第4話 吉田泰明
土曜日の朝は、真っ青な空をベースにして膨れに膨れ上がった白い雲が幾多浮かんでいるような天気であった。暦の上ではそろそろ九月になりそうだという時期であるが、未だに太陽は地上を焦がすことに対して手を緩めてはいないらしい。朝らしからぬ熱い空気の中を、海斗が駆るシルビアは目的地に向かって進んでいた。カーステレオからは、『Running in the 90's』が重低音を伴い奏でられている。
やはり国産カスタムカーにはユーロビートこそ最もよく似合う―――海斗は常々思っていた。
アパートから出発し、国道を一本外れて並走するローカルな県道を突き進むと、高々と看板が掲げられた地方企業資本のパチンコ店が見えてくる。見ると、熱心なギャンブル愛好者たちの車がずらりと入り口付近に停車されているのが見えた。一方でだだっ広い駐車場の奥側はがらんとしていた。
その閑散とした一角に、見慣れた男と見慣れたトヨタ・86が佇んでいるのが見えた。
海斗はシルビアを減速させ、車道と歩道の継ぎ目に可能な限り浅い角度で進入して駐車場へノーズを滑り込ませる。
86の隣にシルビアを停車させ車から降りた海斗に、吉田泰明は口元を綻ばせながら右手を小さく上げた。
「よぉ、おはよう」
「よぉ、久々だな」
「今日は奥さんの方はいいのか?」
「まぁな。さっき病院に送ってった。その後病院の近くで友達とランチに行くんだってさ。連絡があったらまた迎えに行くつもりだが、それも多分午後だし」
「そうか。それじゃあ気兼ねなしだな」
昔と何一つ変わらない友人―――そんな表現がよく小説やテレビドラマなどで使われるが、泰明については全くそんな言い回しからかけ離れていると海斗は密かに思っていた。
十年ほど前は、髪は金髪、耳にはピアスを開け、整えられていない髭面で隙あらば煙草を吸っている男。これがかつての泰明という男のアウトラインであったが、それは完全に過去のものとなった。
86から現れた泰明は、髪は清潔感のある黒のツーブロックで、じゃらじゃらとした装飾品もしていない。それだけで随分健康的で清潔感があるのだが、子供や奥さんのためにすっぱり煙草を辞めたという事実もまた泰明の背後から爽やかさが立ち上っている一因なのかもしれない。
泰明は海斗のシルビアを眺めながら、うーんと唸った。
「そういや、シルビアの調子悪いんだってな」
「うーん、まぁね。ちょっと親っさんに見てもらうわ」
「それはいいや。俺のスープラの二の前にならんでくれよ」
「ははは、懐かしいな。あの時は大変だったな」
「まぁな。長年一緒に走った車の最期がまさかあんなことになるとはなぁ」
泰明は肩をすくめ、苦笑いした。
泰明が乗っていたスープラは、三年ほど前に天鳳山の途中でエンジンブローしてしまい、そのまま手放すこととなった。何でもクランクシャフトとコンロッドを繋ぐピンが折れ、コンロッドが中からシリンダーブロックを突き破るという、どこかの漫画のような壮絶な壊れっぷりだったとのことだ。
スープラを廃車にすると言った時の打ちひしがれた泰明の様子を、海斗は未だに覚えていた。きっと、泰明にとってスープラは単に車ではなく、夢や楽しさが詰まった存在だったんだろう。海斗には痛いほどそれが分かった。
「お前の86は調子どうだ?と言っても、買ってからまだそんな経ってないから変わらないか」
「まぁな。前のスープラほどパワーのある車じゃないが、良い車だ。気に入ってるよ」
「いいなぁ、俺のシルビアなんかいつ壊れてもおかしくないからさぁ」
シルビアよりもずっと年式の新しいスポーツクーペ―――それが海斗には光り輝いて見えた。ワックスの掛かった真紅のボディに、走り屋の定番・ボルクレーシングのTE37が映える。かつてのスープラのような戦闘力を周囲に誇示するような出で立ちではなく、自然と街に溶け込みつつも主張を弱めはしない、程よいカスタムが施してあった。何より、86は比較的最近の車だ。快適性や運転のしやすさについては、シルビアと比べるべくもない。
「俺も86にしよっかなぁ・・・」
なんの気無しに、海斗は呟いた。
別に深い意味は無かった。海斗はシルビアも好きだが86もかっこいいと思っていた。さほど本気ではないにしろ、中古車検索サイトで中古車の値段感を暇な時に眺めるくらいには興味があった。
しかし、泰明から返ってきた言葉は予想外なものだった。
「へぇ、お前86好きなのか?」
「そりゃあ、人気のある車だしな。ちょっと本気出して山道走るのにも丁度よさそうだしね」
「あぁー―――だったら譲る?」
泰明から返ってきた言葉は予想外なものだった。
もちろん、海斗も泰明も昔のように峠最速を目指して毎晩暴走行為を繰り返すようなことはしなくなった。だとしても、泰明がこういう国産スポーツカーが好きなことに変わりはないように思っていた。86という車種をスープラの次の車に選ぶという時点でそうだし、車への手の掛かりようを見てもそれは十分すぎるほど伝わってくる。
そんな泰明が86を譲る旨の発言をするなんて―――熱せられた空気が取り囲む中、海斗は一瞬思考が止まった。
「—――えっと、そいつはどういうことだよ?」
「いんや、そんなに乗りたいならどうかなと思ってさ」
泰明の口調は極めて抑揚のないものだった。これがオフィス内で繰り広げられる事務的な連絡だと言われても疑わないほどに。
最初に会った時と変わらなく、泰明は快活な笑顔のままだ。しかし、海斗は何となくこの朝の気だるい空気が少しだけ張り詰めたように感じたのだ。
「おい。まさか冗談だよな?」
海斗の問いかけに対し、泰明は腕を組んで一つ大きなため息を吐いた。目線の先には海斗ではなく、続々とパチンコ屋の駐車場に入ってくる車が映っているのだろう。
少しの間沈黙が差し挟まれた後、泰明は大袈裟な身振り手振りを伴って振り返った。その顔には悪戯っぽい笑顔が張り付いていた。
「えっへっへ、冗談だよ!そうに決まってるだろ!」
「え?」
「お前にゃシルビアっていう大事な相棒がいるじゃねぇか。浮気すると車だって拗ねるぜ」
「はぁ・・・何だよそりゃあ」
泰明は海斗の肩をどんどん叩いた。どうにも調子が狂ってしまう海斗だったが、泰明の言葉を聞いて何となくざわついた心が一つ落ち着いたような気がした。
「さ、早いとこ行こうぜ。何だかんだで道中混むからな」
泰明は颯爽と86に乗り込む。その雰囲気は、一見してこの朝の雰囲気に似つかわしいもののように思える。
しかし、海斗はどうしても気になってしまった。
泰明の瞳に一瞬、寂しさが宿っているように見えたのが。
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