第4話 小岩井日菜は(いつもと違う時間の)電車に乗れない

「よし! 完璧だ!」


 沖田壮馬の朝は早い。


 彼は新人らしく会社に出社するのは1番であるべしと心に決めていた。

 だが、小岩井日菜の朝も早い。


 結果、1週間の戦績は壮馬の3勝2敗であり、油断をすると勝率5割すらキープできなくなると彼は震えた。

 今日は月曜日。


 今週は日菜に全勝して、自分のやる気を認めてもらうのだと息巻いている。

 始業の2時間前にやって来た壮馬は、既に全てのデスクを丁寧に拭いて埃の存在を許さない清潔空間を構築。


 さらに、週末に買っておいたちょっと高い緑茶を給湯室に準備。

 まだ会社の戦力としては0に近いと自覚のある壮馬は、少しでもお役に立てればと一生懸命だった。


 それから1時間。

 最初に出社して来たのは、小岩井日菜ではなかった。


「あら、沖田くん。早くない!? うわ、しかも机が超綺麗になってるじゃない!!」

「おはようございます、藤堂先輩! 俺にできる事はこのくらいなので!」


「はぁぁ……。すごいわぁ。沖田くん、私と同い年なのに。何なの、その湧き出て来るフレッシュマン感! 大学出てからはご実家で働いてたのよね!?」

「はい! ですが、働いていたとはいえ実家ですから! やはり心にゆとりがあったので、社会人としては半人前です! 遅れた分を取り返すのに必死ですよ!!」


 真奈美は何となく自分が2歳くらい老け込んだ気がした。

 「マスクしてるから化粧は適当でいいわ!」とか思っていた自分が少し恥ずかしくなったと言う。


「そういえば、小岩井さんはまだでしょうか?」

「言われてみれば、確かに遅いわね。沖田くんが入ってくるまで一等賞はいつもあの子だったのに。電車でも遅れてるのかしら?」


 壮馬と真奈美は「心配ですね」「ねー」と日菜のデスクを眺めて、彼女の不在を不思議がっていた。



◆◇◆◇◆◇◆◇



「ふぎゃっ! す、すびばせん! 降りますぅ! あああーっ!! 降りましゅー!!」


 無情にも締まる電車のドア。

 小岩井日菜は珍しく寝坊していた。


 寝坊と言っても、普段6時に起きるところを6時半に目が覚めただけで、一般的には全然余裕のある寝坊である。

 だが、彼女にとっては死活問題だった。


「ふにゅっ!? あああっ! 降りません! わたし、今度は降りませんからぁ! ふぎゃぁぁぁっ!! ……あぅ」


 現在、日菜は杉林駅のひとつ向こうで下車している。

 その前は、杉林駅のひとつ前で下車していた。



 彼女は満員電車に乗れないのである。



 だから普段から驚異的な早起きをして、まだ人もまばらな時間帯の電車で通勤しているのだ。

 だが、たった30分の寝坊が状況を一変させた。


 杉林駅はこの辺一帯のオフィスが集中しており、多くの会社員が利用している。

 その人混みに紛れると、日菜はコミュ症を発揮する。


 「ここにいたら迷惑かな?」「こっちにいたら邪魔になっちゃう」と、彼女は満員電車の中でも人の迷惑にならないように心がける。

 その心意気は大変結構なのだが、その結果、彼女は既に3度杉林駅で下車するミッションを失敗している。


 そうなると、少々出費が痛いものの、タクシーと言う手がある。

 日菜は杉林駅の隣、川の原駅から出て大通りへ。


「タクシー!! ヘイ、ヘーイ!! タクシー! ヘイヘイヘーイ!! ……うにゅ」


 勢いだけは内野ノックを受ける高校球児のようだが、タクシーはまったく止まらない。

 数が少ない訳ではない。

 実際に、日菜の前をタクシーはこの5分で8台通り過ぎていた。


「ヘイヘイヘイヘーイ!! むきぃぃぃっ!! ヘイヘイヘイヘイヘイヘイ!!!」


 アメリカドラマで指名手配犯を見つけた警察官みたいになってきた。

 それでもタクシーは止まらない。


 何故か。



 日菜の挙げている手が、小さく前ならえのそれだからである。



 奥ゆかしいにもほどがあった。

 これではタクシーを呼び止めようとしているのではなく、道路に少し身を乗り出した危ない女の子である。


 当然タクシーは事故を起こさないために、彼女をわざと避けていく。


「ヘイヘイ……。ふにゅ……。ヘイ……」


 それから15分格闘して、日菜はタクシーを諦めた。

 そこで気付く。


 出勤ラッシュが終わり、電車にゆとりが生まれている事実に。


「ふぎゃっ!? あと30分しかない! 急がなくちゃ! えっと、あれ!? スマホがない! あ、あった! あれ!? 今度は家の鍵が! あっ! すみません! よそ見していまして! って、電柱!! もぉー、なんなの!!」


 ただし、肝心の日菜にゆとりがなかった。



◆◇◆◇◆◇◆◇



「あっ! おはようございます、小岩井さん!」

「おはようございます。沖田くん」


 どうにか始業12分前に会社へと到着した日菜。

 いつの間にかキリッとしている。



 さっきまでタクシーに涙目で「ヘイヘイ」言っていたのに。



「心配しましたよ! 小岩井さんがなかなか来られないので! 何かあったんですか!?」

「……少し。電車でトラブルがありまして」


「やっぱり! 電車が遅れたんですか! 藤堂さんとも話してたんですよ! 許せませんね、鉄道会社!!」

「そ、そうですね。まったく、困ったものです」


 日菜は心の中で叫んだ。


(ごめんなさい! ごめんなさい!! 鉄道会社の社員の皆さん、ごめんなさい! わたし、いつもお世話になってます!! 濡れ衣を着せてごめんなさい!!)


 既に本日の装填ライフの9割を消費した日菜。

 そんな彼女の元へ、一生懸命な男がお茶をくんでやって来た。


「小岩井さん。これ、よろしかったら。俺が選んだお茶なのでお口に会うか分かりませんが。それから、最中も持って来たんです。朝から疲れたかと思いまして! 甘いもの、嫌いじゃありませんでしたよね?」


(神……!! 沖田先輩はもう先輩じゃなくて今は後輩だけど、そうでもなかった! 神っ!! この人は紛れもない神様だよぉ!!)


 日菜は「こほん」と小さく咳ばらいをしてお茶を啜り、最中を一口。


「……とても美味しいです。沖田くんはセンスがあると思います」

「本当ですか! いやぁ、嬉しいな! もっとお菓子とか持ってきますね! うち、和菓子屋なんで! お菓子は売るほどあるんです! あっはっは!!」


 沖田壮馬の一生懸命と小岩井日菜のコミュ症。

 それがマッチングすると、2人とも幸せになる。


 今日もお仕事、頑張りましょう。

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