第6話 潮目

 泰明が、86を手放す。

 それだけであったら、海斗もさほど状況理解に大きな精神的エネルギーを費やすことも無かっただろう。しかし、その次に親っさんが封筒から静かに広げていく資料は海斗により大きな衝撃を与えた。 

 テーブルの上に広げられたのは、主に二種類の書類だった。

 一つは、86の売却見積書だった。

 そしてもう一つは、中古車の情報が記載された書類だ。三、四枚ほどあり、価格や走行距離、オプション品などの情報が定型的なフォーマットに則り記載されている。書類上部には写真も載っているのだが、そのどれもがノア、ステップワゴン、シエンタなどの小型ミニバンばかりだ。


「俺さ、86売ってミニバンに乗り換えるんだわ」

「そ、そうか・・・この中から決めるのか?」

「まぁな。実は少し前に親っさんのツテでいい出物が無いか聞いてたんだ」


 泰明は海斗の方に視線を向けずに喋っている。その目は、テーブルの上のミニバンたちに注がれているようだ。だが、胸の前で組まれた腕や時折小さく吐かれる溜息からは、どうにも泰明が意気揚々とはしていないことが感じ取れた。


「今まで言わずに悪いな海斗。本当は真っ先にお前に話すべきだとは思いつつも、何となく言いづらくってさ」

「なるほど・・・いや、まぁ、そりゃあそうだよな」


 ミニバンの資料を見比べる泰明の様子に、海斗は自分の中で生まれた感情を濾した残渣のような言葉を吐くよりほかなかった。

 泰明の判断は、当たり前といえば当たり前だった。

 泰明にはもう少しで子供が産まれる。当然、赤ちゃんを車に乗せるにはチャイルドシートが必要になってくる。法規上、助手席にはチャイルドシートを付けてはいけないことになっているので後席に付ける必要があるのだが、3ドアの86では現実的ではないだろう。そして、そのためにいっそ乗降しやすいスライドドアの車に乗り換えるというのも道理に適っている。更に、即断即決でいささかドライな性格の泰明が、子持ちになってまでも86という車に拘泥はしないであろうことも容易に想像がつく。

 海斗もそれは理解できるし、泰明に子供が出来た以上いつかはそういうことになるとは心のどこかで覚悟していたつもりだった。そして先程のパチンコ店での珍妙な問答も、きっとこの件に対する前フリのようなものだったのだろう。

 何もかもが合点のいく話だった。だけど、だからといってそれを難なく海斗が受け入れられたかというとそれはまた別の話だ。

 実際には、そんな事前の心構えなどあっさりと葬り去るほどの強い衝撃が、海斗の心に突撃してきたのだ。

 海斗の偏見もあるだろうが、ミニバンというのは最も走りに向いていない車種の一つだろう。86からそちらに乗り換えると言う事は―――ある一つの決定的な事実を海斗に突き付ける。


「・・・ってことは、もう走り屋もやめるってことだよな?」


 海斗の問いかけに対し、泰明は今一度大きな溜息をしてから返答した。


「まぁ、自動的にそうなるね。もっとも、結構前から峠攻めたりはしてなかったけどな。ここで俺様の最速伝説も終幕ってことよ」


 泰明は鼻を鳴らし、掌を天井に向けるというアメリカ映画みたいな仕草をした。何ともスカした態度だが、それもまた泰明らしいといえば泰明らしかった。


「そうかぁ—――寂しくなるな」

「そうしんみりすんなよ。俺が走りから降りたって、別にお前とダチじゃなくなるってわけじゃあるめぇしよ」

「でもさぁ。お前とはずっと走り屋として切磋琢磨してきた仲だからな。何というか、一つの時代が終わったって感じがあるなぁ」

「大袈裟だよ。ただ、お前とつるむ時のツールが車ではなくなるってだけの話だ」


 泰明の言葉を有体に言うならば、要は車つながりではない別の何かが二人のつながりを取り持つことになるということだろう。なるほど、泰明の言っていることは間違っていない。

 だけど―――海斗は考える。

 車を抜かしたら、それは一体何になるんだ?

 海斗にとって、泰明たちと走り続けてきた時代というのはかけがえの無い物だった。それはきっと泰明だって同じであろう。どんなテクニックを身に付ければ、あるいはどんな風にセッティングすれば、峠やサーキットを速く駆け抜けることができるのか―――ただその一点だけに若い時代を費やしてきたと言っても過言ではなかった。無謀なこともやったし、傍から見れば無駄ばかりの生き方だっただろう。海斗自身それは思うが、それでも走り屋として駆け抜けた時代は、海斗の中でいつだって輝き続けている。今の自分はそこから立脚している、とさえ思えた。

 その根幹の部分を失ったら、自分と泰明の関係はどうなってしまうのか―――海斗は言い知れぬ不安に襲われるのだった。 

 

 二人の会話が途切れた瞬間を見計らい、親っさんが咳払いをした。

 

「—――すまんが川島。そろそろ、吉田にビジネスの話をしても良いかな?」

「あぁ、すみませんね親っさん!泰明も気にせんでくれよ。俺はその辺でも―――」

「川島様」

 海斗が気を遣って席を立とうとすると、先程のイケメン風整備士がテーブルのところまでやってきた。彼は海斗の前に立つと、上半身だけを前に倒して小さく礼をした。

「あ、はい?」

「シルビアの点検が終わりました。少しご説明したい点ありますので、工場の方までご足労いただいてもよろしいですか?」

「あぁ、分かりました」

 海斗は促されるまま二人の元から離れた。

 二人は既に書類を見ながら顔を突き合わせ、泰明の新しい車について真剣な商談に突入しているのが見えた。

 

 事務所の外に出ると、やはり熱い空気が海斗を取り囲んでいた。

 じとりと肌に汗を滲ませながら整備士の促されるままに歩くと、海斗のシルビアが建屋の前に停車されているのが見えた。カーボンボンネットが開かれ、エンジンルームが露わになっていた。


「ご挨拶が遅れてしまいすいません。自分、整備士の小西っていいます」

「あぁ、はい。今回はどうも」

 

 小西なる若い整備士は、今一度小さく頭を下げた。その折り目正しい対応に、海斗も思わずぺこぺこと頭を下げる。


「お車の方、見させていただたんですけど、アイドリングの不調はACCバルブが上手く動いてないことが原因みたいですね」

「それって、アイドリング中にスロットルバルブから迂回して空気送ってるところですよね」

「あぁはいよくご存じで。まぁ、これは割とよくあることなんで。取り外して洗浄してみたら良くなったんでちょっと様子見てみてください。あとはアイドルアップが上手くいってないみたいだったんで、そこも調整しときました。まぁ、アイドリング関係はこんなもんなんすけど・・・」


 小西は手にした書類に目を落とし、ぺらぺらとめくっている。対する海斗からは帽子の鍔で彼の表情を読み取ることはできなかった。しかし、工場の作業音であまり聞こえなかったが、ほんの少し困ったように「うーん」という小さな唸り声を上げている。どうも芳しくない状況が起きているらしい。

 小西が次の言を継ぐ前に、じれったくなって海斗は尋ねる。

 

「ん?どうかしたんです?」

「・・・お車、随分長く乗られているようで・・・吸排気系にかなり年季が入ってますね。一応各部確認はして問題は無さそうですが、経年劣化が著しいところがありまして、何かの拍子ですっぽ抜ける可能性は否定できないっす」

「そ、そうすか・・・」


 やはりそうか―――分かっていたことではあるものの、海斗はどうにもその事実を受け入れるずにいた。

 確かに、シルビアはもう十年選手だ。もちろん、昔からハードな走りをした際には故障することもあったが、それは全て海斗が自分自身で直してきた。だが、ここ数年はと言うと、日々に忙殺され、そんな時間も取れずにいた。良き相棒であったシルビアは単なる移動の手段に成り果て、以前とは比べ物にならないほど手を掛けなくなってしまった。車体に痛みが出るのは至極当然のことだと思えた。

 恐る恐る、海斗は小西に質問を投げかける。


「それ、直すのにどれくらいかかりそうですか?」

「うーん、そうっすね・・・少々お待ちください」


 手元の資料では判然としなかったのか、小西は工場に小走りで戻り、脇に備え付けられている古い型の分厚いノートパソコンをカタカタといじっている。

 ややあって、小西が海斗のところへ戻ってきた。


「お待たせしました。まだざっくりとしたところでしかお伝えできないのですが・・・箇所が多そうだったので数十万円はかかるかもしれないです」

「な、なるほど・・・」

 海斗は目が眩んだ。

 もちろん、それは夏の暑さに意識を蝕まれたせいではなく、あまりの額の多さにだ。既に海斗の精神はかなりのダメージを受けていたが、小西は事務的に続ける。


「それに、何と言ってもシルビアも二十年近く前の車ですからね。部品が手に入らない可能性もあります。その場合は、互換できるものを探して付けられればいいですが、それができない場合は・・・」


 小西は意味ありげに一度言葉を切って海斗を見据えた。


「その辺り、ご留意いただければと思います」


 小西が若干最後の説明を濁した。

 もちろん、その空白に塗りつぶされた言葉を、海斗は何となく理解した。


「どうしましょう?一旦正式にお見積りを取ってみますか?」


 工場からはエアー工具が発する鋭く甲高い音が聞こえている。

 そして相も変わらず太陽は地面を焼き、地上を高温状態にせしめている。

 暑さで上手く稼働しない頭脳を使い、海斗はどうにか言葉を繰り出した。 


「・・・分かりました。取り合えず、見積もりお願いします」



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