第1話 普通な生活

 F県南部の主要都市K市は、明治以降に開拓された新しい街である。

 駅の西側は大きなビルや大型家電量販店が立ち並ぶ地方都市然とした街並みが広がっている。一方で東側はガラリとその雰囲気を違え、大規模な工場や配達拠点が整然と並ぶような工業地帯となっている。

 その一角に、極東電気工業・第一工場がある。

 豆腐のような真っ白な建物の内部は、その大部分が主要製品製造スペースにあてがわれている。しかし、その建物の隅に事務所兼外部訪問者用窓口もまた存在している。


 無味乾燥とした事務所の中では、社員たちが打ち合わせする声や電話の呼び出し音、キーボードを打鍵する音などが折り重なっている。ここまで多種多様な音がそこかしこで鳴っていれば少しは賑やかになりそうなものだが、それらはこの場所のつまらなさをより一層凝縮させるだけであった。

 その事務所の端から二列目の入り口から三つ目の席。その席では、一人の社員が机の上に仕様書を広げながら電話で話をしていた。


「お電話変わりました、調達課の川島です。はい・・・はい・・・あぁ、RE07型のインテークの試作修正部品ですか?大丈夫です、もう外注さんに発注かけてますから・・・え?既存のボディに付くかってことですか?問題ないと思いますよ。設計の話じゃあ、今回は生産中止品のオイルシールを代替品に変えて前々から問題になってた幾何公差変えただけらしいっすから、取付的には何ら変更ありませんよ」


 川島海斗は相手方からの問い合わせに対し、短くも的確な答えをテンポよく返答していく。

 海斗は極東電気工業調達課の一員として日々業務に励んでいた。極東電気工業は社員の人数で言えば中小企業と呼んで差し支えないが、国内の工業用オイルポンプ製造・販売のシェアで言えば常に上位にいる企業である。ラインナップしているポンプは多種多様であるが、REシリーズは特に主力商品として売り出している。

 それだけに、生産ライン側からの圧も強い。


「納期ですか、大体二週間くらいかと―――来週の生産レビューに使うんですか?いやぁ、とてもじゃないが無理ですね。今外注さんも仕事詰まってるんですよ」


 海斗は卓上カレンダーに目を落とし、それを指でなぞる。日割りカレンダーには部内での会議や付き合いのあるメーカーとの打ち合わせの予定がびっしりと詰まっている。日付が印字された数センチ四方のマスをいくら見たところで、来週には到底間に合いそうもないことは火を見るよりも明らかだ。

 しかし、相手方もなかなか折れようとはしない。受話器からは相手からのぶっきらぼうな言葉が響いてくる。

 間に合わねぇもんは間に合わねぇんだよ―――内に燃えだした苛立ちの炎は声音に出さぬよう注意する。しかし、その熱い感情は無意識のうちに手に持っているボールペンを机にカツカツと断続的に刺突させる。


「しかしねぇ、こっちにはこっちの事情があることをご理解いただきたいところですね・・・まぁ、取り合えず話すだけは話してみますけど、あんまり期待はしないでくださいよ、こっちもてんやわんやなんすから。はい・・・はい・・・じゃあ、また何かあったらご連絡します。失礼します」


 自らの要望が不如意に終わったためか、相手の電話はぶつりと乱暴に切られた。

 海斗もまた苛立ちを覚え、固定電話の受話器を本体へ投げ捨てるように戻し、深い嘆息を吐く。体全体を疲労感が襲う。思わず、海斗は手のひらを顔に押しやってごしごしと擦る。この動作をしたところでヤバい状態は何も解決しないが、やるせない気持ちを何かの動きに変換しないとどうにもやっていられない心地であった。


「よぉ川島。また生産の浜井課長に無茶ぶりされてたのかよ」


 椅子をくるりと九十度回転させて海斗に声を掛けたのは、隣席で同じ部署の石岡だった。

 海斗と石岡は同期であり、彼もまた海斗と同じ調達課に属している。比較的親交も深いと言えるが、仕事に向き合う姿勢はまるっきり海斗とは別であった。海斗は全ての仕事に全力で当たる。一方、海斗がひぃひぃ言っている横で、石岡はどっぷりと椅子に腰かけ、優雅にブラックコーヒーを啜っているのだ。

 そして今もまた、石岡はスターバックスのロゴが入ったマグカップ越しに海斗が苦しむ姿を楽しそうに覗き込んでいる。

 何とも悪趣味な男だ―――海斗は常々思っていた。


「ご名答。例の試作部品の納期をもっと短くできんのか、とお小言が入ったところだよ」

「へぇ、そいつは、またまた無茶を言いなさる」


 石岡は嘲笑混じりに反応を返して見せ、小さく息の塊を吐いた。煙草とコーヒーの香りが入り混じった空気が決して遠いとは言えない二人の間に充満した。


「設計から図面が上がってきたのは一昨日かそこいらの話だろ?そこから一週間ちょいで物を作れというのは横暴だよ」


 語尾に仄かな荒々しさを含有させ、石岡の言葉は海斗の耳に入り込んだ。

 石岡の言う事はその通りだった。

 海斗がやることは必要な部品を加工業者や別のメーカーへ依頼すること。だが、必要な部品が分からない以上動けない。その必要な部品を指示するのは本社にいる設計担当者なのだが、場所が離れているせいかどうにもレスポンスが良くない。

 そのせいで、海斗たち調達課の部品発注が遅れ、下流の部署にぎゃんぎゃん吠えられる材料をまんまと与えてしまっている。本来であれば悪いのは納期が遅れがちな設計部のはずなのだが、この類の不平不満はどうしても言いやすくて目に見えるところへ集まってしまう。

 石岡は呆れたように小さく笑う。


「そんな無茶ぶりを、お前が対応することないだろ。俺だったら、無理なもんは無理だと早々にシャッポを脱ぐけどなぁ」

「そうも言ってらんないよ。REはうちの看板商品だからな。熱が入るのは仕方ないことさ」


 隣のアンニュイな男の言う事はごもっとも。とはいえ、それをそのまま受け入れていては何も始まらない―――何を言われても、海斗は最善を尽くすつもりでいた。

 机の上の図面を片付け、キーボードとマウスを自分の方に引き寄せる。スリープ状態にしていた画面をアクティブにして、海斗は再びパソコンをカタカタ打ち始めた。 

 海斗にはやることがいくつかあった。発注先への納期短縮の相談(もちろん、下請法に注意しながら)、設計担当者へより納期が短くなりそうな部材へ変更可能かを聞き、情報を取りまとめてひとまず上長へ報告―――それを一つずつ、一つずつ解決していかなくてはならない。


「相変わらず仕事大好き人間だよなぁ。ちったぁ肩の力抜いとけよ。どんなに浜井課長がお怒りになったとて、突如として納期が縮まる神の一手が生まれるなんてことはあるまいて」


 あたふたと動く海斗を横目に、石岡はゆったりとした手つきで再びコーヒーカップを手に取り、自分の口元へと寄せていく。中のコーヒーが石岡の食道を通り過ぎるたび、ゴクリと大きく喉が音を立てる。


「別に仕事は好きじゃないよ。ただ、少しでも不手際があって、それを他の奴らに揚げ足取りされるのが気に入らないだけだ」

「そういうとこだよ。お前は何でもかんでもマジ過ぎんだよ」

「あぁ、まぁ、どうだろうね・・・」


 どうにも手応えがなくなってきたことが面白くないのか、相変わらず微小な笑いを浮かべた石岡が椅子のキャスターを利用してぐっと海斗に近づき、真剣な横顔を覗き込む。


「気付いてないかもしれないけどさ、ここ最近お前目が死んでるぞ?」


 目が死んでる―――その指摘に、海斗の手は一時停止した。

 このところ、仕事が忙しい。他にも色々と理由はあるが、海斗には余裕が無かった。会社に入りたての頃は、仕事をしてから峠に集まりシルビアをかっ飛ばすなんてこともしていた。しかし、今やその体力も気力も無かった。

 しかし、そんな変遷を認めたくない自分もいた。


「うーん、そうかな?そういうつもりは無いけどね」


 目線は逸らさず、軽い感じを装って海斗は言った。石岡の方は一瞥もくれてやらなかった。


「たまには有給でも取ったらどうだ?そうだ、温泉にでも行ってこいよ」

「そんな暇はねぇ。RE07のマイチェンが迫ってるこの時期に抜けられねぇよ」

「それもさ、息抜きしとかないとパフォーマンス下がるぞ?どっかに行って溜まってるもん出しとけよ。いろんな意味でな」


 石岡は海斗の肩を二度三度と叩いた。


「お前なぁ・・・」


 下卑た笑いを数秒間海斗に向けた後、石岡はスリープ状態で真っ暗になっていたPCの画面を立ち上げる。そこには、石岡の趣味である海釣りで使うのであろうロッドのレビュー記事が映し出されていた。

 

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