未成年、ジャズバーへ。

菜凪亥

未成年、ジャズバーへ。

 二〇二一年六月末日。私は初めてジャズバーを訪れた。一年ほど前に配信アプリで出会い、画面越しに応援していた推しの演奏ライブを聴くために。そのライブもこの日が初めてだった。学校が終わり、梅田行の高速バスに乗って現地まで急ぐ。場所はニューサントリーファイブ。大阪メトロ東梅田駅のすぐ近くにある飲み屋街にひっそりと建つビルの中にその店はある。

 しかし私は尋常じゃないくらい緊張していた。いつもならバスの中で死んだように眠るのだが、どうも強張って落ち着かず、しまいにはちゃんと辿り着くかさえ心配になり、何度も地図の確認をしていた。

バスが停留所に到着するとすたこらさっさと降車して現地に走った。時刻十七時四〇分。歩いて向かえば間違いなく間に合わない時間と距離だったので、グランフロント大阪を通り過ぎるまでは全速力で駆けて少しでも間に合うように努めた。だが、足元があまりにも悪かった。無意識で履いてきたローファーはヒールの部分が少し高くて走るには不向きだった。それでも私は走る。その時にはもう場所が分からないとか、知らない場所に踏み入れるのが怖いとかどうでもよくなっていた。

東梅田駅を通過する直前にはもう体力を使い切ってしまった。時計を見ると十分経過していてスタート時間まで余裕で間に合うことが判明し私は安堵した。私は一応店の名前を検索エンジンに打ち込んで現在地までの距離を確かめた。うん、合ってる。地上に出て飲み屋街がある方を向く。焼鳥の甘辛そうなたれの匂いが鼻を撫でた。その瞬間くぅ……と間抜けな音が腹から鳴ってしまい、とりあえず目的地に急いだ。

曾根崎センタービル。通路を通っていくとエレベーターにぶつかる。店は五階にある。ほかにもいろんな店が同じ屋根の下にあったが、それが何だったかはイマイチ覚えていない。エレベーターが私の為に降りてきてドアを開ける。ハコに入って階のボタンを押そうとした手がどうしてか震え、誤って四階のボタンを押してしまった。やっぱり緊張していたか。細胞が思い出したように汗を出す。やっとこさ五階に着きハコのドアが開くと、ギターとピアノの音が聴こえてきた。そしてガラス壁を挟んだ向こう側にいる綺麗なドレスを纏う美人な熟女が私に会釈をする。多分店員だろう、会釈を返して店の入り口に歩く。

「いらっしゃいませ。おひとりですか?」

「あ、あぁ……は、はい。一人です」

「どうぞ」

 店頭に立って迎えてくれたのは若々しい立ち居振る舞いの老人だった。きっちりとした白いワイシャツと黒いベスト、硬派な恰好をしていることは一目見て理解できた。その人は「おひとり様来店です!」と店員たちに告げると、さっき会釈してくれた美人熟女が案内してくれた。

「カウンターとテーブルどちらにしますか?」

「あ、えぇっと……カウンターで」

「かしこまりました。……こちらです。ごゆっくりどうぞ」

 慣れない雰囲気。『ザ・大人の嗜好』とも言えそうな現場にこんな大学生が居ていいのか? 完全に浮いている。オドオドと美人熟女についていくと、リハーサルの最終確認をしている推しと目が合った。配信では見たことがなかったスーツ姿。かっちりと固められた髪。そのような姿の彼を始めて、しかも生で見た私はもう緊張と焦りと引っ込み思案が同時に発動して「こんばんは」すら言えず、彼に会釈をした。

うわぁマジで何してるんだろう。馬鹿なんじゃねぇの? 頭の中で自分を貶しながら店員に手渡されたメニュー表を眺める。料理がちょっと高い。サラダが千円弱。ソフトドリンクや酒類も思っている値段に百円足さなきゃ値段だった。それもそのはず。テーブルチャージ料がめちゃくちゃ安い。千百円。それで二ステージ見れるのだから安すぎる。……緊張しすぎて注文すら出来ない。それに全部美味しそうだし、初めてだからよく分からない。手を震わせて悩んだ結果私はサラダと烏龍茶を注文した。若い女性店員から「お酒じゃなくてよかったんですか?」と問われた時、私はヒュッと鼻で息を吸った。

「じ、じじじ……実はまだ未成年なんです」

フッと両サイドに座っていたおじさん客が私の方を見た。やめろ、見るな、恥ずかしい。すると右に座っていた大柄なスーツ姿のおじさんがクスっと笑ってグラスの液体をカッと口の中に流し込んだ。意味は全く分からない。左側に座っていた二人の痩せ型の課長でもやっていそうな二人のおじさんは「若いっていいねぇ!」と笑いながら唐揚げにレモンをかけていた。どうやら歓迎はされたみたいだ。

 サラダを箸で掴んで口に運ぶ手も、烏龍茶の入ったグラスを掴む手もぐワングワン揺れて気持ち悪かった。さっきまで腹が減ったと主張していた私の胃が息をしていなかった。神経を集中させすぎてバグりだしただと……。自然とサラダをかき込んでいく手が止まった。それを諦めて、スマホに表示される時刻をちらっと覗いてみた。十八時十七分。もう間もなくといったところだった。席もそれなりに埋まり始め、お客さんたちは開始までそれぞれがそれぞれの時間を過ごしていた。スマホを見たり、つまみを食べたり、お客さん同士で喋ったり――。耳から入ってくる情報はいつもよりも鮮明にかつはっきりと聞こえてきて、まるで聖徳太子にでもなったのではないかと思う程だった。

 演奏スペースに演者が集まる。ピアニスト、ドラマー、ギタリストは各々のイスに座って準備を始める。ライブリーダーであり推しであるヴァイオリニストは位置について、譜面台に譜面データが入っているiPadを置く。弦楽器のチューニングが済むと、ヴァイオリニストがMC用のマイクを持つ。そのマイクがオンになった時のコツンという音で緊張のさなかに考えていたことが全部吹き飛んだ。

「本日はお越しいただきありがとうございます。時短要請などで短い間ではございますがよろしくお願いいたします」

 拍手が起きる。私も拍手をする。いよいよ、待ちに待ったライブが始まる。

 スタンダードジャズから始まり、ジプシーやスウィング、バラードも、いろんなジャズを堪能できる。それは配信アプリで見てた時と同じなのだが、画面越しのピーキーな音とは違って床をじりじりと震わせる低音、音源ではなく他の楽器とセッションしているからこその空気感と音量が身体に直接飛び込んできた。

知らない世界を知った時の衝撃を最後に味わったのはいつだったか。

でもこの場合、持っていたイメージを盛大に砕かれた衝撃と言った方がいい気がする。とにかく、初めて体感した本格的な生演奏のライブのすごさに身も心も圧倒された。白と黒の鍵盤の上でピアニストの指が緩急をつけて踊る。ドラマーは席の位置的にあまり見えなかったのだが、軽快なリズム感だったり、時々心臓にドキッと来るような強い音だったりを華麗に操っていた。ギタリストは見た目や振る舞いこそ落ち着いているのだが、ソロのターンが回ってきたときのアドリブが随分と光っていた。真上にある電気がいい具合に彼を照らすので余計に光が反射してまぶしかった。

 そして主役のヴァイオリニストはもうただただカッコイイの一言だ。あれが良いとかこれがダメとかそんな次元の話は無しにして、その時の私は心の奥底から人生で初めて見る生の推しと生の演奏ライブを楽しんでいた。一曲五分~七、八分の長さなのだが、時間なんて忘れるくらい曲のテンションに合わせて自分もどんどんアガッていった。

 音楽に夢中になってすっかりサラダと烏龍茶のことを忘れていた。ファーストステージが終わった十九時過ぎ、すでに満足の域に達していた。彼らの演奏を聴いている間、息をし忘れていたみたいで、カウンターに向き直して飲み物を飲んだ時にむせ込んだ。肺の酸素が無さ過ぎる状態でグビっといったせいで気管にそのまま行ってしまう。周りにめちゃくちゃ心配されてしまい、穴があったら入りたい気持ちになった。

 しばらく恥ずかしさに顔を赤くし絶望顔で沈んでいると、右の後ろ側に気配を感じた。振り返ると推しと一人の女性が立っていた。

「ど、どうも……。素敵な演奏でしたっ!」

「来てくれてありがとう。遠くなかった?」

「は、はい! その辺は大丈夫でした!」

 「!」をあえてつけているが、テンション的には三〇パーセントにも届いていない声色だ。カラ元気で会話をしているが、徐々にそれも解けていく。大人の社交場は初めてだし、無駄に身体が強張って仕方ないし、口も全然回ってくれないから会話がまぁまぁに続かなかった。そういえば高校で友達作るときも周りの様子見から入ってた気がする。受け身は良くないとあの時学んでいなかったというのか。

 判明した事実と言えば推しと身長が変わらないことだ。立って顔を合わせたときに「アッ! 一緒ぐらいだ!」と頭の中の私が一人で笑い転げていた。

 しばらく話していると推しは別のお客さんに呼ばれて離れて行ってしまった。残された私と女性で話を始めた。推しの配信を通じて知り合ったのだが、会うのはこの日が初めてだった。

「今日来るって知らなかったなぁ」

「へへっ、言わずに来ちゃった。初めて来たけど緊張してしまってダメだぁ……」

 目がバッテンになっている顔文字のような表情で女性にどうすればいいのかと聞く。しかし彼女は習うより慣れだとごもっともな意見を投げてきた。そうか、そうなのかと言葉を飲み込みながらまた席に着く。次はどんな曲が弾けるだろう。落ち着かせるためにツイッターを見て待っているとセカンドステージが始まった。

 セカンドステージは何となく演奏を録画してみたり、ちょっとずつではあったが、いつも家で配信を見ている時と同じような感覚で拍手をしたり、聴くことに専念したりと、ファーストとまた違う楽しみ方をしてみた。そうしてまた一時間があっという間に過ぎていった。途中、カクテルシェーカーがいい感じにアップテンポな曲のリズムとマッチしている時があって現場はみんな思わず「おぉ~」と声が漏れた。それに対して推しは「一人パーカッションが増えたのかと思った」とMCの時に拾い上げていた。

「本日はお越しいただきありがとうございました。またお会いしましょう」

 拍手喝采。本当に素晴らしいカルテットだった。本当に来てよかったなと思いながら、本当にすっかり忘れていたサラダを急いで上品に胃へとかき込んでいく。ドレッシングがいい感じに浸ってシナシナになった野菜はさほど噛まずして飲み込めた。次来るときはちゃんとご飯も味わって食べないと……。

 荷物を背負い伝票を持って会計に向かう。チャージとご飯代で三千円切った。安い。推しに会えてご飯食べれて演奏が聴けて――これは安い。そして私にはもう一つお金を出さなければならないイベントがあった。推しのCDやグッズを買って利益に貢献する。だが、他のお客さんが彼のところに居て喋りかけにくい。そこで登場するのがさっきの女性だ。常連の目利きを頼りにタイミングを掴む。

 そこでも発揮する引っ込み思案と自分を抑え込んでしまう癖。ゆっくりゆっくり喋ってようやく商品を手に入れられた。CDと可愛らしいステッカーだ。ステッカーは今すぐにでも貼りたかったけど、貼る場所がなくて諦めた。

「また来ます。絶対!」

「ありがとう。また来てね」

 彼に手を振って店を出る。店員さんにも手を振って建物のエレベーターに話していた女性と一緒に乗り込む。JRまで一緒らしかったのでちょうどよかった。歩きながら喋った内容はいたってシンプル。彼女はOLなので仕事のこと、私は学校の話をする。そうしていると御堂筋口側から駅の近くに近づいた。

「じゃあ私はこっちだから。またね」

「はい! またです!」

 JR大阪駅。午後九時頃ならもっと人がごった返してもいいはずなのに、がらんとして、土産物店もシャッターが降りていて、活気がどこかに消えてしまったらしい。煌々と光る屋内のLED電球が眩しくて思わず下を向いて歩く。六番乗り場、尼崎方面に向かう普通電車に乗ってゆるゆると帰っていく。

「また行きたいなぁ……」

 この日以降、行ける日のライブには足を運び、学校生活が急激に忙しくなるまでの九月半ばまでに四回、大好きな人の弾く私のお気に入りの音楽ジャンルを聴きに行った。

 まだお酒が飲めなくても楽しみ方はいろいろあるんだとその日、知ることが出来てよかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

未成年、ジャズバーへ。 菜凪亥 @nanai_meru16

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ