第7話 生活と車
結局、泰明はあの場で次の車を決めた。
海斗が横から資料を覗き込んだところ、どうやら車種は一つ前の型のトヨタ・ヴォクシーらしいということがわかった。趣味性や走行性能に関しては86と比べるべくもないが、これから幸福な家庭を作っていく泰明にはうってつけな車であることには間違いない。
泰明については良かった良かった―――一方で、シルビアの今後のことについて、海斗の中では一切の暗雲が取り払われずにいた。
夜になってもその暗澹とした気分は晴れず、部屋の天井に浮かぶニ燭光が放つ小さな光をまんじりともせず眺めながら、頭の痛い問題について思考を周回させていた。さながら、海斗には頭上に張り付くシーリングライトの円環が曼荼羅の絵図のようにさえ見えてくる。
ふと、海斗は横側に視線を飛ばす。
そこには、同じベッドの上で寝息を立てる翠がいた。今夜は今夜でたらふく酒を飲み、ほろ酔い気分のままダブルベッドへとなだれ込んだ。
翠の体はブランケットに包まっていたはずなのだが、暑さのせいか無意識に取り払ってしまったらしい。ショートパンツからは真っ白で細い太ももの大部分が露わになり、家着用のTシャツの首元がはだけて谷間が見えている。
俺はこの寝顔をずっと見ていたい―――海斗は強くそう思った。
だけど、それを成し遂げようとした場合、避けては通れない問題がある。
シルビアをどうするべきか―――その海斗にとって近年では最も大きな頭痛のタネについてだ。
それは海斗の中では巨大で難しい問題だった。それゆえに忙しさなどを口実に見て見ぬふりをしていた。だが、どこかでは直視しなくてはならない問題だった。何故ならば、紛うことなく海斗の預金残高から潤いを奪い砂漠のような渇きを与え続けているのはシルビアに間違いないから。
海斗がシルビアを手に入れてから今まで随分と長い時間が経過した。好きで乗り続けたいという気持ちがあっても、維持管理を続けていく上でどうしても金銭的負担は増え続ける。そして、その結果得られるのは一般使用ではまず意味が無い圧倒的スポーツ性能だ。それが翠と歩む蜜月の日々に必要かと言われれば、答えるまでもなく不必要な代物であることに間違いない。
シルビアは好きだ。だが、どこかで何らかの厳しい処断を行う必要がある。
やはり、俺も泰明のように変わらなくてはならないのだろうか―――海斗は暗闇の中でまんじりともせず考えていた。しかし、いくら時間をかけて思考を巡らせたところで海斗の上にのしかかるモヤモヤとした黒雲のような気持ちは晴れることはなかった。
次の週末、海斗は単身ファストスタイルへの道をひた走っていた。硬く固められたダンパーからは、相変わらず尾てい骨を打つような鋭い振動が伝わってくる。電子音が盛りに盛られたユーロビートが狭い車内を刻むのもまったく一緒だ。ただし、今回は泰明の車は前にも後ろにもいないという点は異なっていた。今日これから起こることを考えるにつけ、海斗としてはできれば泰明にも同道願いたかった。だが、ちょうど奥さんと産婦人科に検診に行くらしく、付いていくことはできないという返信があった。
海斗がファストスタイルへ向かう理由は他でもない、シルビアについてだ。
数日前の昼休み中に、親っさんからシルビアのオーバーホール費用が確定したとの連絡が入った。今日はその見積もりを受け取りに行くのだった。
見積もりについては自分で頼んだことだったが、道中海斗の心臓は終始早い調子で打ち鳴らされていた。
シルビアの老朽化とこれからどうしていくべきか―――絶対的ではないにしろ大きな判断材料となり得る事実が今日明らかになる。それを考えると、海斗の中で一抹の不安が生まれるのは無理からぬ話であった。いっそのことファストスタイルへの来店が何かの拍子に無くなりはしないだろうか、という安易で愚かな考えすらちらちらと海斗の脳裏を掠めさえしている。
しかしながら、シルビアは何の問題も無く道を突き進み、ファストスタイルの店の前までやってきてしまった。海斗は一つ溜息を吐き、店の方向へウィンカーを点灯させる。
先週と同じように、県道と歩道の間の決して低くはない段差を恐る恐る越える。
決して広くはない駐車場だし、車で埋まってやいないだろうか―――目線を駐車場に移した時、海斗は気付いた。
ファストスタイルの駐車場には、もちろんいつも通りショップに点検に来ている国産スポーツカーや業者の営業車と思しき商用車が数台停車していた。しかしながら、圧倒的な存在感を放つ車が1台、入口から最も近い場所に佇んでいた。
車種はBMW・M2なのだが、その様相は標準仕様とは大きく異なっていた。前後左右は空力性能が高そうなド派手なエアロで武装され、リベット留めされたオーバーフェンダーの下には極太のラジアルタイヤが収まっている。そして、ボディには所狭しとチューニングメーカーのステッカーが貼り付けされ、さながらレース場からそのまま抜け出してきたかのようだ。横を通る時に海斗がちらっと内装を見たところ、外観に違わず内装剥がし、フルバケットシート、ロールゲージなどスパルタンな仕上がりとなっていた。
ファストスタイルは国産スポーツカーの専門店だ。そもそも外車がいることが珍しい。このオーナーは一体何用でここへ来たのだろうか―――海斗は車を興味深く見つつも、首を傾げた。とはいえ、親っさんが有する車関係のコネクションは相当広いはずなので、色々な来訪者がいるのだろう。海斗は適当に当たりを付けて店のドアを開けた。
店の中の様子は以前からほとんど変わりなかった。せいぜい、再来週に行われるという開店十五周年記念イベントを宣伝する安っぽい張り紙がそこかしこに貼り付けされている位しか変化がない。
小西は一人、事務所の近くで立っていた。海斗を見るなり、深々と礼をする。それを受けて、海斗も何となく小さく礼をする。その手には、先週親っさんが持っていたのと同様のファストスタイルの店名が印字された封筒があった。
「川島様、お待ちしておりました。こちらのテーブルへどうぞ」
「あぁ、どうも」
恭しく指し示された方にある椅子に腰掛けると、小西も対面するように座った。海斗は店の中をぐるりと見回した。しかし、どこにいても存在感を放つ親っさんの姿は認められなかった。
何となく気になって、海斗は小西に尋ねた。
「今日は親っさんはいないのかい?」
「親っさん・・・あぁ、店長ですか?いますよ。ただ・・・」
小西は着座したまま首を捻り、事務所の奥の方に視線を向ける。
「今はちょっと他のお客様と打ち合わせ中なんです」
事務所手前側の広いスペースにしか来たことが無い海斗は、この店の全容を把握しきれていない。恐らく小西が見た方向に個別で商談室でもあるのだろう。耳をそばだててみると、確かに薄っすらとだが誰かと誰かが話し込んでいる声が漏れ聞こえていた。恐らく一対一の対談なのだろうが、その片方は間違いなく、親っさんが放つ野太い声だということはわかった。
「もしかして、あの車の?」
海斗は窓の外に向けて一瞥をくべた。別にどの車の、と明確に指し示したわけではない。だが、それだけで小西もあの豪華絢爛なBMWの事だと察したらしく、何故か微量の苦笑をしてみせた。
「えぇ、その通りです。何でも、店長の古いお知り合いとのことで・・・すいません、自分もあんまよくわからなくて」
「いやいや、別に小西さんが謝ることじゃないよ」
小西は小さく頭を下げたが、海斗はそれを宥めた。別に小西の落ち度は何も無い。親っさんのことなので、どうせ従業員たちにまともに自分のスケジュール事情など共有していないことは容易に想像できる。小西としても、自分の店の店長がどこの誰と面会していようが知ったこっちゃなかろう。だというのに小西はペコペコと申し訳なさそうに対応している。本当に礼儀正しいやつだな―――海斗は思った。
「変なこと聞いてすまなかったね。早速で悪いけれど、シルビアのオーバーホールについて聞いてもいいかな?」
「そうですね、早速始めましょう」
そう言って、小西は書類をテーブルの上に広げ始めた。
差し出されたアイスコーヒーの薫りが登り立ち、地元FM局の音楽が軽やかに流れる中、小西は簡潔かつ過不足なく項目を説明していった。そして案の定、作業にかかる部品代や工賃が詳らかにされればされるほど、海斗はみるみる青ざめていった。
薄々シルビアにガタが来ていたことは気づいていたが、まさかここまで老朽化が進んでいたとは海斗にとっては予想外だった。せいぜい消耗部品の総取っ替え程度かと思いきや、吸気系、排気系、足回り、ボディや内装など、あらゆるところが項目として上がっていた。そしてそのどれもが決して安くない。
積み増されに積み増された最終的な総見積もり額として、おおよそ六十万程度という驚愕の数字を両の目が捉えた時、海斗の心は砕かれた。見積書を持つ手が、細かく震えているのが海斗自身も分かった。冷や汗も毛穴から次々分泌されてくる。
矢継ぎ早に改修項目を伝えながらも小西は相当に申し訳なさを感じているらしく、最後の額を伝えた後に目線をふらつかせながら言葉を選んだ。
「その・・・なんと言いますか、かなり高額で驚かれているかと思いますが・・・」
「へ?あ、あはぁ!大丈夫大丈夫!もうオンボロだし、それくらいは覚悟してたさ」
流れるように嘘をついた。本当のところ、海斗の心は顔面どストレート鼻血まみれであった。このままダウンしてKO負けを喫しても何ら不思議ではない。
「もちろん、これは気になる部分を全てオーバーホールしたら、の額です。絶対ではなく任意ですので」
「そりゃあそうだろうが・・・だが、今後乗り続けていくんだとしたらいずれはかかるもんなんだろう?」
「ええ。今一気にやるか、少しずつやっていくか。その違いになりますね。因みに当店では川島様のように国産スポーツモデルをリフレッシュされる方向けに、西方銀行様のローンもご用意しておりまして・・・」
続けざまに小西は月賦制度の話に移行した。
だが、海斗にとってはその殆どが右から左へ何も濾し取られず流れ去っていった。
現実的な払い方を検討できるほど、海斗はシルビアのリフレッシュについて具体的な展望も方法も考えるに至らなかった。六十万なんて大金払えるわけがない。生活がある中それを少しずつ払うでも厳しいし、一括なんて尚の事無理だ。
だが、シルビアを所有している限り、いつかはこの金額が海斗から毟られるのだ。
頭が痛くなってくる。海斗はその頭痛を堪え、どうにか相槌を打ちながら話を聞いていた。
「もちろんかなりの額になりますから、ゆっくり検討いただいて構いません。その際は是非とも当店で―――」
小西が話を締めようとした時、奥の方でドアが乱雑に開かれる音がした。
それと同時に、随分と明瞭になった親っさんの声が聞こえてきた。
「悪いが、いくら頼まれても俺は力になれねぇな。申し訳ないが、引き取ってくれないか?商売の邪魔だ」
未だ親っさんの姿は見えない。いつも快活な親っさんらしからぬ厳しい口調で誰かと話しているようだった。
そして、もう一人の方の声もはっきりと聞こえてきた。
「親っさん、こんなに頼んでも駄目なんすか?俺は誠意を尽くしてお願いしているつもりなんですが」
「常識的に考えて分からんか?俺とお前は同業他社になるんだぞ?どこの世界にライバル企業に献身的に与する奴がいるんだ」
「そんな・・・それじゃあその事業計画って奴を持ってくればいいんすか?」
「はぁ・・・それが最低限ビジネスでパートナーシップを結ぶ上での大前提なんじゃないか?と言っただけだよ。お前に協力するかどうかは話が別だ」
親っさんともう一人の男は何やら揉めているようだった。何かの申し出に対して拒否する親っさんに対し、何とか追い縋るもう一人の男、という構図だろうか。
歳を取り穏やかになった親っさんがここまで熱くなっていることが珍しいが、それ以上に海斗は相手の男の声に吃驚した。
その声の主を、海斗は知っていた。
親っさんともう一人の男は、ただでさえ暑い店内の中をより加熱するような舌戦を続けながら海斗たちがいるスペースへとやってきた。
「だからさぁ・・・おぉ川島。そういえば今日約束してたんだったな。対応できず悪かったな」
親っさんは海斗の姿を認めると、それまでとガラリと雰囲気を変えて小さく手を上げて挨拶をした。ここまでであれば、いつものファストスタイルの風景の一部として流れ去っているはずであった。
海斗が親っさんの横にいる男の姿を見るまでは。
「だから親っさん・・・お、そこにいるのはもしや海斗か?」
昔よりも随分と下品な笑みを向けてきたのは、紛れもなく海斗の昔の友人である重松隆太であった。
シーラカンスが眠る頃 No.2149 @kyohei0528h
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