第20話 最大の誉め言葉

「は?」


 突然の告白に諒太郎はスプーンを落とした。それがドリアの器に当たり、カラカラコロと音が鳴る。


「なに驚いてんの? 勉強する意味が見つからなくなっただけよ」


「でもお前、あんなに頑張ってたじゃん」


「ウヨがいなくなったからよ」


 神薙は器に残ったドリアを、スプーンで一箇所に集め始める。


「私たちさ、三人でよく順位争ってたじゃん。いつも塾でトップスリーを独占してた」


「そんな時代もあったな」


「だけど、私とあんたの順位が変わることはあっても、絶対にウヨが一位だった」


 言い終えた後、神薙はそのまとまりをスプーンですくい、口に入れ、咀嚼し始める。


 彼女の言う通り、諒太郎と神薙とウヨは、中学時代、いつも塾のテストで勝負していた。


 一位になるのは決まってウヨ。


 諒太郎は、ウヨの方が努力もしていて才能も上だと思っていたから、その結果に納得していた。


「私は、それがずっと許せなかった」


 ドリアを飲み込んだ神薙は、水で喉を潤してから満を持してそう言った。


 だろうな、と諒太郎は思う。


 当時の神薙がウヨの才能に嫉妬していたことくらい、なんとなく察せる。それは逆恨みに分類される不純な嫉妬なのだが、どうしても敵わないやつがいるという残酷な現実は、そんな神童がそばにいることによって感じる自分への無力感は、諒太郎にとっても無縁とは言い難かった。


 天才だけど、決して奢らない。その上努力だって怠らないから、神薙は神童と呼ばれていたウヨを否定できなかった。むしろ、非難しようとする自分の方が悪いのだと、自己嫌悪に陥ってしまった。


「神薙とか泰道の方がすごい苗字っぽいのに、どうして近藤洋平っていう普通の名前のやつに負けるんだろうって、そういう難癖を思ったことがあるくらい、私はウヨが嫌いだった」


 神薙の視線が空の器の中に落ちる。


「私は神童って呼ばれているウヨのことが死ぬほど嫌いで、私より上の順位を取るウヨが死ぬほど嫌いで、私が精いっぱいやったって思った努力よりずっとずっと努力してたウヨが嫌いで、いつも私の前に立ちはだかるウヨが世界で一番大嫌いで」


 神薙は涙を必死で堪えているように見えた。


「本当に私はウヨのことを心の底から嫌ってて、私の願いや努力を簡単に打ち負かすウヨが嫌いでたまらなくて」


 たぶんここがファミレスじゃなかったら、神薙はその震えている拳で机を叩きつけていただろう。


 目の前のグラスを壁に投げつけていたかもしれない。


「でもそんな人が、あんな風にいきなりいなくなるのは、反則だと思わない? 違うじゃんか。ウヨはずっと、私たちの前に立ちはだかってなきゃだめなんだよ」


 そう。


 ウヨは【世界で一番大嫌い】という言葉が最大の褒め言葉になるような、凡人からの羨望も嫉妬も一手に引き受けなければいけないような、特別な存在だった。


「ねぇ、泰道くん」


 諒太郎は息をのむ。神薙が次に発する言葉は予測できていて、もうそれに対する弁明を頭が考え始めている。


「あなたはどうして、ウヨを受け入れなかったの?」


「それは……」


「あなたは私と違って嫌ってなんかなかったはず。あなたはウヨの親友だったはずでしょ?」


 諒太郎は思い出す。


 あの日、諒太郎はウヨと二人で格闘ゲームをしていた。



 ――なぁ、ウタ、俺さ。男が好きなんだよね。



 その瞬間、世界が真っ白になった。意味がわからなかった。怖くなった。



 ――え? 男が好きってウヨ、それマジ?



 諒太郎は言葉にできないなにかに怯えながら、痺れている指先で冷静にコントローラーを操作し続けていた。


 上腕二頭筋に、もに、もに、という感触がよみがえる。


 あの時、諒太郎はなんかねっとりしてて気持ち悪い触り方だなと思ってしまった。


 ウヨはあの時、どういう感情で男の象徴である盛り上がった上腕二頭筋を触っていたのだろう。



 ――おい、黙ってないでなんか言えよ。



 ウヨは一向に返事をしてくれない。


 それがどういうことを意味するのかわかっていたような気もするし、わからなかった気もするし、わかりたくなかっただけのような気もする。


 だから、諒太郎はこう言ってしまった。



 ――ははーん。もしかして俺をびっくりさせて操作ミスを誘う気だな。

 


 現実を、親友を、受け入れられなくて。



 ――負けそうだからって番外戦術しかけるとかセコすぎだろ。ってか冗談のレベル低っ。



 ――くそ、バレたか。



 ようやくウヨがけらけらと笑いはじめる。


 笑顔を浮かべているウヨの睫毛は小刻みに震えていた。



 ――これで動揺させてスマッシュ決めようと思ってたのになぁ。無理だったかぁ。



 ウヨは一世一代の覚悟を、冗談にしてくれた。


 諒太郎が認めなかったから。


 認められなかったから。


「ちょっと、なんとか言いなさいよ」


 苛立っている神薙の声で現在に戻ってくる。


 諒太郎は机の下で震えている右手を、同じく震えている左手で握りしめた。


「俺はさ、別に茶化したかったわけじゃない。ただ、怖かった。ウヨの気持ちを受け止めるのが怖かった」


 頭の後ろの方が痛む。


 もに、もに。


 あの触り方がすべてだった。


「わかったんだよ。あの時、ウヨの好きな男が俺だって」


「……へぇ。気づいて、たんだ」


「そりゃそうだろ。気づいたから、ウヨの覚悟が怖くなって、あんなことを言った。ウヨは困ったように笑ってた。『本気にするなよー』ってつけ加えた。それもうそだってわかったけど、どうしていいかわからないまま。その後だって、どうしようって思ってたら、いきなり死んじゃって。駅のホームに落ちたって……」


 自殺かどうか最後までわからなかったのが、救いでもあり罰でもあるのだと思う。


「ウヨに性癖を告白されて、俺はそれを目の前にして、受け入れられなかった。多様性多様性って、そういう時代だってわかってるのに、同性愛者なんてもうメジャーなのに、いろんな人が暴露してるのに、テレビで見たことあるのに俺は! そんな初歩の、親友の、心の在り方すら認められなくて、怖くて」


 口の中が酸っぱくなる。


 胃酸でも逆流しているのだろう。


「俺はウヨの親友じゃなかったんだよ。だから……だからって言うのもおこがましいけど、ウヨの本当の気持がわかりたくて、心理学をちょっと勉強したくらいで人の気持ちがわかるようになったぞって、自分を許そうとしてしまう」


 ウヨと肩を組んで笑い合っている写真が脳裏に浮かぶ。


「聖澤を助けてるのだって、あいつが、ウヨの好きだったキャラが好きで、ウヨと同じで本当の自分を出せないことに悩んでて、だからそれを助ければ俺自身があの日の罪から解放される気がして、全部自分のためなんだ」


 まだなにも知らなかったころの自分は、笑顔でウヨと肩を組むことができた。


「ウヨだって、神童とか男とか……俺と親友でしかいられないこととか、本当の自分をひた隠しにして苦しんでたはずだから」


 ウヨは俺と肩を組んでいた時、どんな気持ちで、どんな感情で、どんな精神状態で笑っていたのだろう。


「俺は、俺の前でウヨは、とんでもない勇気を出したんだ。でも俺は本当のウヨを否定したんだ。茶化したんだ。受け入れてやれなかったんだ」


 拳で太腿を殴りつける。


 その音はきっと神薙にも届いたと思う。


「あの日からずっと俺は謝りたいって思ってる。無責任だって、今さらだって言われても、それだけは本心なんだ。もちろんできないってことも知ってるけど、でも、やっぱり謝りたいって思う」


「もう、わかった」


 神薙の声は冷たい。


「うん。やっぱり私は自分勝手なあんたを許せない」


「許されるより全然いいさ」


「なにそれ。今さらのこのこ電話してきて、ほんとふざけんなって感じ。死にたくなるほど糾弾してやろうって気持ちを私が持ってること、忘れんなよ」


 そう言い終えた神薙は、鞄から財布を取り出した。


「それと、あんたにこれだけは言っておく。今日のリサは本当に楽しそうで、でもそれはリサ自身が自分で楽しいをつかみ取っただけ。だからリサのために行動するのが贖罪だなんて、ほんと自惚れんな」


「言われなくてもわかってるさ」


「わかってない。わかってないからあんたは」


 神薙はなにかを言いかけたが、その先が言葉として出てくることはなかった。小さなため息をついた後、哀れむような目で諒太郎を見つめ。


「今どんな行動をしたって過去は絶対に変えられない。なにをやっても贖罪になんかならないけど、リサの笑顔を作ろうと行動したあんた思いだけは本物だと私は思う。だから私は、またリサと遊ぶ」


「それは、お願いします」


「勘違いしないでよ。あんたに言われたからじゃなくて、私が自分の意思で遊ぶの」


 じゃあ、と神薙は千円札を置いて去っていった。


 諒太郎は、神薙の感情の残滓に押しつぶされて、しばらく動くことすらできなかった。

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