第8話 沖田壮馬は料理上手

 小岩井日菜は夢を見ていた。


 夢の中で彼女は高校一年生。

 放課後になると、楽しみがある。


 文芸部の活動だった。

 部活動のために学校に来ていると言ってもいいほどに、彼女は文芸部が好きだった。


「す、すみません! 遅くなりましたぁ! ふぎゃっ!? あ、ごめんなさい!!」

「はははっ! 小岩井さん、それ人体模型だよ!」


「ほへぇ? ふぎゃぁぁっ!! な、なんでこんなものが部室にあるんですかぁ!?」

「まあ、うちは俺と小岩井さんだけの部活だからね。理科室で吹奏楽部が練習をするから、邪魔なんだってさ。今日から彼もうちの部員だ!」


「い、嫌ですよぉ! 怖いじゃないですか!!」

「そんなひどい事を言うものじゃないぞ。マサシも悲しいだろ?」


「名前付けないでください! ふみゅ……。せっかく先輩と2人きりの時間なのに」

「そうそう! また新しく小説書いてみたんだ! 読んでくれる?」


 彼女は部活の先輩が書く小説を読むのが、大好きだった。

 荒唐無稽な話や、奇想天外な話。


 どれも万人受けはしないが、彼女は先輩の物語を読んでいると、日常の嫌な事や悲しい事を忘れられた。


「ふふっ! あははっ! また、変な小説を書きましたね! 先輩!」

「そうだろう? 俺の頭の中には妙なアイデアしか湧いてこないんだ! だから、小岩井さんにしか読ませない事にしている!」


「わ、わたしだけ、ですか? それって、わたしが特別ってこと、ですか?」


 先輩は歯を見せて笑う。



「ああ! 俺の妙な話を面白がってくれるのは、多分世界で小岩井さんだけだろうからな! そんな変人を探すのは大変だ! だから、君が入部してくれて良かった!」

「な、なんですかぁー。変人って……。もっと他に、呼び方ってものがあると思いますけど!!」



 ゆっくりと過ぎていく放課後の時間。


 遠くで聞こえる野球部の声。

 体育館で弾むボールの音。


 そのどれもが最高のBGMになる。

 日菜は幸せだった。



◆◇◆◇◆◇◆◇



「んっ。……ふみゅ。あれぇ? 朝? うぎゅっ! 頭が痛いー」

「おはようございます、日菜さん!」



「あっ、おはようございます、沖田先輩。……あばばばばばばばばばばっ!?」

「日菜さんにそう呼ばれると懐かしいですね! 今、朝ご飯ができますから!」



 日菜は状況を理解するべく、脳内に全エネルギーを集中させた。

 まず、ここはどこなのか。


 寝転がっていたソファは見覚えがあり、テレビの位置と絨毯の色も彼女がよく知っているものだった。

 どうやら、自宅らしいと日菜は納得する。


 そうなると、納得できない事が即座に生まれる。


 どうして沖田壮馬が自分の家にいて、エプロンをして朝ごはんを作っているのか。

 日菜が壮馬の腕にくっ付いて離れなかったからなのだが、酔っ払い特有の都合の良い記憶喪失によりその事実を思い出す事が出来ない。


「日菜さん、牛乳少し使ってもいいですか? 卵焼きに入れたくて。でも、残りが少ないようなので。日菜さん? あれ? 聞こえてます? 日菜さん?」


 どうして壮馬が自分の事を名前で呼ぶのか。

 これが最大の謎だった。


「おっ! お姉ちゃん、おはー! 昨日はお楽しみでしたね!」

「ふぎゅっ!? 莉乃、りのりのー!! なんで沖田……くん先輩がいるの!? うちに!? なんで!?」


「ありゃりゃ。やっぱり覚えてないんだー? 全部お姉ちゃんが悪いんだよー?」

「わ、分かりやすく! 簡潔に! あとわたしのハートに低刺激な感じで! 事情を教えて!!」


「えー? 面倒だなぁ。んっとね、昨日の夜、酔い潰れたお姉ちゃんを連れて来てくれたのが沖田さん! その沖田さんの腕から何をしても離れなかったのがお姉ちゃん!! 仕方がないので泊まってもらいました! じゃん!!」



(ふ、ふ、ふぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!)



 日菜は絶叫したいのをどうにか理性で堪えて、心の中で叫んだ。

 床をコロコロ転がって手足をジタバタさせたいのをどうにか踏みとどまって、心の中でローリングした。


 完全にやってしまっている。

 日菜は色々と積み重ねて来たものが崩れ去る音を聞いた。


 既に昨日の時点で色々と崩壊しているので、それは残響である。


「2人とも、朝ごはんができましたよ! 食べましょう!」

「はぁーい! おおーっ! 沖田さん、料理上手! どれもおいしそー!! お姉ちゃん、顔洗ってきなよ! 先に食べちゃうよー?」


 日菜はフラフラと立ち上がり、ヨロヨロと洗面所へ向かった。



◆◇◆◇◆◇◆◇



 事実は事実として向き合わなければならない。

 起きてしまった事はもう変えられないのならば、起きてしまった後をどうするか。


 冷水で顔を洗った日菜は、覚悟を決めた。

 「どうにか誤魔化そう!」と、力強く頷いた。


「お、沖田くん。昨日は、何と言うか、ちょっとアクシデントがあったようで、その」


 リビングに戻った日菜は先手を打った。



「あっ! 日菜さん、メイク落とした方が可愛いですね! 高校生の頃から変わってないなぁ!!」

「ふぎゅっ!? や、これは、ちが、その! ……あぅ」



 後手があまりにも強烈で、日菜は一発でノックアウトされる。

 テーブルに並んでいる和食メインの朝食を莉乃は堪能していた。

 向かいに座っているのは、沖田壮馬。


 日菜の座る椅子は、壮馬の真正面にしかない。


「日菜さん、急がないと会社に遅れますよ! さあ、食べましょう!」

「……はい。食べます。……うにゅ」


 壮馬の料理の腕前は一流である。

 3年も実家の和菓子屋で働いていたため、元から器用だった手先がさらに洗練され、特に家事においては無類のハイスペックを手に入れている。


「お口に合えば良いですが」

「超おいしーです! 普段はあたしもお姉ちゃんも料理しないのでー! 温かい和食が食べられるとか、お姉ちゃんのご乱行に感謝ですねー!!」

「うみゅ……。莉乃、ヤメてぇ……」


 だが、空腹には逆らえない。

 いい匂いに日菜のお腹がきゅーっと鳴き、アカシアの花に吸い寄せられるミツバチのように彼女は箸を伸ばし、気付けば笑顔でモグモグしていた。


 それから出勤の準備をして、マンションのエントランスで莉乃と別れる。


「沖田さん! また遊びに来てくださいねー!!」

「り、莉乃ぉ!!」


 壮馬と日菜は駅へ。

 通勤ラッシュにはまだ早く、2人並んで椅子に座れた。


「あ、あの、沖田くん。昨日と今朝の事は……」

「分かってます! 俺の緊張をほぐすために、わざとやってくれたんですよね?」



「えっ?」

「はい!」



 結果として、日菜はこのビッグウェーブに乗った。

 実に良い塩梅の波だったと言う。


「そ、そうですね。そうです。沖田くん。今日からまた頑張りましょう」

「はい!!」


 小岩井日菜の大ピンチは、沖田壮馬のあり得ない曲解によって事なきを得た。

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