第4話

「失礼します……」

 東郷は恐る恐る扉を開けた。

 数か月ぶりの中学校。しかもよりにもよって滅多に来る機会がなかった職員室だ。

 中高生で積極的に職員室に入りたいという生徒はいないだろう。職員室は教師の巣窟なのだから。それぐらいならば教室で同い年のやつらと駄弁っていたほうがマシだ。

 現役の中学生だったころはノックした後に扉を開けて、「〇年〇組の〇〇です。〇〇先生に用があって来ました。入っても宜しいでしょうか?」という文句を必ず言わなければならなかった。

 しかし今の東郷は高校生。

 卒業してまでそのセリフを口にするのは躊躇した。

 びくびくしながらも職員室に足を踏み入れると、それは杞憂に終わった。

 中には十数人の教職員が事務机で作業をしている。今日は休日だというのに教師は大変な仕事だ。数人の教師は会釈を返し、東郷の授業を受け持っていた先生は彼の顔を覚えていたようで、顔をほころばせて手を振っている。入り口のすぐ近くに机を構えている教頭先生は立ち上がって驚いていた。

「こっちこっち~」

 苅田が手招きをしていた。

 東郷は彼のもとに歩み寄る。去年から机の位置が変わったようで扉を入ってすぐ左側。廊下に面した壁沿いの場所に移っていた。

「おはようございます」

 そこにいた各吹奏楽部顧問の二人に挨拶をすると二人も軽く返してくれた。

 一人は細島中学校吹奏楽部の顧問である苅田。

 そしてもう一人が鳴子川高校吹奏楽部の顧問を務めている星野だった。

「先生、彼は?」

 吹奏楽部に所属していない鳴子川高校の学生がやってきた理由が分からなかった星野は苅田へと質問を飛ばした。

 東郷は星野の事を知っていた。しかし星野は東郷の事を知らない。一方的に知っているだけだ。高校では吹奏楽部どころか部活自体に入っていないから部活動で顔なじみということはないし、星野は国語科の教員らしいが残念なことに東郷のクラスの国語を担当しているのは別の教師だ。そもそも東郷は入学して四か月ほどしか経過していない。顔を知られていなくてもおかしくはない。

「彼はうちの吹奏楽部の卒業生なんですよ。今日は合同練習があって忙しいだろうからって手伝いに来てくれたんですよ」

「へぇ~そうなんだ」

 なにが「手伝いに来てくれた」だ。

 昨日の夕方に「明日部活の手伝いに来てくれ」と呼び出していたくせに。

 本来ならば一日中エレキベースを弾いていたかったが、依頼を断って練習していても気が散って集中できなかっただろう。

「……どうも東郷と言います」

 星野は関心を持った様子で東郷の顔を見た。

 これまで彼女と面識が無かったことを思い出して東郷は名を名乗った。

「東郷はコントラバスを担当していたんですよ。そして彼と入れ違いで今年コントラバスに一人入ったんで、彼にいろいろと教えて貰おうと思って戻ってきてもらったんです」

「へぇ~」

 星野はうんうんと頷き、

「東郷君、今からでも遅くないから吹奏楽部に入らない?」

「え?」

「いやぁ~、うちの部ってコントラバスがいないんだよね。まず部員が足りないし、それに教えられる人もいないからさ」

「僕は大して上手くないですよ」

 目の前に苅田がいるから言わなかったが、東郷が所属していた細島中学校の吹奏楽部はいわゆる弱小校だ。最後のコンクールは銅賞だった。

 そして鳴子川高校の吹奏楽部も今年のコンクールは銅賞だったらしい。

 しかし中学と高校の吹奏楽コンクールの金、銀、銅は全くの別物だ。高校の吹奏楽部は中学から楽器に触っている部員も多いためレベルが高い傾向にあるのだ。もちろん楽器を長く経験しているから技術も高いというわけではないけども。

 しかしある程度は経験時間が技術に影響を与えている部分もあるはずだ。それに肉体的に成長して楽器を響かせる体力が付くというのもある。物事を考える知識や経験を積んでいることで楽曲に対する理解力も上がり、目的をしっかりと理解することで効率的な練習ができるという優位性もあるだろう。

 今からでも遅くはない。と星野は言った。

 しかし最後にコントラバスを弾いてから既に半年以上が経過している。確かに「昔取った杵柄」という言葉もある。楽器を渡されれば体が覚えているかもしれない。苅田に「新入部員がコントラバスに入ったから教えに来てくれ」と頼み込まれて母校に戻ってきたわけだが、それはあくまでも入れ違いとなった後輩の面倒を見るためだ。基本的な事ぐらいであれば教えられるだろうけども、現役時代のような演奏はできないはずだ。

 いくらコントラバスを弾ける部員がいないから入部してくれと言われても、彼女たちの演奏についていける自信がなかった。

 むしろ足を引っ張る自信がある。

 全国のコントラバス奏者に怒られるかもしれないが、コントラバスは吹奏楽界ではオプション扱いとなっている。もちろん楽譜にはコントラバスのパートがあるしその編成のほうがより豊かな演奏ができる。しかしたいていの楽譜の編成表にはオプションとして記載されている。学校の吹奏楽部は部員が足りていないところも多い。全ての楽器を運用できている学校のほうが珍しいぐらいだ。吹奏楽というジャンルは学校教育の一部として使われることが多く、その人手不足の事情を知っている作曲家や楽譜出版社はできるだけ楽器を削り、必要最低限の人数でも演奏ができるように作編曲をしているのだ。

 もちろんレギュラー落ちが発生するような大所帯の吹奏楽部やプロの吹奏楽団では完全な編成で演奏している。しかし現役時代に苅田からちらりと聞いたが、全国大会に出場するような強豪校では演奏に悪影響が出ると判断すれば一人しかいない楽器だったとしても、それを外した状態でコンクールに臨む場合もあるらしい。

 ただでさえ半年以上のブランクによって東郷の演奏技術は鈍っている。そして今年のコンクールは県大会銅賞だったとはいえ、星野が率いているのは中学よりもレベルが上がった高校吹奏楽だ。顧問直々に吹奏楽部に誘われるというのは確かに嬉しいが、無理に楽器を増やすよりかは既存の編成を強化したほうが効果的なのではないだろうか。それに東郷はいまさら吹奏楽部に入ってステージに上がるだなんて考えてはいない。今回母校に戻ってきたのだってあくまでも新入部員の教育が目的だ。いくら担当者がいない楽器だったとしても舞台に上がる意思がないやつが入ったら全体の士気が下がってしまう。それぞれの意思で自ら入部した既存の部員だけで活動したほうがより良い音楽を作り上げることができるだろう。

 東郷は遠まわしに辞退するが、それでも星野はあの手この手で勧誘を続けてくる。

 いっそのこと「もう吹奏楽に関わるつもりはありません!」と叩きつけようか。

 いや、すぐそばには東郷を音楽の世界に導いてくれた苅田がいる。恩師の目の前で吹奏楽からの絶縁宣言をするほどに東郷は不躾ではない。そもそも東郷はそんな強い言葉を使えるような気の強い人間ではなかった。

 それにわざわざ顔も知らない後輩にコントラバスを教えるために休日を潰してまで母校に戻ってきている今の状況で吹奏楽との絶縁を宣言したとしても説得力なんてものはない。後輩の育成のためとはいえそれを通して吹奏楽に関わっているのだから。

 執拗に勧誘する星野に対してどのように断るべきか。

 そんなことを悩んでいたらコンコンコン、とドアが鳴らされ、直後に二人の男性が職員室に入ってきた。

「失礼します」

 一人は物静かそうな老人。

 もう一人はムキムキな若い男性。まるでボディーガードのようだ。

 その突然の来客に顧問たちは飛び上がった。

「柘植先生! お待ちしておりました!」

「いえいえ、遅くなりました」

 その貫禄のある老人をどこかで見た覚えがあった。

 そうだ。

 苅田が言っていたではないか。今日は『宮崎県の吹奏楽界の女神様』との異名を持つ講師がやってくると。東郷がその老人に見覚えがあったのは過去にコンクール直前に指導を受けたことがあったからだった。

 記憶の引っ掛かりが取れてすっきりしたが、それと同時に別の疑問が湧いてきた。

 なぜ男性の指導者なのに『女神様』と呼ばれているのだろうか。

「星野さん、いえ星野先生も立派になりましたね」

「とんでもない。先生のおかげです」

 そう喜ぶ星野はまるで昔の恩人に再会したかのような喜びぶりだった。

「柘植先生、隣のかたは……?」

「あぁ彼ですか。彼は私の最後の弟子の上岡宗太郎君です」

 柘植の紹介に苅田と星野は「上岡さん、どうも初めまして」と好意的に初対面の挨拶をしたが、その弟子は「宗太郎と呼んでください」と苦笑いしながら答えた。フレンドリーに接しようとしたのだろうか、それともただ単に苗字で呼ばれることに慣れていないだけなのだろうか。

「宗太郎君、こちらの鳴子川高校の星野先生も私の教え子なんです。彼女も家鴨ヶ丘高校でしたから宗太郎君の先輩ですね。たしか六歳年上だったかな?」

「六歳、ということは高校でのコンクールは2004年から2006年ですか?」

「そうそう、ちょうどその年」

 同じ高校の卒業生ということで打ち解けたのだろうか。宗太郎と星野は昔からの知り合いかのように談笑する。

「ちょうど最後の2006年に柘植先生が転勤して来てね。それまで県大会止まりだったのにいきなり全国に進んでしかも金賞まで取れちゃったからみんな大騒ぎでね」

「ということは高校部門で課題曲Vが選べるようになる前ですね。たしかあの年の課題曲は『架空の伝説のための前奏曲』『吹奏楽のための一章』『パルセイション』『海へ…吹奏楽のために』でしたね。ちなみに大学、職場、一般部門でのみ選択できたVは『風の密度』。そうそう、2006年はエレキベースの使用が許されていた最後の年で吹奏楽コンクールの歴史を語るうえで外すことができない年でしたね。これによって『イーゴル・ファンタジー』や『コンサートバンドとジャズアンサンブルのためのラプソディ』といった一部の楽曲を自由曲に使用できなくなったことで話題になったそうですね」

「う、うん……うん?」

「といっても『イーゴル・ファンタジー』は記録がある限り80年代に一度だけ全国大会で使用されただけでそれ以降は使われていませんけどね。しかもそれは一部分を省略したもの。ノーカット版だと余裕で制限時間を超えて失格になりますから」

「へぇ~……」

 あまりにも流暢に説明する宗太郎の姿に、星野はやや引いていた。確かに昔は吹奏楽コンクールでエレキベースを使用することができたとは聞いたことがあるが、途中で詰まることなくスラスラと暗唱する彼の知識には驚きを通り越して恐怖すら感じてしまう。

「星野さん、ごめんなさいねぇ。宗太郎君はどうしてもマニアな部分があってねぇ」

「いえ、ただ単に驚いただけです。私より六歳年下というと2006年は……小学生!?」

「そうですね。ちょうど吹奏楽を始める一年前でした」

 現役時代の事を話しているのならばまだ分かる。しかしそれ以外の時代の話、よりにもよって興味を持つ前の話をこんなに流暢に話せるということは、彼は『マニア』というよりも『オタク』なのではないだろうか。

「ところでこちらの学生さん。彼の制服は鳴子川高校のものですね。星野先生のところの部員ですか?」

「いえ、彼は中学の卒業生で今日は吹奏楽部の手伝いに来てくれているんです」

「……東郷です」

 ほうほう、と頷く柘植に対して東郷は名乗った。

 その名前を聞いた宗太郎が不気味にニヤリと笑い、言葉を発した。

「長官、敵は降伏しました。砲撃をやめますか?」

「……え?」

「東郷君、ごめんなさいねぇ。彼はかなり変わっていて……」

「いえ、大丈夫です」

 宗太郎の冗談の意味は分からなかったけども、東郷自身には何の実害もなかった。

「東郷君は今でも吹奏楽を続けているんですか?」

「趣味でエレキベースを弾いているだけで吹奏楽部には入っていません」

 楽器の名前を口にしたことを東郷は後悔した。

 あまりにも親しみやすいから油断したが、目の前にいる老人は吹奏楽界の大御所だ。吹奏楽から他の分野に流れたとなったらあまりいい気はしないだろう。ただでさえ高校の吹奏楽部と軽音楽同好会が敵視しあっているぐらいだ。別にライバル関係にあるわけではない。明らかに敵視している。

 アマチュアである高校生ですらそれなのだ。きっと専門家、よりにもよって大御所クラスになるとそれ以上になるだろう。

 しかしその心配は杞憂だった。

 柘植の口からは思ってすらいなかった単語が飛び出した。

「いい趣味です。ということは有名どころだと『Stand by me』や『BLACK NIGHT』あたりを?」

「いえ、『ヒゲダンス』とかです」

「なかなか渋いですね」

 この返答を予想していなかったのだろう。柘植はケタケタと大笑いするどころか、まるでペンギンのようにぴょこぴょこと『ヒゲダンス』を踊りだした。

 その立ち居振る舞いからは想像もつかないようなコミカルな動きに周りからも笑いが漏れる。東郷も一緒に笑ったが、ふと生前の祖母の姿が蘇った。

 数十年前のバラエティ番組の再放送を見ていたとき、ふらりと祖母が台所からやってきた。燕尾服を着て軽快な音楽に乗って踊る画面の中のコメディアンをまねして同じように踊ってみせていた。東郷がその音楽を気に入ってエレキベースで弾いていたときも、突然部屋に入ってきた祖母がその奇妙なダンスを踊っていた。

 腰が痛い、膝が痛いと嘆いて病院に通っているのに。そもそもそんな年齢になったというのに何をやっているのだろうを思って見ていたが、そのひょうきんな姿でさえ今となっては寂しさを覚える。

「でもヒゲダンスだと部活でバンドを組むのに苦労するでしょう」

「いえ、軽音部には入っていません」

「ということは一人で楽しんでいるわけですか。それも音楽の一つの楽しみかたです」

 うんうん、と柘植は頷きながら、隣の宗太郎へと同意を促した。

「今はエレキベースをしているというと、現役時代はコントラバスを?」

「はい。コントラバスを担当していました」

「それはいいですね。コントラバスがいるかどうかは大違いです」

 低音を担当する楽器は建物で言うところの土台に相当する。多くの聴衆がメロディに注目するなか、低音楽器がそのメロディを支えている。

 しかしコントラバスという楽器はあまり大きな音を出すことができない。しかしそれでも編成にコントラバスを入れるということは何かの意味があるに違いない。低音楽器の中でも特に目立たない楽器であるが、それでも合奏を支えているというプライドを持っている演奏者は多いはずだ。

「さて、そろそろ演奏する曲を決めないといけませんね」

 柘植がそう切り出した。

 それに苅田と星野が賛同する。

 しかし星野は何も手に持っていない。柘植もその弟子も手ぶらだった。何か候補となる楽譜を持ってきている様子はなかった。

 もしかしたら細島中学校が保有している楽譜の中から選定するのだろうか。

「じゃあ僕は音楽室に行って後輩の面倒を見ておきます」

 この場所にいるのは各校吹奏楽部の顧問たちと吹奏楽の大御所とその弟子。その四人に比べると明らかに東郷がその場所にいるのは不自然だった。なにより気まずいし、これから行われる選曲会議を聞いていてはならないような気がした。それにOBとして意見を求められても困る。

 この棟の三階にある音楽室からは一階の職員室にまで楽器の音が届いている。今は休憩時間ではなく練習中だ。しれっと音楽室に入って例の後輩と合流しよう。

 階段を登るにつれ、楽器の音が大きくなっていく。

 それぞれが思い思いに出す音は騒音にすぎないかもしれないが、それでも東郷にとっては懐かしい音楽だった。

 三階に到着して廊下に出ると一瞬にして空気の匂いが変わった。

 現役時代の感覚が蘇ってくる。

 窓から外を眺めながらクラリネットを吹いていた部員が驚きながらも挨拶を送ってくれた。それに東郷も返答する。彼女の隣できょとんとしていた部員は見たことがない顔だった。おそらく今年入部した一年生だろう。

 目的の場所に向けて廊下をただ歩いていく。

 練習場所として使っている教室から飛んでくる挨拶を返しながら、東郷は緊張した面持ちで突き進んでいく。

 とうとう目的の場所に到達した。

 いざ音楽室に入るとなると緊張があふれてきた。

 東郷は壁にもたれかかって呼吸を整える。

 室内からは多くの金管楽器の音が聞こえてくる。ばらばらに聞こえてくる楽器の音に、確かにコントラバスが一台だけ紛れていた。

 最後にこの場所に来たのは半年以上前の話だ。

 後輩たちと顔を合わせることができるのは嬉しいという思いがある半面、少し照れくさいような恥ずかしいような気持ちがある。

 しかし入室をためらっていつまでも壁にもたれかかっているわけには行かない。振り返るとさっき最初に挨拶をしてくれた後輩が不思議そうにこちらを見ている。

 東郷は覚悟を決めて音楽室へと顔を出す。

 今度は自分から……と口を開くが、後輩たちはすぐに楽器から口を話して「こんにちは!」と挨拶をしてくれた。誰もが驚いた顔をしている。

 さっき練習場所を通ったときには気づかなかったが、音楽室にいる部員の半数が鳴子川高校の体操着を着ていた。それも当然だ。今日はただの練習の日ではなく、定期演奏会に向けた細島中学校と鳴子川高校のお互いの合同練習の日なのだから。

 東郷は本能的に自分が現役の時に所属していた低音パートに顔を向ける。チューバを担当している一つ年下の後輩が誰よりも驚いていて、隣のコントラバスの部員に何かを話しかけていた。

 パートの編成はユーフォニアムがそれぞれの学校から一人ずつ。

 チューバは中学生が二人と高校生が一人。高校生のほうが使っているチューバは型式が異なっていて、音が飛び出る『ベル』という部分が逆のほうを向いている。

 そしてコントラバスが一人だけ。中学校の体操着を着ている。音楽室で苅田が言っていた「今年配属になった新入部員」だ。

 吹奏楽部では入れ違いだったから東郷は彼女の顔を知らない。当然、彼女も東郷の顔を初めて見るようで戸惑っていた。

「使っていないコントラバスを借りるよ」

 今の低音パートリーダーを務めるチューバ担当の後輩と軽く会話を交わすと、楽器の使用許可を貰って隣の音楽準備室へと向かった。


「あ、東郷」

「こんにちは」

 楽器を用意するために音楽準備室に入った東郷を待ち構えていたのは鳴子川高校吹奏楽部の部長を務める大村だった。パーカッションパートが集まりスティックを使ってボロボロの机を一定のリズムで叩く練習をしていたが、東郷の姿を確認した大村がその練習を中断してやってきた。

 迂闊だった。

 そして気まずかった。

 大村は鳴子川高校吹奏楽部の部長だ。今回はそこと共演するのだから大村がここにいてもおかしいことはない。例の「うるさい」発言で彼女に対する評価が揺らいでいたところに本人登場だ。条件反射で挨拶を返したもののその声は明らかに動揺していた。

「え? 東郷も今回出演するの?」

「いや、僕は苅田先生に呼ばれただけです。コントラバスに新人が入ったから教えてやれって」

「へぇ~」

 質問に答える東郷の声は明らかに動揺していた。

 何もやましいことはない。

 コントラバスに新人が入ったから教えてやってくれ、と苅田に電話で呼び出されて母校に戻ってきた。実際に楽器を使って教えるためにコントラバスを取りに音楽準備室にやってきた。ただそれだけなのに、大村を前にするとどうしても先日の彼女の発言で頭が一杯になる。

「東郷って引退してから楽器触ってないでしょ?」

「……まぁそうですね」

「ちゃんと教えられるの~?」

 何かの嫌味というわけではない。

 仲間と冗談を交わすときのような口ぶりだ。

 そう、東郷を吹奏楽部に勧誘したときのような。コントラバスを勧めたときのような。

 彼女と彼は二歳差だ。

 東郷が入部した数か月後に大村は引退した。

 たった数か月の短い付き合いだったが、それでも彼女の性格はよく分かっている。

 彼女の冗談に対して東郷は笑い返した。

 しかし現役時代のときのような心のそこから出てきた笑い声ではなかった。

 昔はコントラバスを弾いていたが、今はエレキベースに転向した。

 大村が「うるさい」と批判しているエレキベースに。

 複雑な感情のまま専用の棚に立てかけられているコントラバスをケースごと抱き上げると音楽準備室を出た。廊下の邪魔になりそうにならないところまで運搬するとソフトケースのジッパーを開放する。

 艶のある木目と木の匂い。

 中学時代の日常がその中に眠っていた。


 昼休みも終わり、全員の楽器がチューニングを済ませたところで顧問たちが音楽室へと入ってきた。それぞれの部長が「起立!」と号令をかけ、それが被ったことでお互いに譲り合い、結局は中学生のほうの部長が「こんにちは!」と号令を続けた。

 挨拶を終えて頭をあげた部員たちはみんなが驚いた。いつもは指揮棒を持っているはずの顧問たちがホルンとトロンボーンを持っていたからだ。外部から指揮者が来ることは知らされていたようだが、それに加えてゴリゴリマッチョマンの宗太郎がチューバを抱えて入ってきたときは再び驚かされていた。

「鳴子川高校吹奏楽部の皆さん、こんにちは」

 苅田がトロンボーンを譜面台にぶつけないように気を配りながら指揮者台にあがると、ゲストである鳴子川高校の部員たちに挨拶をした。

「隣町からわざわざ来てもらってありがとうございます。日向市内の高校の吹奏楽部をゲストで呼んだことは何回かありますが、日向市の外からゲストで来てもらうのは皆さんが初めてです」

 東郷が引退した最後の定期演奏会では地元の高校の吹奏楽部と共演した。

 しかもよりにもよってその高校は強豪校だ。その年のコンクールでは――いや、その年のコンクールでも全国大会に出場して金賞を掻っ攫うほどに強い吹奏楽部だった。そんなところをゲストで呼ぶとなったのだから部員の誰もが怖気づいていたのも懐かしい話だ。

 ゲスト校のほうが部員数も楽器の数も種類も充実していたから向こうの学校にお邪魔して練習していた。全国大会に行くような学校だから怒号が飛び交うようなところだろうと思っていたが、顧問も部員も優しい人ばかりだった。イメージとは大きく違う空気に戸惑ったのも今でも覚えている。

「多分、星野先生から聞いていると思うけど、今回の共演では先生たちも楽器を持って一緒に演奏します。そしてその間はこちらの先生が指揮を振られます」

 そう紹介されて柘植が指揮者台に上った。

 事前に実績を紹介されていたのだろうか。部員たちは尊敬の眼差し、一部は畏怖の念を込めて拍手を送る。

「柘植理先生です。東京でプロのチューバ奏者として活動をされ、のちに音楽教師になられました。赴任した先の吹奏楽部を短期間で育て上げる実績から、『宮崎県の吹奏楽界の女神様』と恐れられていた伝説の指導者です」

「いえいえ、そんな……」

 そんなことはない、とでも言わんばかりに柘植は両手を振る。

 こんな優しそうなおじいちゃんが県内を震え上がらせていた伝説の指導者とは想像ができなかった。強豪校の指導者は常に怒鳴っているというイメージを東郷は持っている。東郷が弱小校の出身だから偏見を持っているだけだろうか、それともこの女神様も指揮棒を持てば人が変わるのだろうか。

 それにしてもどうして『女神様』と呼ばれているのだろう。音楽室にいる誰もがそう疑問に思っていた。

「先日のコンクールはお疲れ様でした。ホッとした人も悔しかった人もいるでしょう。どんな気持ちを抱いていたとしても未来でいつか役に立つはずです」

 部員たちは神妙な面持ちで柘植の話を聞いているが、チラチラと視線が泳いでいる。

 その原因は柘植の隣にあった。ムキムキのマッチョがうんうんと頷いているからだ。

 柘植はそれに気づいたようでひと笑いした後に彼の紹介をする。

「皆さん気になっているようですね。彼は私の助手です」

 柘植は揃えられた手のひらで宗太郎を示す。

 今は夏真っ盛りだ。汗で湿ったシャツは体に張り付き、宗太郎の大胸筋や腹筋をこれでもかと強調させていた。

「三十歳だっけ?」

「二十八歳です」

「彼はまだ二十八歳で皆さんからすれば年の離れたお兄さんのような存在でしょう。仕事で毎回は来られないみたいですが、彼には低音パートの強化をしてもらう予定です。私が個人レッスンをした最後の弟子なので実力は保証しましょう。それともし私に言いづらい事があれば彼に相談してみてください。彼は誰にも臆することはなく、なんでもズケズケと言いますから」

 柘植にそう紹介されて宗太郎は得意そうな顔をしていた。最後に皮肉を叩かれている事には気づいていない。

「言い忘れていました。彼は確かに私の弟子ですが、プロの音楽家というわけではありません。本職は陸上自衛官だそうです」

 その職業を聞いて納得した。

 どうりで車を盗んでシートを引っぺがし、電話ボックスを持ち上げて第三次世界大戦を引き起こしそうな肉体をしているわけだ。

「都城駐屯地だっけ?」

「いえ、えびの駐屯地です」

「そうそう、えびの駐屯地。そこの大尉で中隊長だったよね?」

「一等陸尉……大尉ですけどまだ小隊長です」

 柘植は弟子を可愛がっていそうな雰囲気があるが、細かい事までは覚えていないようだ。いや、弟子が多くて覚えきれていないだけかもしれない。

 それにしても二十八歳で一等陸尉か。

 東郷が住む町は漁師町だ。親の後を継ぐ人間も多いが、中には漁師にはならず海上自衛隊に行った人間もいる。まだ幼かった東郷と遊んでくれていた近所の高校生は第六春天丸の海難事故が影響で海上自衛隊に入隊した。あの転覆した船から祖父を救出したのは海上保安庁だったが、それと間違えて自衛隊のほうに行ってしまったようだ。

 彼は成績優秀だったらしいけどもまだ三等海曹。つまり軍曹の下っ端だ。たまたま乗っていた護衛艦が日向市に寄港し、少しだけ会うことができた彼はそう言っていた。

「大砲の発射命令とかを出すの?」

 大砲関係の仕事をしていると聞いた東郷は彼にそう聞いてみた。しかし彼は「三等海佐くらいにならないと砲雷長にはなれないし、砲術長にだって一等海尉とか二等海尉とかじゃないとなれないよ」を笑いながら教えてくれた。どうやら彼は大砲に砲弾を込める仕事をしているようだ。

 それと同時に「防衛大を出ていなければこの年齢じゃその階級にはなれないし、そもそもあいつらは人間じゃねぇ」とも言っていた。彼は大砲関係の仕事をしながら格闘技経験者ということで臨検、つまり他国の船に乗り込んで武器を運んでいないか確認する部隊も兼任している。学生時代は成績優秀で仕事もできる彼がそこまでいうのだから防大卒の人々はもはや人間ではないのかもしれない。

 たしかその彼は宗太郎とほぼ同い年だ。

 学業成績優秀だった彼が三等海曹なのに宗太郎は一等陸尉。

 東郷は自衛隊の階級を思い出して数えてみる。

 三曹、二曹、一曹、曹長、准尉、三尉、二尉、一尉。

 記憶が間違っていなければ宗太郎は七つも上だ。

 防衛大に入るのは超難関。入学できたとしても勉強や訓練は他の教育部隊とは比べ物にならないほど大変と聞いている。いったい宗太郎はどんな頭脳をしているのだろう。

 部員たちは騒めいている。

 目の前の宗太郎がただのマッチョマンではなく、高度な知能を兼ね備えたエリートマッチョマンであることに驚いているわけではない。彼女たちは一等陸尉、つまり大尉がどのような立ち位置にいるのかを理解できていないのだ。

「一年生は知らないかもしれないけど、二、三年生のみんなは去年、自衛隊の音楽隊と共演したでしょう。その時に指揮を振っていた隊長さんが一等陸尉。宗太郎さんと同じ階級です」

 部員たちの混乱を察した苅田が助け船を出した。

 まだ入学していなかった一年生たちはきょとんとしていたが、その本番に参加した二、三年生たちは驚いていた。あの時の指揮者は五十代前半といった年齢だったが、まだ若い宗太郎があの指揮者とほぼ同じ階級だなんて、と。

「あ~、あの演奏会ですね。プロの演奏を生で見られる機会なんて滅多にないからバスをチャーターして部員たちを連れて聴きに行ったんですよ」

「あら、星野先生もいたんですね。私も宗太郎君と一緒に聴きに行ったんです」

 星野と柘植があの演奏会のことを回顧している。

 まさかこの人たちもあの会場にいたとは。

 あの時の本番はいまでも忘れることができない。陸上自衛隊の音楽隊が熊本から日向市にやってきた。たしか第8音楽隊とかそういう名前だったと思う。全体で二時間ほどの演奏会。その中のたった十数分だけだったが、地域貢献の一環として地元の中学高校の吹奏楽部と少しだけ共演することになった。どこの学校が共演するかの抽選で苅田がみごとに当たりくじを引き当てたことで細島中学校が共演することになったのだ。

 第8音楽隊は熊本にある部隊だ。練習のために何度も熊本に行くわけにも来てもらわけにもいかなかった。そのため合同練習は本番の当日と前日の二回だけ。プロと共に演奏するのもたった二回の通し練習で本番に臨むのも初めての経験だった。

 はじめての経験に怖気づきながらも最初の合同練習のために日向市役所の隣にある市営の体育館に向かった。ケースに入ったコントラバスを抱いたまま中に入ると空気が変わった。別の入り口から同時に楽器搬入を始めた音楽隊だったが、その作業にさえプロの風格を漂わせていた。最初の合奏でも彼らの演奏は完璧で東郷たちの吹奏楽部はまさにおんぶされていた。本番当日の空き時間で特別に部員一人に隊員一人が付きっ切りでの演奏指導をしてもらった。当然東郷もコントラバスを担当している隊員に教えてもらったが、思い込みとかではなく明らかに以前よりも音が響くようになっていた。

 共演したのは二曲。

 いつものように祖母が聴きに来てくれていた。

 しかし残念なことに関係者のために確保された座席は壁に埋め込まれた上手側の座席。舞台上手で演奏する東郷の姿が見えなかったため、祖母は最前列に座っていた保護者にお願いして座席を変わってもらったという。本番が終わって学校に戻ったあとで後輩の保護者から「孫思いの良いお婆ちゃんだねぇ~」と教えて貰った。

 東郷の本番が無事に終わり楽器をトラックに乗せると関係者席に向かった。そこで祖母と合流して音楽隊だけの演奏を聴いていた。ふと会場を見下ろしてみるとどこも満席だった。すべての演奏が終わると観客たちは一斉にホールから吐き出された。細島中学校の関係者たちは一か所に集まり、部員も保護者も思い思いに感想を語っていた。

 祖母は特に指揮者が気に入ったらしい。指揮棒を振るだけでなくそれにあわせて尻が動く。その姿が愛おしかったらしくその動作を真似てみせていた。周りには人がいるどころかすぐ近くにはいつも顔をあわせている部員たちがいる。その保護者だっている。もう歳も歳なんだから公衆の面前で尻を振るような動きは勘弁してほしかった。

「お願いだから大人しくしていてよ」

 東郷はそう祖母に頼み込んだことを思い出していた。

「さて皆さん、今回演奏する曲ですが、二曲演奏します。しかしまだ決めていません。今日はひたすら基礎練習をして皆さんのレベルを確認させて貰います。それに合わせて次の合同練習の時に発表しましょう」

 午前中の職員室で打ち合わせをすると言っていたが、その時間内に決まらなかったのだろう。いや、せっかく有名な指揮者が客演するのだからすこしでもレベルの高い曲、なおかつ難しすぎて破綻しない曲を選ぼうという計画なのかもしれない。

「それでは四拍ロングトーン。スネア、バスドラム」

 柘植がパーカッションに指示を出した。

 指定された楽器を担当している部員がマレットを手に、白い指揮棒が動く瞬間を見逃すまいと柘植を凝視する。

「っと、その前に」

 掲げられた指揮棒は振られることなく下ろされた。

 まだ連絡事項があるのだろうか。

 そう疑問に思っていた東郷だったが、その連絡事項は彼に向けられたものだった。

「ところで東郷君でしたっけ?」

「はい」

「今回の定期演奏会にも出演するのかな?」

「いえ、僕はただ後輩にコントラバスを教えるために来ているだけで……」

「ぜひ一緒に出演しましょう」

「え?」

 柘植は譜面台に置かれた紙を確認したのちに再び東郷に声を掛けた。

「久留米さんだけだと不安だからという意味ではありません。彼女も十分に立派です」

 東郷は戸惑ってあたりを見回す。隣の久留米は流れ弾とはいえ褒められたことで照れていて、苅田は誇らしげに頷いている。

「低音パートのパワーは十分です。だけどひとつ注文するならもっと渋さが欲しい。コントラバスの音量はどう頑張ってもチューバには敵いません。しかしコントラバスにはチューバには出せない渋さがあります」

 吹奏楽においてコントラバスはオプションという扱いだ。

 音量はチューバに勝てないし、部員が余らない限りこの楽器に配属されることはない。

 しかし現代でも吹奏楽でコントラバスが使用されているのはこの楽器でないと出すことができない渋さがあるからなのだ。

「それに久留米さんにはこれまで先輩はいませんでした。教えてくれる人はいたでしょうけども、ステージに上がるときはいつも一人だったわけです。コントラバスは先輩や後輩がいないということは珍しい話ではありませんが、今回は二人もいるんですから一緒に出演しましょう」

 思ってもいなかったオファーに東郷は混乱した。

 混乱した学生が何をするかといえば一つしかない。

 視線で苅田に助けを求めた。

「せっかく柘植先生に誘われているんだから出演しようよ」

 彼もそう考えたのか、それとも長いものには巻かれるイエスマンなのか。

 あまり関わったことがなかったが星野の元にも視線で問いかけるが、彼女も同じ意見だった。

「宗太郎君もそう思うでしょう」

「そうですね」

 柘植から意見を求められた宗太郎が同意すると、チューバを抱いたまま上半身を捻じって東郷へと向き直った。

「隣に先輩がいる。後輩にとってこれほど心強い事はない。そしてなにより勉強になる」

 久留米のためになる、とここまで強く押されて断れるほど東郷は気が強くない。

 少し考え、恐る恐るその返事を口にした。

「……少しだけ考える時間をください」

「分かりました。いい返事を待っています。それでは練習を再開しましょう」

 柘植は指揮棒を掲げながらパーカッションにリズム打ちの指示を出した。

 それに反応して東郷も自信なさげに左手の位置を確認してコントラバスを構える。

 指揮者の合図でスネアドラムとバスドラムが打ち鳴らされる。

 八拍目で柘植が指揮棒を大振りした。

 それが振り下ろされると同時にすべての楽器が同じ音を吹き鳴らす。

 東郷も同じようにコントラバスを弾き鳴らす。

 しかし彼は自信なさげに手元を見ていた。

 誤って隣の弦を弾いてしまわないように。


 合同練習が終わり、廊下でコントラバスを片付けていると突然声を掛けられた。

「東郷、と言っていたな。代々漁師をやっている家系だろ?」

「はい」

 東郷は宗太郎の質問にすらっと答えたが、直後に疑問を感じた。

 なぜ彼が東郷の家系のことを知っているのだろう。

 漁協にこの名前の人が多いというわけではない。むしろ東郷が知っている限り、漁協の組合員で東郷という苗字を持っているのは彼の両親だけだ。

「将来は漁師になるのか?」

「いえ、僕は公務員になろうと思っています」

 弓に塗りつけていた松脂を布でふき取りながら答える。

 東郷が想像している公務員というものは市役所で働いている人たちのことだ。

 次に想像した公務員といえば海上保安官だった。

 ここ細島は漁業で栄えた町だ。それに漁港のすぐ近くには細島海上保安署が設置されているし、漁船に混ざって入出港する巡視船を何度も見ている。

 警察官や消防官も生活に密接した職業だが、どうしても海で育ったこともあり海上保安官のほうを先に想像してしまう。

 それになにより祖父の海難事故のことが大きいだろう。

 当時は幼稚園児だったがさすがに『転覆』の意味は知っていた。そしてその転覆した漁船の中に祖父が取り残されていたことも理解できていた。沈没も時間の問題だと漁協が大騒ぎしているなか、遠く離れた海難現場で祖父はヘリコプターで駆け付けた海上保安庁の潜水士によって救出された。

 あの事故のことは祖父も祖母も何度も繰り返し語っていた。

 救出された祖父はそのままヘリコプターで最寄りの病院に搬送された。東郷は点滴を打たれながらベッドに横たわる祖父と再会したが、知らない場所で知らない人たちに囲まれているという状況に混乱して泣き叫んでいた。

 その場に立ち会っていた潜水士は東郷を抱き上げて、泣き止ませようとしてくれたことも覚えている。後から聞いた話だが、その潜水士は祖父を船から救出し、そのままヘリコプターに吊り上げた張本人だったそうだ。

 オレンジと黒のウェットスーツ。胸になにか文字が書かれていたけども当時の東郷は読めなかった。しかし『海上保安庁』と記されていたに違いない。あのデザインのウェットスーツを使っているのは海上保安庁だけだから。

消防や警察よりも先に海上保安庁が出てくるのはその影響が大きいのだろう。

「そうか。海自か?」

「いえ……」

 海上自衛隊は近くの港に寄港するという話を聞くくらいだった。

 祖父母に何度か見学に連れて行って貰ったことがあるが、その巨大な船体と大きな主砲。そして何よりねずみ色の塗装に驚いたものだ。漁船や巡視船ばかりを見て育った東郷にとって、「船の塗装は白」という先入観があった。

 そもそも海自や海保といったような肉体系の公務員になりたいわけではない。あくまでも東郷が目指している公務員は市役所職員のようなものだ。

 しかしその事を聞かずに宗太郎は口を開いた。

「行くなら海自に行け。海自は死なないから。間違って陸自に来たら死ぬぞ」

「それって海自の人に怒られませんか?」

「俺が陸自の人だから言っているんだ」

 たしかに宗太郎は陸自でそこそこのポジションにいるのかもしれないが、全国の海上自衛官四万五千人に怒られるような内容だった。

「それにしても東郷も大変だよなぁ」

「え?」

 後輩の指導のために中学校に戻ってきたら、そのまま本番にも出る可能性がでてきたことを言っているのだろうか。別に嫌というわけではなく、むしろ久しぶりにコントラバスを弾けるということで少し懐かしくも感じている。

 しかし口説き文句でとどめを刺そうとしてきたのは宗太郎だったはずだ。

「というか宗太郎さんも僕が出演したほうがいいって言っていたじゃないですか」

「そのことじゃねぇよ」

「……?」

「高校で板挟みになっているらしいじゃないか」

「板挟み、ですか?」

「幼馴染と先輩が揉めているんだろう?」

「……たしかに板挟みといえば板挟みですね」

「それは大変だよなぁ」

 宗太郎はしみじみと語りながらチューバのハードケースを閉じ、慣れた手つきでパチンパチンと錠前を閉じていく。

「よもの海、みなはらからと思う世に、など波風の立ち騒ぐらむ」

「……?」

 ただその言葉を残し宗太郎はチューバケースを抱えて立ち去った。

 東郷はその意味を聞くことができずただ取り残されてしまった。


「なぁ東郷」

「……なに?」

 母校から自宅に帰ってきた東郷を鶴見が待ち構えていた。夕方ごろに遊びに来たらしいが東郷が帰ってくるまでの時間をつぶすために自宅に転がり込み、東郷の母親と世間話をしていたようだった。

 今の東郷は人と話したいような気分ではなかった。

 それは幼馴染である鶴見も例外ではない。

 今日の母校での練習で東郷も本番に出演しないかという誘いを受けた。彼はその場で即答することができず考える猶予をもらった。自宅に帰ったら一人でその誘いを受けるかどうか考えようと思っていたのだ。

「吹奏楽のことなんだけどさ」

「うん」

「コンクールの銅賞ってどうなの?」

「どうって?」

 鶴見から吹奏楽の話題が飛び出すとは予想もしていなかった。

 別に彼は中学校で吹奏楽部に所属していたというわけではない。そもそも経験者ならばそんな誰もが知っているようなことを聞くはずがない。

彼と吹奏楽の接点があるとすれば例の言い争いだ。

東郷は先日の生徒総会の舌戦を思い出していた。

鳴子川高校の軽音楽同好会は吹奏楽部を敵視している。そして吹奏楽部が軽音楽同好会に向ける感情も同じだ。

生徒総会で議長の独断により意図的に省略された軽音楽同好会の部活動昇格について意見を述べる軽音楽同好会代表の鶴見に対し、吹奏楽部代表の大村は反論していった。

「え? なに? 吹奏楽部の弱みでも握ろうとしてるの?」

「そんなわけじゃねぇよ」

あの討論は東郷にとっては不思議でしかなかった。

同好会から部活動に昇格すると学校公認の団体として活動費が支給される。しかし軽音楽同好会に活動費が支払われるようになったからといって吹奏楽部の活動費が減額されるわけではない。現在支払われていない活動費が吹奏楽部の活動費として上乗せされているわけでもない。軽音楽同好会が部活動昇格を求めて意見するのは理解できるがそれを吹奏楽部が阻止しようとしていたのが理解できなかった。

大村から反論を受けた鶴見だったが、彼はその意見を淡々と撃破していった。あの戦争は子川高校という組織のトップである校長が介入しなければ停戦しないほど激しいものだった。

東郷から見て鶴見は吹奏楽部をそこまで憎んでいるようには見えない。あの時の彼の弁論はえげつなかったが、、それはただ敵対勢力を排除しようとしているだけに思えた。

「ふと気になったんだよ。銅賞ってどんなレベルなのか」

「正直、どの段階のコンクールなのかによる、としか言えない」

「段階というと?」

「地区大会、県大会、支部大会、全国大会」

「全部教えてくれ」

「まず地区大会だけども正直よく知らない」

「経験者なのに?」

「宮崎だと県大会から始まるんだよ」

 北海道や関東圏のような都道府県に多くの吹奏楽部が存在している地域では地区大会というものが開催されているらしい。

 東郷はほとんど県外に出たことがない。交通の便の悪さから陸の孤島とも呼ばれている宮崎県から見たら、北海道や関東圏はまるで外国のような存在だった。

「じゃあ県大会から教えてくれよ」

「まず根本的な話だけど吹奏楽の金、銀、銅は一位、二位、三位というわけじゃない。これはよく勘違いされることだけど失格にならない限り最低でも銅賞は貰える」

 鶴見はその話を頷きながら傾聴する。

 これは吹奏楽部経験者が賞について説明するときに必ず話す内容だ。東郷は中学時代に同級生から何度も「県大会で三位って凄いな」と褒められたがそのたびに裏話を説明していた。

「評価方法も説明する?」

「一応たのむ」

「まずプロの音楽家が審査員を務めるんだけど全員がA、B、Cの三段階で評価を入れる。それでC評価が過半数を超えたら銅賞」

 その反対にA評価が過半数であれば金賞となる。そしてそれ以外の学校が銀賞だ。それぞれの審査員がそれぞれの評価を何個までつけられるとかの詳しいルールまではさすがに把握していない。知っている経験者のほうが少数だろう。

「それで銅賞ってどうなんだ?」

「県大会ならば率直に言って「もっと頑張りましょう」だね。中には「今まで何をやっていたんだ」って所もあるけど。そして支部大会なら普通に凄い。そもそも県大会で金賞を取ってさらに上位二、三校の中に入らないと進めないから。そして全国大会の銅賞ならかなり凄い。もうそこら辺の経験者には太刀打ちできない」

 東郷の中学校最後のコンクールは県大会で銅賞だった。

 そんな彼から見たら支部大会に進出できただけでも別世界の住人だ。その住民たちも支部大会で再び審査されて賞を与えられるわけだけども単に銅賞という評価は彼らの実力を表すには不足していると思う。例えば『九州大会銅賞』のように頭に大会名を付けて賞を呼ばれるような待遇を受けてもいいと東郷は考えている。

「それでこんなことを聞いてどうするの?」

「いや、ただ気になっただけだよ」

 鶴見のその口ぶりには何かが含まれていたが東郷は追及しようとは思わなかった。

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