第3話 会社から出た小岩井日菜は(誰の目から見ても)やっぱりコミュ症

 壮馬のデスクの電話が鳴った。


「は、はい。お電話ありがとうございます。山の森出版、杉林支店の沖田です」

『もしもし。私、春山書店の藤村と申します。藤堂さんはいらっしゃいますか?』


 杉林支店の従業員の顔と名前は既に暗記している壮馬。

 電話の取り次ぎ手順も予習済みである。


 が、藤堂真奈美が見当たらない。

 壮馬は落ち着いて、事実をありのまま電話口に向かって伝える。


「ええと、藤堂は今、席を外しておりまして」

『あれ? 11時にお電話を差し上げる予定になっていたはずですが?』


 沖田壮馬の脳内で様々な情報が駆け巡る。


 今の自分の言い方だと、真奈美が約束を忘れている事になるのではないか。

 だが、それを避けるために何と言えば良いのか。

 今、こうして考えている時間は一体何秒だ。

 電話の応対で沈黙は最も避けるべき愚策ではなかったか。


 すると、隣のデスクから白くて綺麗な手が伸びて来た。


「失礼しました。お電話代わりました。小岩井です。藤堂は5分ほどで戻りますので、すぐに折り返しお電話させて頂きます。申し訳ございません。はい、失礼します」


 小岩井日菜は真奈美がすぐに戻る事を告げて、短く謝罪をして電話を終える。

 このケースの対応は多くの正解が存在するが、これもまた正解の1つ。


 真奈美がトイレから戻って来たのを確認して、日菜は彼女に駆け寄る。


「藤堂先輩。冬山書店の藤村さんからお電話がありました。すぐに折り返すと言ってあります」

「いけない! 11時過ぎてたのね! ありがと、小岩井さん! 助かったわ!」


「いえ。お気になさらず」


 そう言うと、日菜は自分のデスクに戻りパソコンを開いた。

 壮馬は自分よりも年下なのに堂々として仕事をこなす日菜を目の当たりにして、尊敬の念を強めたと言う。


 その気持ちをどうしても伝えたくなった彼は、日菜に声をかける。


「小岩井さん、すみません。助かりました。すごいですね、咄嗟にあの対応! 俺、実家の和菓子屋で電話番もしてたのに、いざとなると全然で……」


 日菜はすました顔で首を横に振る。


「沖田くんは今のが初めての電話応対でしたから。上手くいかなくて当然です。しっかりと反省点を理解してくだされば結構です。次は上手くいきますから、自信を持ってください」


 壮馬の中の日菜のデキる女子像がまた1つステージアップした。


(すごいなぁ。小岩井さん、まだ高校生の頃の面影があるのに。中身は立派な社会人だ。俺も負けてられないぞ!!)


 一方で、日菜の心中はと言うと。


(あ、焦ったぁー! つい手を出しちゃったけど、沖田先輩、気を悪くしてないかな!? こいつ年下のくせにうぜーとか思ってない!? 思ってる!? どっち!? ああもう! この人昔からいつも笑顔だから、何考えてるか全然読めないんですけど!!)


 何やら心の中がとっ散らかっていた。


 それから2人は無難に業務をこなし、昼休みになった。

 日菜は近くのコンビニで昼ご飯を調達するのが基本。


 今日もそうするつもりである。


「小岩井さん。迷惑じゃなかったら、俺もお供して良いですか? 実はこの辺りの地理関係がまだ頭に入ってなくて……」

「はい。構いませんよ」


 これが実に悪手である事に、日菜はまだ気付いていない。



◆◇◆◇◆◇◆◇



 杉林支店はオフィス街にあり、昼時のコンビニは非常に込み合う。


「小岩井さんは普段、何を食べるんですか?」

「わたしは基本的におにぎりです。たまにはパンも食べますが」


 話をしていると、最寄りのコンビニに到着した。


「うわっ! すごい人ですね! いつもこうなんですか!?」

「そうですね。でも、ここで臆していては人気のおにぎりが売り切れてしまいます。行きましょう、沖田くん」


 そう言って、日菜は人混みに突撃して行った。


「あっ、ツナマヨ! むぎゃっ!? ああっ! 高菜! ふひゃあっ!? あーっ! おかかまで!! す、すみませぇん。通してください! あ、あれ? すみませーん。ふぎゃぁぁぁっ!!」


 日菜の存在感は、会社を出ると一気に低くなる。

 会社での状態を10とすると、現在は4ほどだろうか。



 人に認識されなくなる程度の段階である。



 彼女は高校時代、なるべく目立たないように過ごしていた。

 それは大学時代も変わっておらず、就職を機にキャリアウーマンのコスプレをする事で会社内のみの最強の装備を手に入れていた。


 逆に言えば、会社を一歩出るとその装備は使用不能になる。


「ふみゅ……。適当に手を伸ばしたら、全部梅だった……」


 ちなみに、日菜は梅が食べられない。

 酸っぱいからである。


 いかに大人っぽく振る舞っていても、舌はまだまだ未熟な日菜さん。

 しょんぼりしてコンビニから脱出して来た。


「小岩井さん! すごいですね、一番奥にあるおにぎりコーナーに突っ込んで行って! 俺は早々に諦めて、適当にパンを買ってきましたよ」

「そ、それは良かったです……。ま、まあ、沖田くんにあの戦場は、少し早いかもしれません。……ふにゅ」


 壮馬は思い出していた。

 「確か小岩井さんは梅干しが苦手だったのではなかったか」と。


 1度気になると気配りをしなければ気が済まない男、沖田壮馬。

 当然のように行動に移した。


「あの、小岩井さん。3つとも梅のおにぎりみたいですけど。もしよかったら、俺のメロンパンとチョココロネ。これと交換してもらえませんか? 適当に取ったのがこれで。男らしく、梅のおにぎり食べた方が会社の人のウケがいいかなって!」


 日菜の表情が目に見えて明るくなる。

 パァァァッと音が聞こえたような気もする。


「沖田くんがそこまで言うなら、交換してあげましょう。わたしは梅でも全然平気ですが、やはり沖田くんのイメージを優先するべきです。わたし、先輩ですから!」

「ありがとうございます! 助かりました!」


 それから会社に戻り、2人でお昼ご飯を済ませた。

 給湯室で日菜が湯呑を洗っていると、真奈美がやって来る。


「あら? 小岩井さん、何かいい事でもあった? 珍しくニコニコしてるじゃない!」

「ふひひっ、あ、いえ。特にこれと言ったことは。はい。普通です」


「そう? なら良いけど。お昼も食べたし、もうひと頑張りしようかしらね!」

「はい。そうですね。お昼からが本番です! ……ふふっ」


 その日は終業時間まで、日菜の表情がいつもの数倍柔らかかったと言う。

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