第3話 幸福と不安と

 海斗が住まうアパートは、会社から車で十分ほどのところに位置していた。

 駅からやや遠い、スーパーが近くに無いなどの短所はあるものの、比較的築浅で小綺麗だったので、海斗はさほど不満を感じてはいなかった。

 駐車スペースにシルビアを停車させ、エンジンを切る。本当はターボタイマーを使用して過給器系統を冷却する必要がある。が、それこそ迷惑千万この上なしなので、最近はとんとやっていない。こういうところも随分とずぼらになったなぁ―――また一つ、海斗はため息を吐いた。

 車から降り、海斗はアパートの階段を一段一段登る。灯りは全てLEDだが、隅々までの暗がりを取り払うことはできず、階段スペース全体を仄かな不気味さが覆っている。コンクリートの地面とスニーカーの底がぶつかるたび、反響によってくぐもった音に変換され海斗の耳を打つ。途中のドアからは、バラエティ番組や子供の声が聞こえてきた。ドアの向こうにはそれぞれの夕べがあって、それぞれの時間を過ごしているのだろう。

 ドアの前に立ち、ポケットから鍵を出して開錠し、中に入る。

 部屋の奥からは先程も聞いたテレビの音声、最高回転数で回る換気扇、そして何かを料理しているのであろう油の爆ぜる音がする。


「ただいま」

「あ、おかえり」


 海斗がぼそぼそと帰宅を告げると、奥から声が帰ってきた。

 その方へ進むと、壁付けのキッチンで料理をする松本翠がいた。彼女お気に入りのバンドロゴが入ったTシャツとスキニーパンツの上からエプロンを身に着けている。肩越しに恋人を見る翠の顔は、いつも通り海斗には眩しい。


「今日は少し遅かったんだね」

「うん、また例の工場長から吠えられてさ」

「あはは、そりゃあ災難だったね。だけど、それは解決してきたんでしょ?」

「まぁ、一応はね」

「ほんじゃあ、今夜は気兼ねなしだね。もうちょっとでできるから」


 けらけらとひとしきり笑うと、翠はまたキッチンの方に向き直った。

 このところ海斗は愚痴が多い。それは自分でも自覚していた。

 しかし、そのような毒にしかならない不平不満に、翠は返答しながらも軽く受け流した。興味関心が無い素振りでもなく、かといって必要以上に深く干渉してこないという彼女のスタンスが、海斗にとっては心地よかった。

 海斗は床にトートバッグを置き、また翠を見た。肉肉しい香りと翠の背中に海斗は誘われる。

 自分でも分かるような呆け顔をぶら下げて、海斗は翠の後ろからお腹辺りに腕を回し、海斗よりも小柄な彼女を抱きしめる。それを受けて、翠は小さく「ちょっと」と呟く。その声は小さく弾んでいる。


「やめてって。今料理してるから」

「えーいいじゃん」


 翠が強く抵抗してこないのをいいことに、海斗は翠の背中に顔をひっつける。前方から立ち上る馥郁のある匂いもさることながら、いつも二人が使っている柔軟剤、そして翠が付けている香水の柔らかい香りが、むさくるしい世界から帰還したての海斗の心を優しく撫でる。


「ねぇ、今日は何の料理?」

「ハンバーグ。食べたいって言ってたでしょ?」

「覚えててくれたんだ。ありがとう。それじゃあ、俺は酒の準備でもしとくよ」


 服の上から今一度翠の体の触感を確かめる。名残惜しくあったが、どうせ夜はまだまだ長いわけだし、今はこれくらいでいいか―――海斗は翠の体を離れ、脇にある冷蔵庫を開ける。

 ビールとハイボールの缶が数本、ドア部分のポケットにはワインと日本酒の瓶が光る。とりあえず海斗はビールとハイボールを適当に見繕い、それを胸の前で抱えてリビングへと向かった。

 

 松本翠は、海斗の恋人である。

 車一本槍だった海斗はほとんど女性との接点がなかった。しかし、石岡に誘われて参加した合コンで翠と出会った。海斗よりも年齢が二つ下で、偶然にも同じ高校の出身だという話から意気投合し、交際、同棲ととんとん拍子に進んでいった。

 一緒に生活を営むにあたり、もちろん翠との間で意識の相違―――例えば、トイレットペーパーはダブルでないといけない、食器を洗ったら自然乾燥ではなくきちんと布巾で水気を取ってほしい等―――はあった。だが、海斗にとって翠との生活は居心地が良く、何より楽しかった。ゆくゆくは結婚を・・・海斗の中には秘めたる願望があった。


 八畳ほどのリビングで、二人は料理を食べながらお酒を飲んだ。卓上には先程翠が調理していたハンバーグのほかに、おつまみのチーズ鱈や柿の種などが皿に盛られていた。海斗も翠も酒は嫌いでなかったので、夜が更けていくにつれてどんどん空缶が積み増されていった。加速度的に上昇してく酔いと楽しさに任せて、テレビのバラエティ番組にツッコミを入れたり笑い合ったりした。

 海斗はロータイプのソファに深く腰掛け、隣に座る翠の肩やわき腹に手を回す。翠も海斗の体に自分の身を預け、時折うっとりとした目で海斗を見て微笑を投げかけたりしている。


「あっ、そういえばさ」


 番組がCMに入った時、脇にいる翠が口火を切った。彼女の大きな瞳が、肩越しに海斗の顔へと向けられる。


「海斗さぁ、亜紀子のこと覚えてる?」

「え?あぁ、確か前にうちに遊びに来たお友達だよね?東京で働いてるんだっけ?」

「そうそう、その子!」


 翠は人差し指を上下させ声を弾ませた。

 翠は交友関係が広い。大学時代の友人はもとより、小中高時代の友人ですら未だに十人程度は平均的に交友を維持している。それだけに海斗はそれを覚えるのが難しかったが、亜紀子のことは覚えていた。モデルのように顔がかわいいこと、それと翠に比べて随分小柄だったことを覚えている。


「その子がどうかしたの?」

「今度結婚するんだって!しかも相手は丸蒼商事の商社マンだってさ」


 結婚―――その二文字は少なからず海斗に動揺を与えた。

 少しの間返す言葉を求めて逡巡した。その揺れ動く心を、空いている方の手に持っていたハイボール缶をテーブルに置くことで鎮める。


「・・・へえ、そりゃあめでたいね。しかも丸蒼商事なんて日本でもトップレベルの商社じゃん」

「うん、あの子は昔から甲斐甲斐しく世話を焼くタイプだから、きっといい夫婦になれるよ」

 

 翠は何度か頷きながらチューハイを一口含む。


「相手が高給取りなら、結婚式も豪勢なんだろうね」

「うん、そうらしいよ。ウェディングフォトは東京駅の前で撮影して、挙式は沖縄でやるんだって」

「そうかそうか、いやぁ流石だね」

「うん!私も挙式に呼んでくれるって!楽しみだなぁ。チャペルは那覇市から車で一時間くらいの恩納村ってとこで―――」


 海斗の腕の中にいる翠は、楽し気に亜紀子の結婚について話続けていた。亜紀子は昔から性格が良かったことや、新しいドレスを買いに行きたいことなど、それこそマシンガンの如く亜紀子についての話をし続ける。

 それに対して、海斗は飲みかけのハイボールを食道へ流しつつ、相槌を打った。

 平常を装いつつも、海斗の心は言い知れぬ不安や焦りに侵されつつあった。

 

 海斗ももう三十一歳だ。

 翠のような自分と生活を共にしてくれる女性とも出会い、同棲も上手くいっている。海斗は翠が好きだった。だから、そろそろ翠と結婚して身を固めたいとは考えていた。

 しかし、海斗の前には大きな問題が横たわっている。

 それは色々とあるが、煎じ詰めれば金が無いというところに帰結する。

 いざ結婚となれば婚約指輪、結婚指輪、結婚式、新婚旅行、妊娠、出産、子育て―――未だ独身の海斗が軽く思考しただけでも、まとまった金が必要な場面は多々あった。もちろん翠からも多少は出してもらえるかもしれないが、やはり男である海斗が稼ぎを得て充当するというのが基本形だろう。それだけの出費を海斗の預金口座が耐えうるかと言われれば間違いなくノーである。それを考えると海斗は軽い頭痛を催す。

 とはいえ、決して海斗は金遣いが荒いタイプではなかった。

 三十代前半の平均的な収入を得て、外食はあまりせず、ほとんどの服飾はファストファッション店で調達している。そして、幸か不幸か海斗には車以外の趣味がほとんどなかった。強いて言えば動画を見たりスマホゲームに興じるくらいなものだが、そのどれもがほとんど無料でできるものだ。

 そう考えると、俺から金を奪い取っているのは―――触れたくない真実の中へ、渦に巻かれて落ちていく。答えは決まり切っているのだが、一方でそれを断定させたくない自分もまた併存していた。


「ねぇ海斗?聞いてる?」

 

 悪い思考に飲み込まれていた海斗は、脇にいる翠の声で現実へと揺り戻される。海斗の視界には、不満そう口を尖らせた翠の顔が映る。


「あぁ、すまんすまん。ちょっと考え事しててさ。で、何だっけ?」

「やっぱり聞いてなかったんだ」

 翠は不機嫌そうにぼそっと呟いてから続けた。


「明日のことだけどさ、友達の泰明君に会ってくるんでしょ?」

「あぁそうだよ」

「確か、もうすぐ赤ちゃんが生まれるんだよね?」

「うん。十月末頃が予定日だってさ」


 翠の問いに答えた海斗だったが、同時に感慨深い気持ちが沸き上がってきた。かつて目を三角にして公道最速を目指していた泰明がパパになる。それを思うと、友人として目頭が熱くなる。


「へぇ、そうなんだ。泰明君も大変だろうし、明日はリフレッシュしてきなよ」

「ありがとう。うん、ちょっと最近は忙しかったから楽しんでくるよ」


 明日は休み。そして旧友とも久々に会う。

 大したイベントではないが、海斗は自分でも気分が高揚しているのが分かった。 

 

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