけ気楽だっただろうか。
「相手は空手部なんだ。そこで空手の試合をすることになってしまった……」
とんでもないところが相手だった。
しかも種目もとんでもないものだった。
軽音楽同好会の部活動昇格を反対しているのは主に吹奏楽部だ。
てっきり吹奏楽部を相手にバレーボールやソフトボールのような体育の授業でやったことがあるような種目で勝負するものだと思っていた。
「……いや、たしか空手部って今年全国大会に出場していませんでしたっけ?」
「そうなんだよ」
「どう見ても昇格させる気がないじゃないですか」
軽音楽同好会の活動は名前通りバンド活動だ。
空手どころか格闘技すらやっていない軽音楽同好会に格闘技の試合で勝つことを条件に部活動昇格だなんて。しかも相手は専門集団の空手部だ。どう考えても軽音楽同好会には勝ち目はない。
「そもそもどうしてそれに空手部が出てくるんですか」
「う~ん、どこから話そうかなぁ……」
今度は部長が頭を抱えた。
それを見た副部長が口を開く。
「この前の生徒総会で議長が意図的に俺たちの議題を飛ばしただろ?」
「鶴見君が大立ち回りをしたアレですね」
あの舌戦は伝説的だ。
生徒たちに配布されたプログラム表。それにはすべての議題が記載されていた。
その書類は議長の手元にも当然置かれていただろう。しかし議長は軽音楽同好会の部活動昇格の議論を意図的に飛ばした。その話題に触れなかっただけならば誤って飛ばしてしまっただけの可能性もあるが、それを鶴見が指摘したときに議長は頑として議題を戻そうとはしなかった。あげくは議長の権限を濫用して鶴見を退場処分にしようとしていた。
それほどの言動を働いたのだ。
名前は知らないけどもあの議長は全校生徒に悪者という印象を抱かれたに違いない。彼は三年生だが、高校生活の最後の一年をわざわざ悪者のレッテルを張られて過ごす必要はないはずだ。
もしもそれが本当に誤って飛ばしただけならば素直に失敗を認めていたほうが印象も良かっただろう。全校生徒の目の前で校長から直々に議長権限の剥奪の最終警告を受けるという恥をかかずに済んだはずだ。
「まず、あの時に議長を務めたやつと吹奏楽部の部長が付き合っている」
「……え?」
予想もしていなかった人物とその関係に、東郷は一瞬だけ思考回路が停止した。
「……吹奏楽部の部長って、大村先輩のことですよね?」
その事実を理解できなかった。
いや、受け入れたくなかった。
「なんだよ。もしかして東郷は大村のことが好きだったのかよ」
「そんなわけじゃないよ」
惚れた腫れたというような話に夢中になるのは年ごろの女子だけではない。
幼馴染の色恋沙汰の予感に面白がって鶴見がからかう。
しかし東郷はそれをきっぱりと否定した。
別に強がっているわけではない。
本当に東郷は大村に対しては恋愛感情のようなものは抱いていない。彼にとって大村はまるで姉のような存在だった。
彼女と初めて会ったのは中学の吹奏楽部に入学してからだ。それぞれの担当楽器はコントラバスとパーカッション。楽器も違えばステージでの配置も正反対。それでも大村は東郷のことを同じパートの後輩と同じように気にかけていた。
そして東郷も大村を信頼していた。
当時の彼はその気持ちに気づくことはなかったが、よくも悪くも生徒総会の事件でそれに気づくことができた。
あの生徒総会。大村は軽音楽同好会の活動を「うるさい」と一蹴した。
東郷はショックだった。彼女はそんなことを言うはずがないと心のどこかで思っていた。吹奏楽も軽音楽も、ジャンルは違っても音楽という括りでは同じ仲間だ。顧問として指揮を振っていた苅田に「他のジャンルの音楽も尊重しなさい」だなんて言われたことはなかったけども、彼女はそんなことをしないと東郷は勝手に思い込んでいた。
当時は彼女に対する信頼を意識することはなかったが、もし信頼していなければ大村があんな発言をしても裏切られたような気持ちにはならなかったはずだ。彼女が別のジャンルの音楽を否定しないということは大村と約束したことではなく東郷が勝手に期待していただけだ。しかし理屈では理解できても感情はそう割り切ることができなかった。
「強がらなくていいぞ?」
「だから違うって」
「じゃあ何なんだよ」
「鶴見、少し黙ってろ。話が進まない」
部長はネチネチと追及しようとする鶴見を黙らせて話を続行する。
それがただありがたかった。
あのままでは本当のことを白状するまでずっと追及されていただろう。
大村を信頼していて、生徒総会のあの発言で裏切られた気持ちになったという事は自身の胸の内に秘めておきたかった。
「ついでに言うと相手は空手部の部員なんだ。さらに生徒総会であの議題を飛ばすように空手部顧問の枕崎から指示があったという情報もある」
「どうしてそこで枕崎先生が出てくるんですか?」
「あいつは軽音楽を目の敵にしている。さすがにその理由までは探ることができなかったけど」
なぜ軽音楽を敵視しているかだなんて東郷はあまり興味がなかった。
好きな事があれば嫌いな事もあるだろう。
東郷はエレキベースを嗜んでいるということで軽音楽に興味を持ってくれる人間には好感を持てるが、かといって敵視している人間はどうでもよかった。ただ東郷は一人で黙々とエレキギターを弾くことができればそれで充分だ。別に枕崎が軽音楽に敵意を抱いているとしても東郷個人の趣味には何の支障もない。
しかし鶴見たちにとっては死活問題だ。
活動範囲を広げるためにも彼らは部活動昇格を目指している。別に名誉や肩書のためだけに目指しているわけではない。
複数の勢力が軽音楽同好会の部活動昇格を阻止しようとしている。いわば活動範囲の拡大を妨害しようとしているのだ。鶴見たちの目には彼らが敵対勢力として映っていることは容易に想像がついた。
「部活の顧問から議題を飛ばすように指示されているから後ろ盾は抜群だ。それに彼女が部活動昇格に反対しているし、その機会を奪えばいいところを見せられる。鶴見が指摘しても頑としてその議題に触れようとしなかった説明がつくだろ?」
「たしかにそうですね」
「それに今回の特別試合を考えたのもその元議長と吹部の部長だ。連中が言うには「このくらいの困難を乗り越えることができなければ部活動としてふさわしくない」ってよ。その案を枕崎が承認して校長に提案した」
「本当にふざけているよな。「このくらいの困難を乗り越えることが~」とか。吹部の奴なんて生徒総会で鶴見にボコボコにされてたじゃん。マトモに反論できなくてヒスってただけなのに「部活動とは~」なんて説得力ねぇよな? それに枕崎もこの前まで停職になっていたっていうのによくやるよ」
部長の説明に副部長が口を挟んだ。
どうも彼は部活動たるものは何ぞや、という主張に腹を立てているようだ。
東郷は大村のことが嫌いではないが、確かに副部長の意見には賛成だった。
前回の生徒総会は軽音楽同好会にとって困難な試練の一つだっただろう。しかし反対意見を出してきた大村は鶴見によって返り討ちに合った。鶴見によって吹奏楽部の立証責任や備品管理体制の不備、騒音防止に対する認識を指摘された。それだけではなくそれらの指摘事項を比較して吹奏楽部と軽音楽同好会は果たしてどちらが部活動としてふさわしいか、という議論に持ち込まれた。
しかし大村は鶴見の質問に答えることなく、ヒステリーを起こして自身の主張を繰り返すだけだった。
男性と女性の思考回路の違い、と言われればそれまでの話だ。しかし生徒総会という議論の場において感情だけで主張する大村は正直なところ見ていて恥ずかしかった。
彼女たちは「このくらいの困難を乗り越えることができなければ部活動としてふさわしくない」と言っていたそうだ。しかし吹っ掛けた議論で返り討ちを受けるという困難に陥った状況でヒステリーを起こし、まともな議論ができなくなるようではそれこそ吹奏楽部は部活動としてふさわしくないのではないだろうか。
あれだけの醜態を晒しておきながら部活動である覚悟を語る。そのようなダブルスタンダードな意見を聞かされて腹を立てない人間はいないだろう。
「ただこっちは素人だから空手のルールは適用しないってハンデは貰えた。金的と目潰しをしなければいいんだって」
「もちろん空手部は空手のルールに縛るらしいけどな。いわゆる異種格闘技ってやつだ」
ふと東郷は重大なことに気づいた。
クラスマッチの最後に軽音楽同好会の部活動昇格を賭けた特別試合が組まれることは理解した。異種格闘技による試合で決着をつける事も、その試合に空手部が出てくることも理解した。
しかしなぜその話を、わざわざファミレスに呼び出してまで東郷に話したのだろうか。
「そういえば聞きそびれていましたけど、なんでそれを僕に話したんですか?」
「ああ、実は鶴見に聞いたんだけどさ」
「聞いたもなにも僕も空手は未経験ですよ」
東郷に格闘技の経験はない。
地元には空手や柔道を習っていた幼馴染や知り合いもいる。しかし当の本人は道場に見学に行くことはおろか、話すら出たことがなかった。しいて言うならば中学の体育で柔道を少しだけ経験しているぐらいのものだ。
「いや、実は格闘技に精通した人と知り合いだって聞いたんだよ」
「……え?」
自分から説明したほうが早いと考えたのだろう。理解ができなかった東郷に副部長が誰のことか説明してくれた。
「ほら、この前のゴリラみたいな人だよ」
「もしかして宗太郎さんのことですか?」
本人がこの場にいないとはいえ、たった一回しか会ったことのない人をゴリラ呼ばわりするとはこの副部長はなんて失礼なんだろう。
そう思ったものの、そのゴリラとは誰のことを指しているのかすぐに分かってしまった東郷も人のことは言えなかった。
「名前は憶えていないけど、ほら、枕崎事件で音楽室から飛び降りた人がいたじゃん」
「音楽室から飛び降りた?」
東郷を遮って部長がその話に食いついた。
それは不思議なことではない。いくら緊急事態だからといって三階の音楽室から飛び降りて急行するだなんて普通の思考回路を持っていればそんなことはしないはずだ。
「音楽室から飛び降りたってマジ?」
「マジマジ」
「え? それ聞いてないんだけど?」
部長はあり得ないとでも言いたげだ。
東郷だって信じたくはない。
だけど目の前で宗太郎が飛び降りて登場したのだ。あれを目撃した以上はその事実を否定することはできなかった。
「うん、まぁ~話は逸れたけど、その人を紹介してもらいたいんだよ」
「クラスマッチまで指導して貰うんですか?」
「いや、軽音楽のメンバーで戦ってもらいたいんだ」
「そんなのアリなんですか?」
学校行事に外部の人を呼ぶだなんて。
ましてや部活動昇格を賭けた試合だ。そんなことをしてもいいのだろうか。むしろ枕崎はそれを理由にして再び因縁をつけてくるのではないだろうか。
しかしそれは向こうから言われていた条件だったようだ。副部長が説明を続ける。
「アリなんだよ。なんでもうちの高校の空手部に勝てる人間は宮崎県にはいないからって。できるものならば近所の空手道場から応援を呼んでもいいってさ。ほんと、あいつら俺らのことを舐めてるよな」
「舐めるもなにも……普通は素人集団にそんな条件を突き付けますかね?」
素人集団を自分たちの土俵で戦わせるだなんて。
この条件を出した吹奏楽部長、元議長の空手部員。そして空手部顧問の枕崎。
軽音楽同好会が部活動になったからといって彼らの部活動には一切影響はない。それなのになぜ彼らはここまでして軽音楽同好会を同好会に留めておきたいのだろうか。
「ただ外部の人を呼んだら空手部側は本気で戦うって言っていたけどね。その時は枕崎が大将を務めるらしい」
「顧問まで出てくるんですか?」
「そうなんだよ。なんでも枕崎に勝てるやつどころかまともな試合になるやつは宮崎県にはいないって言っているんだぜ?」
「東郷君、頼むよ。その人が応援に来てくれなければ俺たちの勝機はないんだ」
「でも……難しいと思いますよ?」
枕崎は元陸上自衛官だ。そして宗太郎は現役の陸上自衛官だ。
いくら枕崎が格闘の教官をしていたとはいえ、現役隊員が元隊員を相手に戦うのはいろいろとまずいだろう。これがソフトボールのようなスポーツであれば問題はなかったが、まさかの格闘技での決闘だ。とうてい参加してくれるとは思えなかった。
「そっか……じゃあ俺たちだけで何とかするしかないのか……」
助っ人の依頼が難しいと分かった彼らは自分たちでこの問題をどうにかできないかと会議を始めた。鶴見は相変わらず食事をしながら会議に参加するという相変わらずのマイペースっぷりだったが、彼らが何としてでも次の特別試合を勝ちぬいて部活動に昇格したいという熱意が伝わってきた。
聞くぐらいのことだったら問題はないだろう。
ダメで元々だ。
軽音楽同好会の彼らが自分たちでできるだけのことを精一杯やろうと動いている。東郷はその一員ではないが、なんだかんだと関わってしまっている以上、自身も何らかの形で動かなければならないような気がしていた。
「先輩。難しいと思いますけど、ダメ元で聞いてみましょうか?」
「え? いいの?」
自分たちでこの問題を解決しなければならない。
暗雲が立ち込めていた彼らにとって東郷のその提案は、仮にダメ元だったとしても空から降り注いだ一筋の希望の光だったのだろう。
「聞いてみるだけならタダですから。ですけど本当に難しいと思いますよ?」
「もちろん無理だったら俺たちで何とかする。ありがとう」
東郷は断じて軽音楽同好会の一員ではない。
しかし心の底から感謝している部長の様子を見ていると、まるで自分が仲間の一人として認められているかのような気分になっていた。
人間は共通の敵がいると団結するという特徴があるらしい。
先日の枕崎事件では事情を説明しようとしていた東郷の話を枕崎は関係ないとして取り合おうとしなかった。東郷は喧嘩なんて滅多にしない温厚な性格だが、さすがにあの対応は思うところがあった。
あの事件は軽音楽同好会が計画した作戦ではない。しかし共通の敵を持って仲間意識を持つという、鶴見たちの術中にはまっているかのような感覚を覚えていた。
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