第7話 小岩井莉乃は姉に似ていない

 現在の時刻は午後10時過ぎ。

 タクシーが小岩井日菜の自宅マンションへと到着した。


「お客さん、着きましたけど。お連れさん大丈夫ですか?」

「多分大丈夫です! すごくしっかりした人なので!」


 沖田壮馬は日菜の「デキる女上司」像を社外に持ち出していた。

 それは社外秘である。

 すぐに戻して来るべきだった。


「そうですか。足元に気を付けてくださいね。はい、お釣りです」

「どうも! 遅くまでご苦労様です! 運転手さんもこのあとお気を付けて!!」


 タクシーは走り去っていった。

 運転手は壮馬の事を「いまどき感心な若者だなぁ」と思ったが、同時に「多分このあと、面倒事になるんだろうなぁ」とも思った。


 この世界が推理小説の舞台だったら、多分タクシーの運転手は探偵役になっただろう。


「小岩井さん、ご自宅に着きましたよ! 歩けますか?」

「沖田くん! わらひの家に寄って行きなしゃい! お茶を飲ませましゅ!!」


「いえ、しかしこんな時間に女性の一人暮らしのお宅に入るのは……」

「大丈夫でしゅ! わらひ、同居人がいますので!」


 壮馬は考えた。

 同居人と言うのは彼氏ではないだろうかと。


 そうなると、先輩の彼氏にあらぬ疑いをかける事になりはしないかと。

 だが、その考えは数十秒で霧散した。


「小岩井さん、お部屋は何号ですか?」

「えっとぉー。多分、503です。ふふふっ。やっぱり503でしゅ!」


 ほろ酔いの女性を独り帰したとあっては、藤堂先輩との約束を反故にする事だと壮馬は心得た。

 ならば、彼氏にお会いして身の潔白を証明するのが筋。


 実直な男らしい答えの出し方であった。

 壮馬は日菜を連れて、どうにかエレベーターへ。

 5階でおりたら、1つ2つと部屋を通過して、503と書かれた玄関の前に立つ。


 さすがの壮馬も、日菜の彼氏と対面するのはいささか緊張していた。

 だが、日菜がタコかイカのようにぐにゃりとしているため、自分で呼び鈴を押す必要があった。


 意を決してポチリとボタンを押すと、ピンポーンと呆気なく来客を知らせるベルが鳴る。

 続いて、日菜の同居人が扉を開ける。


「お初にお目に掛かります! わたくし、山の森出版で小岩井日菜さんに教育係をして頂いております、沖田壮馬と申します! 今宵は小岩井さんたっての希望で、お宅までお連れした次第でございまして、決してやましい事はございません!!」


 最敬礼の姿勢を取って、これだけのセリフを一息で吐き切った壮馬。

 だが、同居人からの返事がない。


 やはり気分を害したかと、恐る恐る顔を上げてみると。


「あはっ! お姉ちゃんの会社の人ですかー? すみません、うちの姉がご迷惑をおかけしましてー」


 そこには女子高生が立っていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇



 日菜を女子高生に受け渡して退散するつもりだったが、彼女に「このままお帰ししたら姉に怒られちゃいますよぉー」と言う申し出を受けて、「それはいけませんね!」と普通にお宅にお邪魔した壮馬。


 真面目さが良くない方向に全力疾走していた。


「すみません。姉、お酒弱いんですよー。でも、こんなになるまで飲んだって事は、きっと楽しかったんですねー。えっと、お兄さんはー? 確か、沖田さんって?」

「はい! 沖田壮馬と申します!」


 女子高生の表情がにんまりと柔らかくなった。


「あー! あなたが噂の沖田くん先輩さんですか!!」

「なんだか敬称が渋滞していませんか!? 俺はただの沖田ですが!」


「いえいえー。こっちの話でしたー。あたし、小岩井莉乃りのと言います! お姉ちゃんと一緒に暮らしている妹です! ちなみに高校三年生ですよー! JKです!! どうですかー? スカートも短いですよー?」

「なるほど! 結構なJKですね!!」


 莉乃も「なるほどー」と応じた。


「これはお姉ちゃんが苦戦している風景が目に浮かびますねー。まあ、お茶でも飲んで行ってくださいー。と言うか、帰れませんよね? そのままじゃ」

「確かに、おっしゃる通りです! このまま帰ると小岩井さんをお持ち帰りしてしまう事に!!」



 日菜は壮馬の腕にくっ付いていた。凄まじい吸着力で。



「どうぞー。粗茶ですがー。……飲めます?」

「お気遣いなく! ……やはり無理です! ストローを拝借できますか!?」


「あははっ! ストローで熱い緑茶のんだら火傷しちゃいますよー! 沖田さんって面白い人ですね! 噂通りですー」

「自分の無力さが情けないです。では、冷めたのちにストローを拝借させてください! 小岩井さん! いや、小岩井妹さん!」


「あたしの事は莉乃でいいですよ? 小岩井妹とか呼ばれるより、名前で呼んでもらった方が嬉しいですー!」

「初対面の女性に対してそのような態度を取っても良いのでしょうか?」


 莉乃はずっと笑顔であり、壮馬が何か喋る度に「あははっ」とお腹を押さえて笑う。

 どうやら、彼の事が気に入ったらしかった。


「ややこしいですから! あと、お姉ちゃんの事も家では日菜って呼んであげてください! そっちの方が絶対に面白い……じゃなくてー! 喜びます!!」

「なるほど……。小岩井さんが喜ぶと言うのならば、謹んで拝命します!」


 壮馬は時計を見る。

 1時間が経過しており、午後11時を過ぎた時分だった。


「そろそろ俺はお暇させて頂きます。夜分に女性の家に上がり込んだだけでも失礼なのに、これ以上はいけません!」

「でも、そうなるとお姉ちゃんごと帰ることになりますよね?」


 とんでもない難問に出くわしてしまった壮馬。

 これではいつまで経っても解決には至れない。


「小岩井さん! いや、日菜さん! すみません! 俺は帰りたいのですが!!」

「なんでしゅか……沖田くん……。もっとゆっくりしていきなしゃい……」


「困りました。上司の命令を無視する訳にもいきません。莉乃さん、俺はどうすれば?」


 賢い女子高生は、迷える新入社員に救いの手を差し伸べた。


「じゃあ、今晩は泊まっていってくださいー! 姉が離れるまでは不自由でしょうけど。お願いします、沖田さん!」

「なるほど! それしか手はありませんね!!」



 「なるほど!」ではなかろうが。



 こうして小岩井姉妹の家に泊まる事となった沖田壮馬。

 事案になるのか、ならないのか。


 彼は自分が極めて危険な分水嶺にいる事を自覚していない。

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