第十九話 あわや、危機一髪

 六月、食中毒には気を付けよう!

 そんなプリントをカバンにしまい、保健委員会が開かれていた教室を後にする。


 委員会がある事など学校に来るまで完全に忘れていたため、綿貫と下校について話を擦り合わせ損ねていた。一応帰りのSHR時に先に帰りたければ先に帰っていいぞと書いた紙だけ渡しておいたが……と、昇降口まで行くと、どうやらまだ綿貫は校舎内にいるらしい。靴箱を開ければローファーがまだ残っている。とは言えあまり女子の靴箱を覗き込んでいるとのは客観的に見たら不審にしか映らないのでさっさと閉めておく。


 流石に勝手に帰るのはダメだよな……。

 六時から白崎とイトウファミリーで落ち合う事になっている。できるだけ早く住処へ戻りたい。

 一応中学の頃の綿貫の連絡先などは記憶しているがとポッケのスマホに触れる。


「……いや」


 わざわざ連絡するほどじゃないか。連絡先が同じとは限らないし、もし同じだったとしても、肝心の俺の方が変わってるからな。急に知らない番号から電話なぞきたら怖いだろう。


 ポケットのスマホから手を離すと、ぼちぼち校舎内を歩き始める。

 既に運動部の活動は始まっているのか、時折掛け声などが閑散とした廊下に響き渡っていた。かと思えば合唱部の歌声が聞こえたり、吹奏楽部の演奏が聞こえたりと、いかにも校舎内は放課後の様相を呈している。


 先んじては所属するクラスの教室へ足を運んでみるが、誰もいない。


 もしかして入れ違いとかかと再び委員があった教室に戻ってみるが、そこにも綿貫の姿は無かった。

 あとはどこだろう。中学の時は割と図書室とかにいたりしたか。


 今度は図書室を覗いてみるがそこにも綿貫の姿は無かった。

 うーむ。ここにもいないとなるといよいよ見当つかないな。一応生徒が通りやすそうな通路を選びながら徘徊していたつもりだが、あまり人が来なさそうなところとかも行くか。


 捜索ルートを変更し、三階へと足を踏み入れる。

 この階は一部の他学年の教室と、移動教室系の部屋が多いからな。この時間でここに来るとしたら部屋を借りていたりする一部の文化部だけだろう。


 たまに雑談などが聞こえてくる扉を横切りつつ、歩いていると、ふと突き当りにトイレがあるのを発見する。


「あー……」


 この可能性もあったな……。流石に中を探すわけにもいかないし、これはあれだな、最初から昇降口で待っておくのが一番合理的だったやつじゃないか……。少し綿貫の所在の方に気を取られすぎていた。我ながら情けない。


 下駄箱へ戻るべく身を翻そうとすると、女子トイレから心なしか軽やかな足どりで松さんが出てきた。これまた妙なところで遭遇してしまったものだ。


「って、あ、あれ? 元宮君?」


 まさかこんなところに俺がいるとは思っていなかったのだろう。どこか戸惑っているように見受けられる。


「あっ、ま……」

「ま?」


 松さんからものすごい圧が飛んできたので、すかさず口をつぐむ。


「あ、佐藤先生。ども」


 何事も無かった風を装い軽く会釈すると、手を振って応じてくる。


「どもども~。でも私、平仮名の『ま』と『つ』が大嫌いだから二度と口にしちゃだめよ?」

「んな無茶な……」

「無茶じゃありません!」


 言ってる傍から自分で使ってるし。

 この人に付き合ってるとろくなことにならなさそうだなと思いつつも、一応担任なので綿貫の事を聞いてみる事にした。


「それより綿貫見ませんでしたか?」

「綿貫さん? 見てないけど……」


 思い出すように言う松さんだが、ふといやらしい笑みを向けてくる。


「ははーん、さては放課後にいかがわしい事するつもりだなぁ?」

「いや何言ってんですかマジで……」


 教師が生徒に投げかける言葉じゃねえよ……。まぁ教師の資格なんてとっくにはく奪されてもおかしくないわけだが。


「仕方ない。私がなんとかして誰も来ないように見張ってあげるから、存分に『せいしゅん』を謳歌したまえ若者よ。ちなみにせいは性癖の性で、言うまでもないけどしゅんは売春の春よ?」

「あんた狂ってるよ……」


 いや真面目に。こんな奴を何故国は教師として認定した。というか俺に彼女とされる人物がいることを知らないのか。


「あー! 先生にあんたとはなんですか⁉ ちゃんとシュガー先生とお呼びなさい。ぷんすこぷんぷん」


 腰に手をあて、アラサーどころか誰が言っても怖気を呼ぶような事を口走る松さん。これ以上関わってたらSAN値的な何かが削れる。


「すみませんでした。佐藤先生」


 適当にあしらうと、松さんがいかにもなそぶりをしてため息をつく。


「まったく強情な奴め。とにかく部活無いなら早く帰るのよ? 物騒な世の中なんだから。それじゃあまたね」


 そう言って、松さんは若干足早に階段を下っていく。

 松さんの方から離れて言ってくれたのは良かった。もし何かの手違いで引き留められてしまえば害悪でしかない。いや流石にそこまでは言いすぎか。


 ともあれ時間はあまり食いたくないので、俺もさっさと昇降口へ戻ろうとするが、下の方から慌ただしい足音が響いてくるので足を止める。

 やがてその音が近づいてくると、見慣れた顔がいそいそと登ってきた。


「まーく~んって、わっ」


 ふと、綿貫の顔が遠ざかる。長くない髪が宙を舞うのが見えた時には、飛び出していた。

 後ろへ倒れる綿貫の肢体。なんとか腕を伸ばすと、確かな重みが確認できたので、ひと思いに抱き寄せる。


 勢い余って、今度は俺が後ろに倒れそうになるが、何歩か後ずさり力を相殺する事でなんとか持ちこたえた。

 俺の懐で確かに小さな身体が収まっているのを確認し、心から安堵する。


「えへへ~まーくんに抱かれちゃった~」


 俺の腕の中で幸せそうに目を細める綿貫に呆れ果てる。


「何を呑気に……今のはマジで危なかったからな……」

「うっ、た、確かにそうかも」


 階段の方へ目をやると、さしもの綿貫も少しだけおっかなそうな表情を見せた。


「でもまぁ何事も無くて良かった。もう離すぞ」

「えーやだぁ、えへへ~」


 綿貫は甘えるように言うと、より密着してきた。ふとバニラのような香りが漂ってくると、心臓の鼓動がいつもより大きく拍動しているのに気づく。


 しかしこれがあくまで先ほどの出来事の余韻である事は容易に想像ができた。吊り橋効果なぞには惑わされない。


「いいから離れろ」


 小さな肩を抱き引きはがすと、綿貫は不服そうに口をとがらせる。


「まーくんのいじわる」

「それが恩人に対する態度か」


 クズめと内心で毒づいてみるが、今いちしまらない。


「でもありがとう!」


 出し抜けに満面の笑みが向けられ、つい呆気にとられる。


「まさかお前から感謝の言葉を聞くことになるとは」

「むーんっ」


 俺の言葉に綿貫は誇らしげに胸を張る。別に褒めてないのだが。


「そ、それよりまーくんどこ行ってたの⁉ 帰る時急にこんな紙置いてどっかいっちゃうんだもん。 ずっと探してたんだよ⁉」


 そう言って見せつけてきたのは、俺が渡しておいたメモだった。


「保健委員行ってたんだが」

「へ? なにそれ」


 ぽかーんと口を開ける綿貫。


「今日委員会あるって朝に松さん言ってただろ」

「そだっけ」

「SHR時にな。話聞いてなかったのかお前」


 チクリと言うと、綿貫が気まずげに視線を逸らす。


「うっ……」


 半目でその様子を眺めていると、ややあって綿貫は頭を抱え出した。


「当方、暇になると妄想するへきがありまして!」


 いや知らんよ。

 ただ思い返してみれば中学の時も授業中よくぽけーっとしてたりしてたなこの子。あれずっと妄想してたのか……。


「そのメモは待たしちゃ悪いと思って置いておいたんだ」

「な、なるほど……」


 てことはずっと俺のこと探し回ってたのかこの子……それならいっそ昇降口辺りで待っといてくれれば良かったのに。俺も人の事言えんが。


「でもまぁ落ち合えてよかった。松さんから聞いたのか?」

「うん、探してたら先生が上でまーくんが探してたよ~って」


 道理で慌ただしく上ってきたわけだ。


「そうか。とりあえず帰るか」


 一応六時までまだ時間はあるが、できるだけ余裕は持っておきたい。


「あ、待ってまーくん」


 特に並んでくる様子もなかったので立ち止まり振り返ると、綿貫が若干頬を染めそわそわしていた。


「そ、その~安心したらおトイレ行きたくなったから行ってきてもいいかな……」

「あー……」


 すぐそばにあるトイレが目に入る。


「いや待て」

「え?」

「こっちのトイレよりー……」

 

 そう言って綿貫と共に下の階へ行く。


「こっちにしとけ」


 目の前にある引き戸の上に掲げられた車いすマークを綿貫がぼけーっと眺める。


「たもくてきといれ?」


 間の抜けた声で言うと、綿貫がくるっと俺の方へ振り返り狼狽する。


「な、なんで? 私が池沼いけぬまってコト⁉ そうなの⁉ ねーねー⁉」

「いけ……おま、何て事言うんだ……というかそれ読み方間違ってるからな……」


 わざわざ正しい読みは口にしないが。


「どーして、どーして!」


 俺の指摘など聞こえてもいないのか、綿貫がポカポカ叩いてくる。


「いやまぁ。他意はないんだが……」


 答えあぐねていると、何かに気づいたのか綿貫がハッとした表情を見せ殴るのをやめる。

 俺からほんの少し離れると、恥ずかしそうに頬を染める綿貫。


「も、もしかして渡部的な……」


 視線を斜め下に落としつつ、自らの指をちょこちょこと遊ばせる。


「いや無いから。というかやめろそういう事言うの」

「ま、まーくんがそういうの好きなら私は別に……」

「好きじゃないから。まぁあれだ、あそこのトイレは出ると噂だからな。念のためだ」


 完全な出鱈目だが、この学校の事をよく知らない綿貫なら信じるだろう。


「そ、そうだったんだ……!」


 案の定、綿貫は青ざめていた。こういうとこは単純で助かる。


「それより早く行かなくてもいいのか」

「あ、そうだった」


 綿貫は急ぎ入ろうとするが、引き戸を少し開けたところでこちらへ視線を送る。


「けっこう広いよ?」


 どこかからかうような表情に脳が痛むのを感じた。


「だからどうした。俺は下駄箱で待ってるからな」


 茶番などに付き合うのはごめんなので、さっさとその場を後にする。

 ま、三階と違ってこちらは温水便座だからな。比較的快適だろう。だからそう言った意味でも職員室用トイレでも良かった。多くの生徒は知らないだろうが、ここの職員用トイレは温水便座である。年配も多いからな、教師陣には。

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