第十七節

 その時、フェデリコは一直線に奔った。


「エメス!」


 悲痛な幼い叫びに、コンスタンサは顔を上げた。

 樹に繋がれたままの馬が嘶く。彼女は手綱を解くことができぬまま、踵を返すフェデリコを目で追った。

 止める間もなかった。振り返った先ではあの少女が敵に組み敷かれ、首を締め上げられながらもがいている。フェデリコは我が身も顧みずに駆け、その剣を振りかざしていた。


 その一撃は、敵の顔を横一文字に叩き割った。

 白刃が口腔に直撃し、歯は弾け、口に入り込んだ刃はそこからまっぷたつに上あごを撥ね上げた。ばっと血が広がる中、敵の頭は大地に跳ね、その腕は急速に萎えていく。

 ひゅうっと細く洗い呼気が通って、エメスは意識を回復した。

 胸がぐっと膨らんで跳ね上がり、一拍遅れて彼女は激しく咳き込んだ。


「エメス! 無事かエメス!」


 駆け寄るフェデリコに答えることもできぬまま、彼女はぜえぜえと喉を鳴らし、幼子のように背を丸めた。

 先ほどの攻防で喉をやられたのかもしれない。

 喉の奥には僅かに血が絡み、首は真赤にはれ上がって、爪の食い込んでいた場所からはじっとりと血が滲んでいた。

 けれど、命に関わる怪我ではなかった。フェデリコが抱え起こすと、彼女はひと際大きな血の混じった咳を吐きながらも、はっきりとフェデリコを見上げた。


「だい……じょうぶ……です……」

「まったく、どこが大丈夫だ!」


 気が付くと向こうからはアルバートたちが走ってきていた。残る敵は彼らの手で片付けられていた。侍女らも全員無事で、数名の騎士は剣を鞘にしまって彼女らを落ち着かせに掛かっていた。

 駆け寄ってきた仲間らの顔にも安堵の表情が浮かんだ。


「良かった。駄目かと思ったぜ」


 エメスは小さく頷き返すが、その瞬間にまた激しく咳き込んだ。


「喉を傷めたらしい、質問はやめてやれ」


 エメスの頭を腕の中に抱えたまま、フェデリコは皆に指示を飛ばす。

 それに従って侍女らは荷物を片付けはじめ、騎士らは周囲の警戒と遺体の確認に散らばっていった。


「ビーチェ、林檎酒シードルを! 袋ごとだ!」


 途中、呼び止められたビーチェが林檎酒を取って舞い戻ると、フェデリコはエメスの頭を支えたまま、歯で閉じ紐を開いた。


「とにかく、まずは口をゆすげ。少し染みるぞ」


 こくりと頷くエメスの口に林檎酒を少し流し込み、そうして自らゆすがせる傍ら、フェデリコは更に自分の馬から皮袋を取ってくるよう命じる。ビーチェが再び駆け出そうとした時、はっとしてコンスタンサが馬にとりついた。

 彼女はスカートをたくし上げ、その袋を抱えて駆け寄ってきた。


「すまない、助かる」


 コンスタンサをちらりと見やるフェデリコ。

 けれどその視線は、コンスタンサが返事をするよりも早く下へと戻される。

 酒袋をビーチェに突き付けたフェデリコは、皮袋をひっくり返すや、革帯に小分けに修められた乾燥した草を二つ食む。歯を剥き出しにするようにしてすり潰していたフェデリコは、今度はビーチェを指で招いて林檎酒を口に含んだ。

 フェデリコがエメスの顎を掴み、口を開かせる。


「ん……!」


 直後には、何の躊躇もなしに口付けていた。

 ぎょっとするコンスタンサに、慌てて酒袋を取り落しそうになるビーチェ。

 何事か自体を把握したエメスは顔を真赤するが、フェデリコはエメスを抑え込み、口中で撹拌した薬草と林檎酒を遠慮せずにべっと流し込む。


「……ぷはっ!」


 顔をあげるフェデリコ。

 何事も無かったかのように口を拭うと、フェデリコはまだ顔を真赤にしているエメスを見下ろした。


「いいか、口の中に馴染ませながらゆっくり飲み干せ。一気に飲むなよ、薬効が薄れるからな」


 ぐいと口を拭うと、ビーチェの革袋を受け取って改めて一服入れた。

 そのまま大きなため息と共に胸を逸らせ、背を後ろへと傾ける。膝にはエメスの頭を載せたまま、それでもようやく落ち着きを取り戻したようだった。


「怪我はなかったか」


 傍らに立ち尽くしたままのコンスタンサへ目を向け、安堵の笑みを漏らすフェデリコ。彼女はその気遣いに柔らかく頷いてみせる。


「えぇ、私は平気ですわ。それよりそちらの……エメスは大丈夫ですか」

「大丈夫だ。意識はハッキリしてるようだから。そうだろ?」


 胸の下へ目を向けると、エメスがこくこくと頷く。

 フェデリコは再びコンスタンサを見上げた。


「こいつはいつもこうなんだ。何かと言えば無茶をして……」


 膝に載せられた頭をくしゃりと撫でまわすうち、フェデリコの口元もまた柔らかな色合いを帯びる。

 その一瞬、フェデリコを見上げるエメスの瞳が揺れていた。


 フェデリコが何かを話し続けている。

 けれどコンスタンサは、その言葉以上に話をする時のフェデリコの表情を、髪を撫でる指を、エメスの恥じらいをこそじっと観察していた。

 その間もエメスはばつが悪そうに口をもごもごさせては少しずつ薬酒を飲み下しているが、フェデリコからは視線を逸らせたままだった。

 狼のような目元は、困惑の表情を浮かべながら真赤に沈んでいる。

 けれど、コンスタンサは気付いた。それは決してフェデリコの明け透けな行動に対する驚きばかりではなく、そこに見られる歳相応の恥じらいの中には、少女としての焔を帯びた慕情が滲んでいることに。


(ああ、そうか――)


 するりとひとところへ辿り着く疑問。

 その思考の扉に手を掛けようとした時、声が飛び込んできた。


「陛下、いったんパレルモへ引き返しましょう!」


 アルフレードが手を振り、声を張り上げる。侍女らは散らばった荷物をあらかた片付け終わり、騎士らも今しがた討った遺体をほぼ一か所に集め終えたようだった。

 フェデリコが手をあげてそれに答えた。


「よし、戻るぞ! エメスは荷駄に座らせてやれ」


 皆が手分けをして出発の準備を整え、死体の見張りを残して歩き始める。

 行きよりも少し早足になった帰りの道すがら、コンスタンサは馬に揺られながらフェデリコの背中を見つめる。

 答えははじめからそこに存在していたのだ。ならば毛糸球を階段に転がすように、自分の思考を自然と辿っていけば、その糸の先には自然な答えが待っていた。


 コンスタンサは微笑みを崩さない。

 けれどこんな簡単なことに今さら思い至った自らを、心の中で嗤わずにはいられなかった。

 そうして自嘲と共に糸を捨て、ぽつりと呟く。


「それを、秘めておられたのね……」


 その呟きを耳にした者はなく、あふれ出た答えは青空に紛れ、消えていった。

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