第三十四話 菅生拓也は天使の前に膝をつく

 時刻は八時をまわった頃。

 菅生が鼻歌混じりに自転車を漕ぎながら校門を後にする。

 活動自体は七時までのはずだが、バスケットボール部、それもレギュラーともなると一時間くらいの延長はよくある事らしい。


 本来なら疲労困憊であるはずだが、この頃の菅生は機嫌が良かった。なら以前は不機嫌だったのか? と聞かれれば決してそういうわけではない。ただ少なくとも今のように鼻歌混じりで帰路につく事は無かったはずだ。


 では何故菅生がここまで上機嫌なのか。それは恐らくここ最近の部活帰りの日課に起因するのだろう。


 しばらく自転車を漕ぐ菅生だったが、ふと目の前の横断歩道の信号が点滅するのを見て、ゆっくりと減速する。その所作は今の菅生の精神的な余裕を表しているようにも見えた。


 それでもはやる気持ちは抑えきれないのか、心なしかそわそわしているようにも見受けられる。

 やがて信号が青になると、菅生が自転車を漕ぎ始めた。


 向かう先は家……ではなく近くのショッピングセンターいとうファミリー。通称いとファ。しかし決して部活帰りで腹をすかせた身体へエネルギーを補給するためというわけではない。厳密には買い食いする事はあるのだが、そういう時は決まって定時通りに部活が終わった時か、あるいは少ししか延長しなかった時である。それも家に帰れば用意されている夕飯を考慮してというわけではない気配である。


 ただ今日にいたってはきっちりというかみっちり練習時間を延長されているので、菅生は買い食いなどはしない。あるいはする暇はないと言った方が正しいか。


 自転車のブレーキをかけまっすぐ見据える先には、クラスの天使たる超絶美少女、白崎叡花がマイバッグ片手にいとファの敷地内から姿を現していた。

 隣に偽物の彼氏の姿はない。


 それを確認してか菅生は自転車から降りると、手押ししながらも小走りで白崎の元へと近づいていく。


「白崎さ~ん」

「あ、菅生君」


 顔を綻ばせる白崎に、かごに入れていたスクールバッグを菅生は自らの肩にかける。

「今日も送らせていだきましょう。ささ、お荷物はこちらに」


 菅生がおどけながら言うと、白崎は荷物を自転車カゴの中に入れる。


「ありがと」


 はにかむ白崎に菅生の首から上の動きが固定される。つい白崎に見入ってしまったのだろう。何を言おう相手はクラス一の美少女。その上自分の思い人とあればそうなってしまうのも無理はない。


 しばらく言葉を失っていた菅生だったが、やがて白崎が不思議そうに小首を傾げるのを見て我に返る。


「そ、そういえば最近元宮と一緒に帰ってないよな白崎さん」


 自らが空けてしまった時間を埋めるように、菅生が早口で言葉を紡ぐ。


「うん。なんかまた最近色々と用事ができたみたいなんだよね元宮君」

「まー、一人暮らしだもんな元宮。家事とか全部自分でしないといけねーわけだし、そりゃ忙しくもなるよな。この前もなんかすげー深刻そうに晩飯何するか考えてたぞ」

「深刻そうに晩御飯を、ね」


 白崎がどこか含んだように言うと、ふと口を尖らせた。


「でも、嘘だとは言え曲がりなりにも元宮君は私の彼氏なんだよ? 彼女を何日も放っておくのはどうかと思わない?」

「うーん……」


 答えあぐねる菅生だったが、白崎にじりじりと見つめられ慌てたように取り繕う。


「あーいや、そうだよな! まったく元宮の奴。白崎さんを放っておくなんてけしからん! 俺が彼氏なら絶対白崎さんを一人にしないんだけどなぁ」


 菅生の言葉に、白崎が目をぱちくりさせる。

 その反応を否定的なものと捉えたか、菅生が焦燥感をあらわに再び口を開いた。


「あ、いやこれはあれだぞ? あくまで彼氏役を引き受けたんなら彼氏役としての責務は真っ当すべきというまぁなんていうんだ? こうてきてつづき的な意味っていうか⁉」


 目に見えて焦る菅生の弁に、白崎が可憐に微笑む。


「ふふっ、意味わからなくなっちゃってるよ菅生君」

「うっ、そ、そうだよな。はは……ごめん」


 後頭部をさすりながら、恥ずかしそうに謝ると、白崎は菅生の耳元で口を動かす。


『でも言いたいことは伝わったよ。ありがと、菅生君』


 囁かれ、菅生が耳を紅くする。なんなら顔も真っ赤になっているかもしれない。

 そんな様子の菅生に白崎は妖美に微笑むと、暗い夜の空を見上げる。


「はぁ、いつまで元宮君と偽物の関係で居続けないと駄目なのかなぁ」


 まるで誰かに聞いてもらいたいかのように声を虚空に解き放つ白崎。駄目押しにと、菅生の方を横目で捉えた。


「ね、菅生君」


 その恥じらったような静かな呼びかけが、菅生の中にある入れなくてもいいスイッチを入れた。

 菅生が、押していた自転車のスタンドを立て白崎の方へと向き直る。


「じゃ、じゃあさ……」


 頬を掻く菅生の姿を白崎は見守るように、あるいは監視するように眺めていた。


「いっそのことその関係やめるのもいいんじゃねーかなって」


 菅生の提案に白崎は頷かない。


「うーん……そうしたら彼、私の事なんて見てくれなくなるかもしれないし……」


 彼、とは白崎の好きな人の事だろう。偽物の恋人関係を結んでいるのは他でもない、その好きな人の気を引くためである。少なくとも白崎自身はそれが効果的であると思っているのであれば、自分の事を見てくれなくなると危惧するのは頷ける。

いかにも不安そうにする白崎に、菅生は力強く言い放った。


「見る! 見るさ!」


 意志の籠った声に、白崎の視線が菅生へと吸い付く。


「これからは、俺が彼氏役になる」

「え」


 言葉を失う白崎に、菅生は「いや違うな」と首を振る。

 そして白崎の方をしっかりと見据えた。


「俺が白崎さんの彼氏になって、ずっとそばにいる」


 強い決意を帯びた声音に辺りが静まり返る。


「それってどういう……」


 状況を把握できていないといった様子で白崎が回答を求めると、菅生もそういえば大事な言葉を伝えていない事に気づいたか、あるいは己が言ってしまったやや歯の浮くような言葉を顧みて恥じた(まぁ告白の言葉なんて往々にしてこんなものだとは思うが)のか、慌てた様子で頭を下げる。


「あ、あれだ、その、ずっと好きだったんだ白崎さんの事! だから俺と付き合ってほしい!」


 夜の遊歩道に一人の男の思いが響き渡る。

 菅生とて、勝算もなく告白などしていないだろう。むしろ脈があると判断したからこその行動のはずだ。実際、これまで白崎は菅生に対してどこか気があるような素振りを見せてきていたし、菅生もしっかりとそのサインを受け取っていた。


 だが菅生は気づいていない。その時の彼女はもうそこにはいない事を。

 平伏し頭を下げる信徒に、目の前でほくそ笑んでいる天使の顔など見えるはずもない。


「えっと……急にどうしたの菅生君……」


 戸惑い気味に、あるいは憐れむように白崎が尋ねる。


「え?」


 菅生が顔を上げる。


「たぶん言ったと思うんだけど、私が元宮君……ううん、正成君に彼氏役を頼んだ理由知ってるはずだよね?」

「た、確か好きな人の気を引きたいって……」

「うん、そうだね」


 菅生にとってはやはり今の状況は想定されていなかったのだろう。一応答えはするも、どこか上の空。それだけに偽物の彼氏の呼称が変わったのにも気づいていない様子だ。

 それでもなんとか認識のズレを正すべく菅生が白崎を見る。


「でもその好きな人って……」


 俺ではなかったのか。そう言いたいようにも見受けられるが、流石に言葉までは出なかった。


「正成君だよ?」

「元宮……?」


 偽の彼氏を演じていただけのはずのその名前に、菅生は呆気にとられる。


「私は正成君の気を引くために正成君に彼氏役を引き受けてもらったんだよ。勿論、その事は本人に言ってないけど」

「それって……」


 白崎の懇切丁寧な説明に、ようやく菅生も自分の置かれている状況を理解し始めたようだ。しかし気持ちを整理させる時間など与えず、白崎の黒真珠のような瞳が菅生を射抜く。


「あ、もしかして勘違いさせちゃってたのかな?」


 あたかもたった今理解したかのように振舞う白崎。本当は知っていたはずだが、そんな事を明かせば自分が悪人になってしまう。あくまで大事なのは菅生自身が勝手に勘違いをして自分を困らせているという構図なのだろう。


「うーん、確かに正成君にバレたくないから曖昧な言い方をずっとしてたんだけど、そう思っちゃうか。うん、そうだよね……」


 大よそ天使を名乗る者としては程遠い物言い。だが白崎は言葉に雑念を乗せてしまう様なヘマをする女ではない。出力するのはただ申し訳ないという真摯な気持ちだけだ。


 しかしそれでも菅生にとって今は耐え難い時間だろう。これまでの交流の中で都合のいい事実だけを抽出し、勝手に舞い上がっていざ告白したらそれが勘違いと判明した。その上、相手には好きな人がいて、その相手というのが、宣戦布告などという言葉をそれも自信満々に告げた相手なのだから、ありていに言えばかなり恥ずかしい状況だ。


「ほんとに、悪気は無かったんだ。ごめんね菅生君」

「あ、ああいや、全然いいって! うん、ほんと……」


 謝罪を受けなんとか理性的な返答はするも、歯切れは当然良いとは言えない。

 それでも、これだけならしばらく傷は残りながらも、そのうち苦い青春の思い出として後に昇華されていくだろう。


 だが、白崎がこれで終わらすわけがなかった。あくまで目的があるからこそ白崎を菅生を貶めるような行為に及んでいる。そしてまだその目的は達成されていない気配である。


「でもそっかぁ……。菅生君、私の事好きだったんだ」

「ま、まぁ……」


 感慨深げに言う白崎に菅生は曖昧に返事をするしかないが、こんな状況ではいつも通りに振舞う方が無理があるだろう。

 そんな菅生に、白崎は容赦なく襲い掛かる。


「ま、そうだよね。私の事ストーカーするくらいだし?」

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