第三十一話 そしてもう一つの関係も終わりを告げる
綿貫が去ってからの大よそ十数分。人と人が軽い会話を済ませるには十分な時間だろう。
そろそろ俺も出るかとドアノブへと手をかける。
自分の中に燻ぶるどうしようもない感情を改めて自覚しつつ、扉を開いた。
空を見上げればそこに青色は無く、どこまでも白い雲に覆いつくされている。この様子では当分陽の光が差し込むことは無さそうだ。それほどまでに雲は分厚く敷き詰められているようだった。だが別段水分を含んでいるような色合いではないため、むしろこの曇り空は歓迎すべき空だろう。やはり六月にもなってくると太陽も牙を向き始めるからな。日陰というものは重要だ。
もっとも、もう少し季節が進むと逆に曇りの日は蒸し暑くなって鬱陶しくなってきたりもするのだが、まぁそれもご愛嬌。
さてそろそろ空模様に現を抜かしてる場合じゃないな。
何せ俺はこれから『彼女』を振るのだから。
家を出るとすぐに白崎の姿を見つける。
やはりここで待っていたか。
白崎が待っていたのはいつも綿貫と待ち合わせをしていた分かれ道だった。なんとなく昨日の所、という言い回しにもしやと思っていたがどうやら的中したようだ。となると綿貫も遭遇しているはずだが。
「よう、白崎」
声をかけると白崎はこちらへと振り返り、弱々しく微笑む。
「ま、正成君、おはよう」
挨拶を返す白崎だが、この様子だとまず間違いなく綿貫と遭遇していそうだ。そしてあいつは俺が与えた役割をきっちりとこなしてくれたらしい。もっとも綿貫自身にそんなつもりは毛頭なかっただろうが。
「昨日の所っていうのはてっきり別れ際の交差点だと思ってたんだが」
少し元気が無さそうな白崎だったが、気づかないフリをし適当な事を言う。
「それはー、あれだよ。できるだけ正成君と一緒にいられる時間が増えたらいいなーって思って」
笑顔を覗かせ弾むようなトーンで言う白崎だが、俺の目には何かを取り繕っているかのように映る。無論理由には心当たりがあった。
恐らく白崎は綿貫によって俺が友達登録をしていない事を伝えられたのだろう。あいつの性格上、自分が優位に立つ事実があれば間違いなくマウントを取ろうとするはずだ。というか実際その性質のせいで白崎にまんまと嵌められてたしな。
おかげで楽に事を進めることができそうだ。
「白崎」
「何かな?」
白崎が小首を傾げる。
「お前、なんか様子変だぞ」
「そ、そうかな……」
俯ぎがちになる白崎の口元には僅かに笑みが湛えられる。その表情は何かに期待を抱く子供のような姿を連想させた。もしかしたら意中の人間に自分の事を見てもらえていると勘違いしているのかもしれない。だとしたら少し申し訳ないな。
「もしかして綿貫に何か言われたか」
俺の問いかけに。白崎がより一層期待の色を濃くして俺の方を見る。
「えっと、さっき空那ちゃんに聞いたんだけど……」
どこか遠慮がちながらも、もしかしたら否定してくれるかもしれないという期待がその瞳からはありありと見て取れる。
「正成君が私を友達登録してないって言われて、本当なのかなーってちょっと気になっちゃって」
弱々しく微笑む白崎に、くさびを打ち込む。
「なんだ、そんな事か」
「えっと」
白崎は俺の言葉をどう捉えるべきか判断しかねているようなので、すぐに答えを用意してやることにする。
「無論登録してないが」
「え……」
白崎は短く声を漏らす。
「所詮俺たちの関係は偽物だからな。俺はクラスメイトという関係だけでは連絡先を登録しない主義なんだ」
悪びれもなく伝えると、白崎の瞳孔が僅かに拡がる。その奥にある水晶体からは悲しみが滲み出してくるような心持がするが、同時に深々とした黒からは、何か別の感情も芽生え始めているような気がした。
「で、でも一応恋人の関係を演じるわけだし、そこらへんもしっかりしておいた方がいいんじゃないかな……」
一応の反駁をしてくる白崎だが、その語気は弱い。
「そうか? 別に追加しなくともやり取りはできてるし、特に問題は無いと思うが。所詮連絡手段だろ」
「そうなんだけど」
白崎は力なく視線を落とすと、そのまま黙りこくる。さらに主張を詰めていく元気までは無かったか。
なら頃合いだ。
「というか、そろそろこの関係、終わりにしてもいいんじゃないか?」
出し抜けに言われたからか、勢いよく白崎は顔を上げると、再び俺の目を見る。
とある著名な心理学者によれば、人が悲しみを感じた時、五つのステップを辿るらしい。まずは出来事の否認。そんなはずはないと可能性を否定し精神の負荷を軽減させようと試みる。だがその否定が完全に覆されてしまうと、今度は怒りのステップへと移行する。理不尽な出来事に対しなぜ自分がと疑問から始まりどうしてこんな目に遭わなければならないのか徐々に怒りの感情が沸き上がってくる。
俺が用があるのは、その二ステップ目だ。
「なんで……」
ふと、白崎の瞳の奥に確かな黒点が生まれたような気がした。そろそろ怒りを感じる段階に移行しつつあるか。
「目的は確かストーカーを諦めさせるためだったか」
「理想は、そうだね」
なるほど、あくまで理想としたか。その事はこの関係を続けるかどうかを判断する指標になり得ないと言いたいのだろう。この関係をやめる理由を一つ潰されたが、それならそれで良い。そもそも俺は端から白崎と対話する気など無いのだから。
「なるほど、まぁでも終わりでいいだろ」
白崎の瞳が揺れる。
そこに相手を納得させるための言葉は無い。ただ俺がそうしたいだけという理不尽の押し付け。まぁ元々保証などどこにもない契約だからな。一度口で合意したからと言ってそれをいつ破ろうが、法律で罰せられる事は無い。
「ほんとにいいの?」
ふと、白崎が問うてくる。
この関係をつなぎとめるための最後の手札を切ろうとしているのだろう。元々それが無ければ俺も偽装カップルなどという提案なんか飲んでいなかった。
「綿貫に何かするつもりか」
「そうやって私は生きてきたからね」
俺の問い、白崎は楽し気に微笑む。だが目の奥は決して楽しんでなどいない。そこにあるのは静かな怒り。
「そうか。まぁ何をしようとお前の自由意志だが、結局お前は俺の敵に回るんだな」
試すような言葉選びをあえてすると、白崎が俺の方をじっと見つめる。こちらもその瞳の奥を覗き込んでいると、ふと白崎が目を逸らす。
「そっか……本気なんだ……」
白崎はどこか物憂げに目を伏せると、不意に笑顔をこちらに向けてきた。
「ならもう仕方ないね。終わろっか、この関係」
明るく言い放つと、仕切り直しと言わんばかりに手を叩く白崎。それは俺が屋上で白崎の気持ちを拒んだ時の姿と重なる。確かあの後にお願いと称して偽装カップルの関係を持ち掛けられたんだったか。
「それなら嬉しいが、何かお願いされても俺は聞かないぞ」
先回りして言うと、白崎もまた同じ時を思い出していたのか、おかしそうに笑う。
「ふふっ、今度は正成君には何もお願いしないから安心して。ついでに私が空那ちゃんに何かする事もないから」
「……」
「私たちのこの関係はこれで終わり。だって正成君がそうしたいんだよね?」
「まぁそうだが……食い下がってきた割には随分とあっさりだな」
訊くと、白崎は自らの胸元に手を添え、軽く握る。
「それは勿論できる事ならまだこの関係を続けてたいよ。でも正成君が嫌っていうならもう仕方ないよ。だって言ったもん。私はいつだって正成君の味方だって」
そう言うと、白崎はその手で俺の胸元へ触れた。
俺は優しくあてがわれる手を眺めながら、そっとその手首を取る。
「なんでも肯定する事が味方だと思っているのならそれは間違いだ」
指摘するが、白崎は動じずに答える。
「ううん、私はちゃんと正成君の味方だよ」
慈しむように向けられた眼差しは、神話の天使の姿と重なり、儚げに映る。
が、とてもじゃないが敬う気にはなれなれなかった。
何故なら、白崎の空いていた方の手が、首を絞めるかのようにバッグについているぬいぐるみを握りこんでいたからだ。
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