第5話

 潮風が頬を撫で、うねる波が船体を叩く。

 それでもこの巨大な船体はびくともしない。

 日向市漁業組合が誇る漁船『第三双桜丸』。

 所属する漁船の中で最も大きいこの船を、組合長の矢部が直々に舵を取って沖に出てきた。彼はこの船の所有者ではないが頭を下げて借りてきたらしい。所有者も組合長にそこまでされては断ることができなかったらしく「私が船を出しましょう」と言っていたらしいが、矢部はどうしても舵を握りたいと言ったらしい。結局のところ所有者が船長をするということで話がつき、矢部が舵を取って沖まで出てきたのだった。

 ふとマストを見上げると半旗に掲げた大漁旗が風になびいている。

 祖母が亡くなって今日で五十日。

 通常ならば納骨式が挙げられる日だが、祖母の遺言で遺骨は海へ……。

 つまり散骨するように指定されていた。

 東郷は祖母が入った骨壺を抱きしめて残された時間を惜しんでいた。

 こんなに小さな壺に入ってしまったが、それでもこの中にいるのは祖母だ。そんな祖母との永遠の別れの日だというのに、空は黒く沈んでいる。

 雨は降ってはいない。

 海は少し波が高いが荒れているというほどじゃない。

 それだけど今日ぐらいは晴れてたってもいいじゃないか。

 東郷は神というものを信じてはいないが、今日をいい天気にしなかった神様を恨んだ。

 近くに座っていた男性が立ち上がると、口に手を当てながらふらふらと船内に入っていった。船酔いのようだ。せっかく外は海なんだから吐いてしまえば楽になるのにと思ったが、これから散骨する海だからと船内のトイレに向かったのだろう。

 少しでも長い時間、育った海で祖母と一緒に過ごせるように。矢部のはからいで予定よりも二時間ほど早く出港し、この海域に滞在していた。参列者が疲れても休めるようにと居住区画が設けられているこの大型漁船を所有者から借りてきたらしい。

「自衛隊だ」

 誰かがそう言った。

 じっと骨壺を見つめていた東郷が海を見ると、海上自衛隊の護衛艦が近づいていた。

 漁船はこの海域から動いていないどころか操業している様子もない。

 はたから見れば不審船だった。

 みるみる護衛艦は近づいてくる。

 臨検されるかと思ったが、それは杞憂に終わった。

 はためく自衛艦旗は半旗に降ろされ、紺色の制服に身を包んだ隊員たちが舷側に整然と並んでいる。

 かなり接近した護衛艦の姿がよく見える。

 堂々とたたずむ主砲。

 ヘリコプターの格納庫。

 もしかしたら間違えて海上自衛隊に行ってしまった近所の兄ちゃんが乗り組んでいるかもしれない。そう思ったもののすぐに違うことが分かった。目の前の護衛艦の艦橋には巨大な六角形の鉄板が貼り付けられている。兄ちゃんが帰って来たときに乗っていた護衛艦にはそんなものは着いていなかった。

 これまでに見たことがない艦影だった。

 東郷は目を凝らしてその雄姿を眺める。

 艦首には『179』という番号が記されていた。

 これは何かの運命だろうか。

 祖母が亡くなったのは十七時九分。

 そして通りかかった護衛艦の艦首にはその時刻と同じ数字が描かれている。

 東郷は何か運命的なものを感じられずにはいられなかった。

 ラッパの吹奏が終わると汽笛が鳴らされた。

 そこら辺の大型漁船のものではない。

 数千トンクラスの図太い汽笛だ。

 矢部が船橋の上に出るとその汽笛に答えるように赤と白の手旗を振り回す。

 再び汽笛が轟く。

 それと同時に護衛艦の艦橋横のウイングで紅白の旗が振り回された。

 再び矢部が手旗を振る。

 そんなやり取りはあっという間だった。

 護衛艦は白い航跡を残して走り去っていった。

「お悔み申し上げます、だってよ」

 矢部は赤白の手旗をくるくると巻きながらウイングから大声で自衛隊からの信号の内容を教えてくれた。

「たった一人の民間人の散骨式だってのに、自衛隊は律儀なもんじゃが~」

 きっと大漁旗を半旗に掲げて停船しているこの漁船の様子を双眼鏡で確認して散骨式をしているのだと察したのだろう。

 この散骨式は身近な人だけでひっそりと行う予定だったが、とんだ大物の飛び入り参加だった。ただの通りすがりだったが巨大な護衛艦が弔笛を鳴らすだけでなく、わざわざ自衛艦旗を半旗に降ろし、隊員を舷側に並べて最上級の弔意を送ってくれるとは。

 婆ちゃん、自衛隊も見送ってくれているよ。

 東郷は瞳に涙を浮かべながらも暖かくなった心で骨壺にそう語り掛けた。

 ふと、昔の記憶がよみがえってきた。

 まだ東郷が小学校低学年の時の話だ。

 たしか盛大に風邪を引いて寝込んでいた。熱も下がって目を覚ました東郷に「精の付くモンを食わにゃ元気にならん」といって油味噌のお茶漬けを作ってくれた。布団に入ったままそのお茶漬けを口に運んでいくが、「今まで寝とったんやからもう寝れんが~。どっちみち明日も学校は休まにゃいかんからテレビでも見ときない」と言って祖母はテレビの電源を入れた。

 映画が放送されていた。

 戦争の映画だった。壮大なオーケストラを背景に巨大な戦艦が出てきた。

 不安を煽るオーケストラを背景に何かが唸り出す。多くの戦闘機だった。その報告を聞いた兵隊たちはそれぞれの持ち場に駆け寄る。艦長の号令で巨大な砲塔が旋回し、三本の砲身が持ち上がると、その倍以上もある砲炎を噴き出した。

 機銃を空に向けて撃ち続ける。

 被弾した戦闘機は翼から黒煙を引いて海に落ちていく。

 戦闘機の機銃掃射によって艦体が火花を散らし、攻撃機から投下された魚雷は白い航跡を引いて海中を疾走して水柱を上げる。

 甲板は血しぶきで赤く染まっている。

 炎を吹いた飛行機が生還できないと悟って戦艦に体当たりを仕掛けてくる。

 勇ましいオーケストラを背後に画面では対空機銃が乱射され、敵の爆弾や魚雷が炸裂する。怒号が飛び交い、水兵が次々に赤く染まって倒れていく。

 当時の東郷は小学生低学年だった。

 もしも東郷が親ならばこんな凄惨な映画は見せないだろう。

 しかし祖母はチャンネルを変えることはなかった。

 部屋の照明をつけずに東郷と祖母はただ無言でその映画を最後まで鑑賞していた。

 まだ幼かったときの話だからその映画のラストシーンどころか、タイトルすら覚えていない。しかし祖母と一緒にその映画を見ていたことははっきりと覚えている。

 懐かしい思い出に浸っていると、隣に座っていた住職が立ちあがた。

「皆さん、そろそろお時間です」

 祖母との思い出に浸っていた東郷は意識が現在へと戻ってくる。

 とうとうこの時間が来てしまった。

 骨壺をぎゅっと抱きしめたまま東郷は腰を上げる。別れを惜しむ彼の肩を矢部が叩いた。

「東郷の婆さんは爺さんのところに行きたがっていたからなぁ」

 この海域を指定したのは祖母だ。

 海底には漁船が沈んでいる。

 あの転覆事故の後に沈んでしまった第六春天丸だ。

 所有者であり船長でもあった東郷の祖父はその船を我が子のように大事にしていた。祖父は数年前に亡くなってしまったが、「あの船を暗い海の底に放っておくことはできない」と遺言書に残していた。祖父の遺骨はその指示通りにこの海域に散骨された。

 そして祖母も祖父と同じ場所に眠ることを希望している。

 散骨式の開始が宣言され、住職が儀式を着々と実施していく。

 淡々と進めていく住職の背中を眺めていると、いよいよ東郷の出番がやってきた。

 骨壺を開けると中には白い粉末。

 火葬の後に収骨したときの形とは違う。散骨するために粉末状に加工されていた。

 東郷は涙を浮かべながら片手を骨壺の中に差し込んだ。

 彼はこれまで祖母に育てられて大きくなった。幼いころは一緒に風呂に入り、熱を出したときは背負われて病院に連れて行ってもらった。

 もう祖母と触れ合うのはこれで最後なんだ。

 東郷は遺骨をすくいあげると海に撒いた。

 祖母の遺骨はサラサラと東郷の手を離れて海の底へと沈んでいく。

 すくっては撒いて、すくっては撒いて。

 住職の念仏を聞きながら、ただひたすらそれを繰り返した。

 祖母の感触を確かめながら。

 最後の時間を噛みしめながら。

波の音や風の音がやたらと耳に残る。

最後に矢部が花束を海面に投下する。

住職がひとつふたつ言葉を添えて、全ての式典が終了した。

その宣言を聞いて参列者の緊張の糸は途切れた。

仲の良い親戚と談笑に話を咲かせる者。居住区画で休もうと歩き出す者や、彼らを押し除け口を押さえてトイレに駆け込む者。

通夜から始まった一連の儀式。葬式から間が空いたとはいえ緊張が続いた非日常から開放されたのだから。

しかし東郷の表情は曇っていた。

空のようにどんよりと垂れ込んでいた。

「もう少ししたら帰るど〜。エンジンが掛かるまで待ってくれや~」

独り言を呟くかのように矢部は語りかけて船橋へと歩いて行った。


 漁船のエンジンが掛かったようだ。

 甲板が震える。

 海面下でスクリューが海水を掻き回す。

 船がじわりじわりと動き出し、やがて速力を増してゆったりと取舵を切りながら祖母の元から離れて行く。

 このまま離れて行くのだろう。

 東郷はそう思い、祖母との離別に涙が浮かんだ。

 ポケットに入れていたハンカチを振るでもなく、東郷はただ祖母が沈んでいった海面を涙目で眺め続けている。

『おも〜か〜じいっぱ〜い!』

 船橋に取り付けられたスピーカーが突然響いた。

 驚いて東郷は振り返る。

 その轟いた声は矢部のものだった。

 取舵で海域を離れようとしていた船は進路を変えて面舵、つまり右旋回を始めた。しかも舵を一杯まで切った大回頭。あまりの高起動に船体が激しく動揺する。しかも一周だけではなく、何周も散骨した場所を旋回する。東郷には慣れた船揺れだが、船酔いで便器にしがみついている男性は今頃大変なことになっているだろう。

 船長の粋な計らいに感謝しつつも東郷はその海の中心をじっと見つめる。どこかの童話のように祖母が海面から出てくるかのような感覚さえ覚えた。「正直な木こり」という童話で泉の中から出てきた女神様のように。

 幼かった東郷を寝かしつけるために祖母は昔話や童話のCDを聞かせてくれた。しかし祖母は機械の操作が苦手だった。毎日のようにラジカセを使っているというのにうまくCDを再生することができず、ザーッという不気味な雑音を何度も聞かされた。あの音を聞いているとどこかから幽霊が出てきそうで怖かった記憶がある。

 汽笛を何度も鳴らしながら漁船は旋回する。

 やがて漁船は祖母が眠る海面をぐるりと一周した。

『もど〜せ〜!』

 再びスピーカーから矢部の号令。

 船の進路はじわじわと直線に戻り、ふたたび矢部の『ヨーソロー』の号令。

 祖母を残して東郷たちは母港への帰路についた。


 漁船が母港に戻ると人々が慣れた手つきで船を岸壁に固定する。橋が下されると矢部や船長に案内されながら参列者が下船する。嘔吐を繰り返して自力では立てなくなった重傷者が両脇を男性に担がれて下ろされていたが、それ以外の人はみんな陸にあがってわいわいと談笑している。

「坊ちゃん、立派じゃったが〜」

 今回の散骨式の主役は祖母だったが、その散骨する重大な任務を遂行したのは東郷だった。祖母の兄弟姉妹たちもいたが、誰もが口を揃えて「婆さんが一番可愛がっていたから」と東郷がその役目を果たすことになったのだ。

「矢部さん、最後に一周してくださりありがとうございます」

「なんやそのこつけ〜」

 そのまま取舵で進んだほうが近いし燃料も節約できるというのに、わざわざ面舵に転針して祖母の周りを一周してくれた。

 それに対して礼を述べるけども、矢部は大した事はしていないとばかりにあしらった。

「坊ちゃんの爺さんが出てきて「まだ戻るな」っち言われただけじゃが」

「なんや組合長。航海士が勝手に舵を切ったから説教に出てきただけじゃろが」

 船長はケタケタと笑い、それに釣られるように矢部も笑い返している。

「そんなこつ気にせんでいっちゃが」

「いえ、本当にありがとうございます」

「東郷の坊ちゃんもおせらしいなったのぉ〜」

 感心、感心。とばかりに船長たちは頷いている。

「ほらみんなが待っちょるが。はよ降りんね。このあとみんなで飯食いに行くんじゃろ」

「そうらしいですね」

「そうらしい、って坊ちゃんは来んとね?」

 驚いたように矢部が聞いてきた。

 彼は参列者の全員で食事に行くものと思っていたらしい。

 今日は例の吹奏楽の練習があるから参加できないと母親に伝えていたのに、矢部のところまでは伝わっていなかったのだろう。

「はい。このあと大事な用事がありますから」

「なんや、彼女でもできたんか」

 目の前の頑固そうなベテラン漁師たちはヒューヒューと囃し立てるが、残念なことに東郷にはまだ春は来ていない。

「いえ、中学校に行かないといけないので」

「なんや、オーケストラの練習か」

「……吹奏楽です」

 何度言ってもオーケストラと言われるからもう訂正しなくてもいいだろうか。

 そう頭をよぎったが無意識のうちに訂正の言葉が出てきていた。

「こんな時ぐらい休んだってバチは当たらんじゃろ」

「そうじゃが~。苅田先生だったか? なんか言われたら俺たちが言い返しちゃるが」

 苅田がこのいかつい漁師たちに取り囲まれる姿を想像してみた。ただでさえ苅田は中学生の時にお世話になった人物だ。それだけは勘弁してほしい。

「いえ、僕はブランクもありますし、しばらく練習しないだけで音が出なくなる楽器なので少しでも練習しておきたいんです」

「ほぉ〜。熱心なもんじゃが」

「ヴァイオリンは難しいんじゃなぁ」

「……コントラバスです」

 いくら吹奏楽とオーケストラを間違えられようが楽器を間違えられるのだけは放っては置けない。いくら説明しても無駄だとは思いつつもそこはコントラバス奏者としては聞き逃すわけには行かなかった。

「婆さんが何べんも自慢しよったが。孫が部活頑張っちょるっち」

「最後の大会は銅賞やったんじゃろう。宮崎県で三位じゃが」

 吹奏楽コンクールの結果の金、銀、銅はそのまま一位、二位、三位というわけではない。それぞれが優秀、普通、もっと頑張りましょうを意味している。

 しかし彼らは吹奏楽とオーケストラの違いも、コントラバスとヴァイオリンの違いも分からない。今さら銀賞がどのような立ち位置なのか説明しても理解できないだろう。

「坊ちゃん、コンサートには俺たちも聴きに行くからなぁ」

「そうじゃそうじゃ。未来のプロのバイオリニストじゃが。今のうちに聴いておかにゃもったいない。サインでん貰っちょこうかのぅ」

 もうどうにでもなれ。

 東郷は苦笑いを返し、中学校に直行するべく自転車の元へ足を進めた。


 中学校に到着すると吹奏楽部はちょうど昼休憩の時間だった。

 階段や廊下に集まって弁当をつついている部員たちと挨拶を交わしながら音楽室へと進んでいく。休日にこの棟を使用する部活は他にはないため土日は完全に吹奏楽部の活動場所となっている。そのためどこで弁当を食べていようが文句は言われない。

 目的のフロアに到着すると音楽室の入り口で数人が騒いでいる。何かあったのだろうか。それにしても事件があったというような雰囲気ではない。まるでスポーツを観戦している観客のような騒めきだ。

「こんにちは」

 不思議に思いながらも足を進めていた東郷はその現場に到着。挨拶を交わしながらそこでたむろしていた部員たちの顔ぶれを確認すると中学高校のパーカッションパートの人たちだった。

「何をやっているんですか」

「ん~、懸垂勝負」

 すぐ近くにいた大村に聞いてみるとそう笑顔で返っていた。

 パーカッションのことはよく知らないが昼休みの練習では腕立て伏せをやっていた記憶がある。きっと腕力が必要とされる楽器なのだろう。

 一人が音楽室の入り口の梁につかまって上半身を持ち上げようとする。しかしあと半分といったところまで上昇したのちに限界に達してギブアップした。彼女に続いて挑戦した部員も同じだった。

「だらしないなぁ」

 そう言われながらもギブアップした部員は楽しそうにしていた。

「ほぉ、面白いことをしていますねぇ」

 熱狂していたことで誰も彼らの接近に気づかなかった。

 そう背後から声を掛けたのは柘植だった。

 隣には護衛のように宗太郎を引き連れている。

 まずい。

 懸垂して遊ぶ時間があれば基礎練習の一つでもやりなさい。

 そう言われると誰もが覚悟した。

 しかし柘植は少しも声を荒げることはなかった。

「いえいえ、今は休憩時間中ですから。それにパートの団結力を高めるためにみんなで遊ぶとは積極的ですね」

 その声には皮肉というものではなかった。

 きっとここにいる連中はパートの団結力を高めるため、だなんてちっとも考えていなかったはずだ。しかし指導者の視点からはそのように見えたのだろう。

「ところでこの中で一番の力持ちは誰ですか?」

 その質問に誰もが大村を推薦した。

 囃し立てられた大村は照れながらも断ることができず、懸垂を披露することになってしまった。

 音楽室の梁に両手でぶら下がる。

 そして両腕に力を込めて身体を持ち上げる。

 上げては下げてを繰り返し、三回目でやっと持ち上げたと思ったらギブアップして飛び降りた。

 拍手喝采。

 息を切らしながらも大村は疲労した片手でそれに答える。

「宗太郎君、どうですか?」

「女子高生で懸垂三回はたいしたものです」

 彼女は中学時代から力持ちのキャラで通っていたが、その力はプロが認めるほどだったとは。

「よっしゃ! 俺にもやらせろ!」

 興奮したのだろうか。

 それとも一般人に張り合おうとしたのだろうか。

 宗太郎はそう叫ぶとTシャツを脱ぎ捨てると片手で梁に飛びついた。

「一! 二! 三! 四! 五!」

 彼はかなりのスピードで懸垂を続ける。

 しかも通常の懸垂ではない。彼の体を支えているのは左腕のただ一本だけだ。

「六! 七! 八! 九! 十!」

 もくもくと一連の動作を続けていく。

 彼の左腕にはくっきりと血管が浮かび上がり、体が持ち上げられるに合わせて筋肉が隆起する。

 誰もがその驚異的な体力に驚くのではなく呆れていた。

「……もはやチンパンジーじゃん」

 誰かがそう呟いた。

 振り返るとそんな感想を口にしたのは星野だった。隣には苅田もいる。

「二十八! 二十九! 三十! よし!」

 宗太郎は意気揚々と飛び降りた。

 限界に達して諦めたようには見えない。ただノルマをこなしたことで終了したようだ。

 観客たちは誰も拍手をしなかった。星野の一言のせいで宗太郎がチンパンジーにしか見えなくなっていた。

「宗太郎君、そろそろ合奏練習だから」

「そうですね」

 柘植にたしなめられて宗太郎は腕時計を確認する。

「一分もあれば右も三十回終わります」

 そう断言して今度は右手で梁に張り付いて片手懸垂を再開した。

 彼と付き合いが最も長い柘植は怒るでもなく叱るでもなかった。

 ただ溜息をついて呆れたのちに他の部員たちに指示をだす。

「さぁ皆さん、彼がこうなってしまってはどうしようもありません。彼は放っておいて合奏の準備をしましょう」

 その号令で部員たちはパーカッションパートの持ち場へと戻っていった。ついさっき到着したばかりの東郷はコントラバスをケースから出してチューニングもしないとならない。東郷は楽器を格納している音楽準備室へと向かい扉を開いた。ふと振り返ると宗太郎は観客がいないにも関わらず未だに延々と片手懸垂を続けている。

 海上自衛隊に入隊した近所の兄ちゃんが言っていた。

 防衛大に入るようなやつは人間じゃねぇ、と。

 それが「連中はチンパンジー」という意味ではないと信じながら東郷は楽器ケースへと手をかけた。もしそれがそういう意味だったとすれば別の意味で日本が危ないし、なにより近所の兄ちゃんの立場も危うくなってしまう。


「起立! こんにちは!」

 合奏練習の時間になった。

 さっきまで懸垂をしていた宗太郎も楽器を温めてチューニングまで終わらせて、何もなかったとでも言いたげな表情でチューバの席に座っている。

 もちろんTシャツは着ていた。この状況でも上半身裸だったらチンパンジーどころか変質者だ。どちらのほうがマシなのか知らないけど。

 指揮者台に立つ柘植に向けて部長が号令を掛けると部員たちが一斉に挨拶を送った。今回は細島中学校のほうの部長が担当した。

 隣に控えていた苅田が一言二言話をするとトロンボーンのところへ、星野はホルンの座席に移動して着席した。それと入れ替わるように柘植が指揮者台にあがった。傍で控えている宗太郎は分厚い封筒を脇に抱えている。

「皆さん、今回演奏する曲が決まりました」

 サプライズを仕掛けようとしている子供のような屈託のない笑みを浮かべている。

「苅田先生も星野先生も、まだ何を演奏するのか知りませんよ」

 とうとう決まったか、と騒めく音楽室。先日の練習で実力に合わせた曲を選ぶと柘植が言っていたが、「果たして彼からはどのような評価を貰ったのだろうか」と武者震いしている部員もいる。

 そんな騒めきを気にする様子を見せず、宗太郎は抱いていた封筒から楽譜を取り出すと「これはパーカス」「これがフルート」と近くに座っていたクラリネット奏者に渡していく。最後の楽譜を手渡すと空になった封筒を折り曲げ宗太郎は廊下に退出した。最後に彼から放出された楽譜はクラリネットからチューバに渡され、さらに久留米を経由して東郷の譜面台へとまわってきた。

 今回の演奏曲目として指示された二曲の譜面を確認する。

 一曲目は『海へ…吹奏楽の為に』という日本人が作曲したものだった。どこかでこのタイトルを聞いたような気がする。いや、気のせいだろう。ここ細島が漁業で栄えた町だから海に関する曲を選んだのかもしれない。

 そして二曲目は『Make A Joyful Noise!』というものだ。作曲者がジェイムズスウェアリン……ゲン? 楽譜のどこを見ても日本語は書かれておらず、完全に外国から取り寄せたであろう楽譜だった。

 まだ演奏はしていないが、一曲目のものはタイトルからして明らかに海をイメージしている。しかし二曲目は何をイメージしているのだろう。東郷は英語があまり得意ではない。しかしこのタイトルに使われている単語は全て中学一、二年で習うような単語だ。

 楽しいノイズを作りなさい?

 楽しい騒音を作りましょう?

 東郷が連想したのはまるで近所迷惑を考えずにバイクをふかし、コンビニの前に座り込んで下品な笑い声をあげている暴走族のようなイメージだった。

 意訳すれば「どんちゃん騒ぎして楽しみましょう」となるのだろうか。

「きっと皆さんは初めてこの楽譜を見たと思います。では早速通してみましょう。途中で迷子になっても構いません。譜読みの練習です。二曲連続で演奏しますよ」

 そういって柘植は両手を掲げ、合奏が始まった。

 楽譜が配られてすぐの初見演奏だったため、見事にほぼ全員が迷子になった。楽器経験が長い宗太郎のチューバがよく聴こえていたため低音パートは全滅することはなかったが、それでも迷走してばかりだった。隣の久留米は完全に迷子となっている。

 最初の初見演奏が終わった。

 どのように酷評されるのだろう。

 部員の誰もが不安になった。

「これは教え甲斐がありますねぇ」

 柘植は笑顔満面だった。

「まだ本番まで時間があります。それに皆さん、特に今年から楽器を始めた一年生は県大会までに完成させたでしょう。以前よりレベルアップしているはずですから絶対に定期演奏会に間に合いますよ」

 柘植の言う通りだ。

 東郷だって初めてコントラバスに触って四カ月後にはコンクールのステージに立っていた。隣の久留米に至ってはコントラバスを教えてくれる先輩がいないにも関わらず今年のコンクールには無事に出場できたらしい。

 しかし今回は初見演奏だったことでこの楽曲の理想像が見えてこなかった。本番当日までには完成させなければならないが、全体像が見えてくるのはまだ先のことかもしれない。この練習が終わって自宅に帰ったら動画サイトで模範演奏を見てみよう。

「今日は初回ですから全体を通して荒く削っていきますよ。教えたことを各学校に戻って練習し、次の合同練習の時までにできるようになっていてください」

 まずは冒頭部分。ペット、ボーン、ティンパニー。

 指名された二つのパートと一つの楽器が構え、いよいよ『女神様』の本格的な指導が始まった。


 今日の合同練習も終わり、東郷はケースに収納したコントラバスを音楽準備室の専用ラックに立てかけた。それと同時に今日の練習が無事に終了したことで安堵の溜め息が出てきた。

 しかし彼にはまだ課題が控えている。演奏会に参加するかどうかの返事をしなければならないのだ。前回の練習日では演奏会に参加するかどうかの返事を求められていた。しかし東郷はまだその答えが出ていなかった。

 東郷は自分が演奏するコントラバスが嫌いだ。

 楽器は好きだから演奏会には参加したい。

 しかし自分の演奏が嫌いだからすぐにその旨を伝えるには躊躇する。

 もっと演奏技術が高ければもっと自信を持って堂々と演奏会に出演しているかもしれないのに。東郷は心の中で嘆いていた。

 幸いなことに今回はその意思を聞かれることはなかったが、それでも次の練習の日には聞かれることだろう。

 さて、その日にどのような回答をするべきか。

 東郷は悩みつつもコントラバスがラックから倒れないことを確認して手を離した。

「とおーごおー!」

 片付けも終わってほっとした瞬間に背後から衝撃。

 そして首回りに腕を回されていた。

「ねぇ東郷。今度の演奏会出るの? 出るんでしょ?」

 顔は見えなかったが、その声を聴いて一瞬で誰か分かってしまった。

 大村だ。

 吹奏楽部の部長を務める大村だが、きっと仕事は終わってしまったのだろう。彼女はじゃれ合うかのように東郷の首に腕を回して彼を絞め上げていた。

「先輩、苦しっ……」

「もしかして照れてるのぉ~?」

 東郷は大村の腕をタップして降参の意思を表明するが、彼女は腕を緩めてくれることはなかった。力づくで脱出しようと試みたものの、もう少しで抜け出せそうな気配はあるが大村に腕力で敵うことはなかった。

 大村は平気なようだけども、東郷は誰かに見られる前にこの状況を片付けたかった。

 ここは中学校の音楽室。

 そして近くにいるのは中学生と高校生。

 この状況を目撃した人物が勘違いしないとは考えられない。

 しかし、人に見られたくないときに限って誰かが来てしまうものだ。

「なにイチャついているんだ?」

 それは宗太郎だった。

 彼に見られただけで済んだことは幸運だった。

 しかし冷静に考えると不幸だった。

 すぐさま噂になって広まることはないだろうけども、どこか彼は口が軽そうな雰囲気がある。

 彼は東郷たちをからかいながら音楽準備室に入ってきた。

「おいおい、それじゃあ締まらないぞ」

「え?」

 肩を掴まれて宗太郎の元へと引き寄せられた東郷は気の抜けた声を上げてしまった。

 そしてすぐに察してしまった。

 この人は東郷を実験体にするつもりだ。

「とりあえず右で絞めてみるが、まずは右腕の肘の内側を相手の首に当てる。そして右手を左肘の内側で挟み、左手で相手の頭を前に倒すんだ」

 首に回された宗太郎の太い腕には汗が滲んでいた。

 東郷はなんとか抜け出そうと抵抗してみたものの全く歯が立たない。大村の首絞めはなんとか抜け出せそうな気配がしていたが、宗太郎の首絞めは諦めざるを得ないほどに固かった。

「これで力を入れると首が絞まる。だけど絞め続けると窒息死するし、下手をしたら首が折れるからあまりするんじゃないぞ」

 宗太郎は陸上自衛官だと言っていた。

 そんな本職が危険な技を一般人に教えてもいいのだろうか。

 そもそも専門家とはいえ危険な技の実験体にされるのは勘弁してほしかった。

 しかし本職の技を目の前にして大村は興奮しているようだ。さすがはいきなり首を絞めてきた人だ。格闘技が好きなのかもしれない。

 大村は興奮交じりに質問を繰り出した。

「自衛官って映画みたいに敵の首を折ったりできるんですか?」

「ほとんどの奴は無理だろうな。そんな訓練はしていない」

「じゃあもしかして宗太郎さんだったら?」

「悪いがそれは防衛機密だ。もしもそれを言ってしまったら俺は東郷を消さなければならなくなる」

 東郷は釈然としなかった。

 質問したのは大村だ。

 それなのになぜ東郷が消されなければならないのだろう。

 せめて彼女の名前を使って口封じを仄めかしてほしかった。

 さらに東郷の首には現在進行形で宗太郎の腕が回されている。仮に首を折ることができるとしたら、いつでもそれが実行できる今の状況で防衛機密に触れかねない質問は避けてほしかった。

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