第2話 海斗とシルビア

 海斗が出退勤カードを機械に通して社員用通用口から外へ出ると、辺りはすっかり夜闇に包まれていた。八月ももう後半だというのに、夜になっても一向に涼しくなる気配がない。湿気と熱気を孕んだ空気が重くのしかかっている。

 昼間のすったもんだが終わり、遅れた業務を処理した。そのせいで、海斗はしっかりと残業をする羽目になった。そろそろ月の残業時間の枠がギリギリになりそうなのでどうにか早めに帰らねばとは思っていたが、海斗が思うように目の前の仕事は上手く回ってはくれない。その腹立たしい現実をして、海斗の口から深い嘆息を吐出せしめるのである。

 肩にトートバックを引っ掛けて、社員駐車場へとぼとぼと歩く。会社内を拭き晒す無駄の排除を是とする気風のせいで、再三の要望にも関わらず駐車場にはぽつぽつとしか灯りが無い。しかし、その判然としない視界で海斗がパッと見ただけでも社内に残っている社員がほとんどいないことは明らかだ。当然のように、石岡が乗っている大型SUVも姿を消していた。大方、帰りにアウトドアショップに立ち寄り、ノースフェースやパタゴニアの新作パーカーでも物色してるのだろう―――海斗は適当にあたりを付けた。

 駐車場を斜めに横切るようにして、海斗は自車であるシルビアの元へと近づく。歩きしな、キーレスの解錠ボタンを押すと、LED化したウィンカーがキレのある明滅をして見せた。

 その車は、十年前から生活を共にしてきた海斗の相棒であった。この車を駆り地元では有名な走りスポットである天鳳山にも繰り出したし、時には仲間たちと連れ立ってサーキットに遠征などもした。海斗にとって、このシルビアと仲間たちとの思い出は美しく輝く宝玉そのものだ。

 海斗は運転席に乗り込むと、助手席にトートバッグを放り投げ、キーを差してエンジンを始動させる。それを受けて、往時と変わらぬ大音響でシルビアは鼓動する。

 それは海斗を満足させたが―――最近気がかりな事がある。

 どうにも、アイドリングが安定しない。

 少し前からこの症状が出ていたので、頭の隅にはいつか馴染みのショップに行って見てもらおう、と海斗は常々考えていた。そして、どうにかこうにか明日、時間を取って見てもらえる手筈は整えてある。

 しかし、昔はこんなにほったらかしにすることなんてなかったんだがなぁ―――昔の自分と今の自分の車への対応の差に、海斗は改めて苦笑を漏らすよりほかなかった。

 あの頃とは何もかもが変わってしまった。

 日光で色が抜けかけたチューニングメーカーのステッカーや、角が擦れたブライド製のセミバケットシートを見ると、海斗は自分の変化を痛切に感じずにはいられない。


 とはいえ、海斗はシルビアが嫌いになったわけではなかった。このシルビアは未だに海斗の誇りだった。思いもお金もありったけ注ぎ込んだ。分身だとさえ言ってもいい。そしてその気持ちだけはまだまだ強く持ち続けていた。だからこそ、未だにネットショッピングアプリでカスタムパーツを検索したり、コンビニで専門誌を見るとついつい立ち読みなどをしたりするのだ。いつかはまたサーキットや峠で走りたいという若い頃の熱い思いはかき消えることはない。仕事や生活が覆いかぶさっていくずっと奥の方で仄かに小さく燃えているのだ。

 だが、一方で海斗は強く悩んでいた。

 その強い気持ちは、単なる気持ちでしかない。海斗の内側で巻き起こっている事象でしかないのだ。それを行動に移行することが最近はなかなかできずにいるし、出来たとしてもその速度は限りなく緩慢だ。


 まずは第一にお金の側面だ。税金やガソリン代などの必要経費に加え、カスタムするとなればさらに金がかかる。ことあるごとに何人、何十人の福沢諭吉を吹き飛んでいく。それに加え、シルビアももはや古い車という括りに入りつつある車だ。維持するのは経済的に年々きつくなるばかりだ。

 それに加え、海斗の歳のせいもあるだろう。海斗はもう三十一歳だ。友人や同期には結婚して子供がいる者も珍しくはない。また社会的な責任感というものも増えてくる。別にそれでもスポーツカーを持つことはできるだろうが、そういった所帯染みた生活スタイルと走り屋の生き方というのは相容れないものであることは間違いない。向いていないものをどうにか普通と規定された生活に落とし込むほどのエネルギーは、今の海斗には無い。自分の中に内包された活力は、日々の生活でじりじりと擦り切れていくばかりだ。

 どうしたもんか―――海斗は考えを巡らしてはいたものの、今はそれに回答を導き出す時ではない。空腹と疲労でくたくただった。さっさと家に帰った方が良いのは明白だった。


 シルビアを発進させようとシフトノブに手を掛けた時、スマホホルダーに置いた携帯電話が震え、スリープしていた画面が光り輝いた。この独特な周期の振動はLINEの通知だ。

 見ると、テキストメッセージの通知が一件。相手はかつてつるんで走っていた吉田泰明からであった。


『明日だけど、近くのパチンコ屋駐車場に9時集合してから向かう感じでいい?』


 なんだ予定の確認か―――短いテキストメッセージに対し海斗も短く返事を打つ。


『おつかれ。それでいいよ』

『わかった。じゃあそれで。嫁を送ってから行くよ。遅れたらすまん』


 メッセージの後、泰明はふざけたキャラクターのスタンプを送ってきた。それを見てくすりと笑った海斗は、OKの意思を示すスタンプを返信した。

 明日は久々に泰明と会うことになっていた。

 たまたま、シルビアの調子が悪いのでいつもの店に行くという話をしたところ、泰明もちょうど同じ日に店に行く用事があり、折角なら久々に二人で顔出すか、というのがおおよその経緯である。

 海斗と泰明は中学の頃からの友人で、若い頃は毎日のように会っては馬鹿な事ばかりしていた。しかし、お互いに就職し、それぞれの生活に忙しくなり遊ぶ頻度は下がっていた。

 昔は友人とはいえ鼻持ちならぬ泰明に対して嫌気が射すこともあった。しかし、今や海斗にとっては気兼ねなく接することができる唯一に近い友人であった。何より、次々と走り屋を辞めていく中、泰明は未だに走りへの興味関心が薄れていないようだった。もちろん、お互いに歳ゆえに後先考えずに峠を突っ走るような真似はしなくなった。だが、そんなことは関係なかった。この年になっても車つながりで付き合える仲間が、海斗は何より嬉しかった。


「明日はちょっとばかし羽を伸ばすとするか・・・」


 海斗の気分はやや上向いた。

 帰路を急ぐため、海斗はギアを一速に入れて、幾度かエンジンを吹かしてからシルビアを発進させた。

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