2.風は、決して『 』にはなれない
ぽつりと。腕に、冷たさが広がっている。血液に染みる
ここは、病室。
カーテンには薄く影が掛かり、静けさはザアアアアと雨に掻き消されている。
「原因は、疲労です。とにかく、静養してください」
医者にそう言われて、早五日。ぐうたらと昼寝をする日々が続いていた。体調は、大分良くなった。早く仕事に戻らなきゃ、と考えられるだけの余裕が生まれている。退院日は、もう少し先だけど。これなら、ちゃんと話が出来そう。
——あの子が、お見舞いに来る。
一昨日、本人から連絡が来た。名前は、
……どんな顔して、会えばいいのだろう?
「私、誰かに笑われちゃう」
「これ以上、変なものを書きたくない」
「書き続けてるだなんて、思われたくない」
なんたって、この、吐いた言葉の数々。思い出すだけで、ほんと嫌になるけれど。言った事は、もう取り消せないから。
——どんな言葉でも、受け入れよう。
そう思って、鳩田さんのアカウント(名前で検索し、すぐにブロ解した)にメッセージを送ったら。
「謝らなくていい」
「代わりに、お見舞いに行かせて」
こんな、言葉……。鳩田さんは、どんな気持ちで送信してきたのだろう。私を恨んでいたって、おかしくないのに。見捨てずに、命を救ってくれたのだ。その上で、お見舞いだなんて。並大抵の思いで、出来る事ではない筈。絶対に、それに応えなきゃ……。
『 !』
この文章のおかげだ。この文章のおかげで、捨てたものの鮮やかさを思い出せたのだから。せめて、今の鳩田さんには、しっかりと向き合いたい。
……しかし、この『 』。
結局、これは何だろう?あの日から、ずっと胸の中に渦巻いているけれど。内容が分かる気配はしない。その癖になんか、雰囲気だけは伝わってくる。
……頭の、病気かなぁ?
そう思って、医者に相談したけれど。伝えるのが大変だった。何たって、この『 』。読み方も書き方も、わからない。「何かが、心にあるんです……」とか「胸に、寂しい感じのものが渦巻いて……」みたいな。曖昧な伝え方に、どうしてもなってしまう。
——私達には、分かりません。
結局、そう言われた。昨日の検査で、大きな異常が見つからなかったのだ。そして、「精神医学に関しては、専門外ですが……」と言われた後。
……似たような経験なら、あります。
自分を見つめ直していると、気づくもの。心の奥底に押し込めていた感情が、その正体なのではないか、と言われたけれど。
それじゃないと思う。
『 、 ?』
瞼を、閉じると……。
『 、 ?』
私に、話しかけてくるのだ。
『 、 』
子供っぽい、声色。
『 、 』
とろけた声は、たどたどしくて……。
『 、 』
甘く、朗らかに響いているから。
『 、 』
余計に、切なくなってしまう。
『 、 』
嗚咽が、漏れて……。
『 、 』
舌足らずな声が、震えていて。
『 、 』
胸の中に、あの……。
『 、 』
幼い男の子が、浮かんだ。
『 、 』
ポロポロと、泣いていた子……。
『 、 』
昔はいつも、鳩田さんが慰めていた。
『 、 』
あの物語を、語り聞かせて……。
『 、 』
ケロッと、泣き止んだ後には。
『 、 』
決まって、三人で遊び始めていた。
『 、 』
……よく、お芝居ごっこをしていた。
『 、 』
鳩田さんの、語りに合わせて。
『 、 』
男の子が演じる、一人舞台。
『 、 』
私は、その台詞を書き写してた……。
『 、 』
その子の演技は、切実で。
『 、 』
始まった途端、声から潤いが失せて。
『 、 』
青年の役に、入り込むのだ……。
『 、 』
乾ききっては、いるけれど。
『 、 』
微かに優しい、こんな声。
『 』
ゾォッッ……。
『 、 』
冷たさが、背筋に走って。
『 、 』
握りしめた拳から、ドクン。
『 、 』
ドクン、ドクン、と伝わって。
『 、 』
ドクンと浮かんできた。
『 』
……鳩田さんだ。
『 、 』
胸に、ポッカリと空いた穴を。
『 、 』
ジーッと、覗いている。
『 、 』
その中に、手を入れて。
『 、 』
心臓があった場所を、
『 、 』
何かを、ずっと探っている。
『 、 』
ずっと、ずっと……。
『 、 』
幼い時も、中学を辞めた後も。
『 、 』
大人になった、今でも。
『 、 』
中にある物を、掴もうとしている。
『 、 』
でも、出来る筈がない。
『 』
そこに、あるのは。
『 』
ただの、空白。
『 、 』
——何もないのに。
『 、 』
胸の中を、何度も覗いて。
『 、 』
何かを、見つけようとしてる。
『 』
何度も、何度でも……。
『 、 』
覗いては、覗いて、覗いては、覗いて、覗いては、覗いて、覗いては、覗いて、覗いては、覗いて、覗いては、覗いて、覗いては、覗いては、覗いて……。
『 』
ぽつりと。
『 、 』
その顔から、涙が落ちた。
『 、 』
跳ね上がった
『 、 』
『 、 』
ぽつり、ぽつり……。
『 、 』
黒い波が、やがては崩れて。
『 、 』
水の底に、消えてゆく。
『 、 』
——私は、湖に立っている。
『 、 』
湖面に映った空に、色はなくて。
『 、 』
何も映さない、鏡のよう……。
『 、 』
胸を、吹き抜けた風。
『 、 』
心を削るような、侘しい風……。
『 、 』
その風上には、鳩田さんが立っていて。
『 、 』
強く、視線を感じるのだ……。
『 、 』
その胸に空いた、風穴から。
『 、 』
じーっと。私を、見ているから。
『 、 』
身体が、ザワザワとしてる……。
『 、 』
鳩田さんも、私を見てた。
『 、 ?』
口を開けて、大きく笑いながら。
『 』
目には、黒い涙を浮かべている。
『 、 』
歓喜の叫びを、上げているけど。
『 、 ?』
流した涙は、やはり……。
『 、 』
湖に、残らない。
『 、 ?』
例え、上手く涙が流せても。
『 、 』
お芝居で、感情を表現できても。
『 、 』
胸の中が、空っぽだから。
『 、 』
——あの子には、程遠い。
『 、 』
枯れた声の、暖かさとは違う。
『 、 』
暗くて艶やかな、雰囲気ではない。
『 、 』
……出来たのに。
『 、 』
私には、出来たのに。
『 、 ?』
その声が、頭に染み付いて。
『 、 ?』
常に、渦巻いていたから。
『 、 ?』
よく、真似を…し……て………?
『 、 ?』
…………?
私、どうしてこんな事を……?
「 え、華 」
——何かが、聞こえる。
「 願 あ !」
吹き荒ぶ、風の中に……。
「や と、作 が出 たから!」
段々と、聞こえてきて。
「 から、ま 願い いの!」
言っている事が、掴めてきた。
「『 』 役を、演じ 欲 の!」
——鳩田さんだ。
「答 が、ほ いの」
すごく、切実な声……。
「ど こま 近づ か、知 たいの」
しかも、伝わった内容は。
「 ら、お願 !」
昔、何度も叶えてあげた事……。
『僕を、演じてあげて……?』
だから、やらなきゃ。
「『 』」
教えて、あげなければ。
「——!!!」
「『 、 』」
示して、あげなければ……。
「あぁ、あぁあ!」
君はまだ、届いていない事。
「あ゛あぁぁああ゛あああ゛あ゛あ゛あ゛あ!!!!」
「『 、 』」
声、仕草、表情……。
「あ゛あぁぁああ゛あああ゛あ゛あ゛あ゛あ!!!!」
「『 、 』」
どれを取っても、真似できてないのに。
「あ゛あぁぁああ゛あああ゛あ゛あ゛あ゛ああぁぁあ!!!!」
ましてや、文章にするだなんて……。
「『 、 ?』」
「凄い……」
何度も。
「やっぱり、凄い……」
何度でも、伝えなくては。
「声が、違う」「迫力からして、違う」「ましてや、この響き……」
君が抱いた、イメージの曖昧さに。
「……書いてた物とは、比べ物にならない」「表情も、仕草も、雰囲気も」「全部、文字に出来てなかった……」
その小説の、至らなさを。
「……なんで、出来ないの?」「ずっと、キミの事だけを考えて」「キミを、ずっと書いてきたのに」「どうして、しっくりと来ないの……?」
知りたくは、なかった。
「書き直しだ……」「五年、十年」「何年も、書き続けても」「何度、キミをイメージしても」「一ページも、筆が進まない……」
自然と浮かんだ、涙ですら。
「——けれど」「きっと、いつかは出来る筈」「十年、二十年、三十年」「何十年も、続けれていれば」「キミを書ける日が、来る筈……」
既に、黒く濁っている事……。
「——その、筈だよね?」
「『 、 』」
君に、伝えてあげよう。
「『 』」
乾いた、声。
「『 、 』」
とろけた声色で、ゆっくりと。
「『 、 』」
初めて会った日の事を、教えてから。
「『 、 』」
ゆっくり、ゆっくりと……。
「『 、 』」
目が閉じていくのを、見た後には。
「『 、 』」
僕も、深く目を瞑ろう……。
「『.゚o ゚。 。o゚。 .゚o ゚。.゚o ゚。 。o゚。 ゚』」
視界に浮かぶ、泡沫を。
「『.゚o ゚。 。o゚。.゚o ゚。 。o゚』」
見たり、見ぬ振りをしながら。
「『o ゚.゚o ゚。 。o゚。 ゚。』」
視界の奥に、目を向けさせて。
「『.゚o ゚。 。o゚。 。 』」
湖の果てを、見てもらおう……。
「『 』」
そうすれば、思い出してくれる筈だ。
「『 』」
水平線上に立っている、あの。
「『 』」
カタチのない、体を。
「『 ゜.・』」
ぽつりと。
「『 ゜.・ ゜.・ ゜.✧ ゜.』」
流した涙は、透明で……。
「『.✧ ゜.⚪︎ ゜.・ ゜.✧ ゜.⚪︎ ゜』」
宝石みたいに、瞬きながら。
「『.・゜ ..⚪︎゜.・ ゜..✧ ゜...⚪︎゜.・ 』」
水の底へと、沈んでゆく。
「『....✧ ゜..⚪︎ ゜.✧ ゜.✦゜』」
その、輝き……。
「『.✦゜.✧ ゜.●゜.⚪︎ ゜.⚫︎゜』」
一度、目に焼き付いたら。
「『.●゜.⚫︎゜.●゜.●゜.●゜』」
二度と、離れないから。
「『.✼゜.●゜.✧ ゜.●゜.✦゜』」
きっと、思い出してもらえる筈。
「『.✧ ゜.✼゜.●゜.✦゜.✼゜.●゜.✦゜』」
水面に浮かんだ、花々の。
「『.●゜.✼゜.●゜.●゜.✦゜.●゜.✦』」
この、煌めきを……。
ぽつり。
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