第十八節

 剣が振るわれ人が死んでも、天地の運行に違いはなく、昼の喧噪は夕陽と共に去り、夜の天幕には星が散りばめられる。

 コンスタンサは静まり返った廊下をひとりで歩いていた。差し掛かった階段でふいに足を止め、階上を窺う。彼女はそこで暫く佇むと、やがて向きを変え、一段ずつ階を上がり始めた。

 椅子に座っていた騎士が立ち上がり、その行く手を阻むが、訪問者がコンスタンサであることに気付くと、ぴしりと背を正して向き直った。


「陛下はお休みになられてます」

「陛下に用があるのだけれど、通していただけるかしら」

「しかし、既にお眠りになっておられますから……」

「いけないのですか?」


 言い淀む護衛に、首を傾げてみせるコンスタンサ。

 護衛がどうしたものかと困惑していると、背後で扉が開いた。フェデリコは少し驚いた様子を見せたが、ややしてコンスタンサに入るよう促し、護衛には今日はもう休むよう告げた。

 フェデリコの寝室は簡素な造りの部屋で、唯一特徴的なのは月明りが差し込むバルコニーくらいだった。

 フェデリコはコンスタンサに背を向けたまま、机の水瓶からコップに水を汲んだ。


「どうかしたのか。カナから訪ねてくるとは珍しいな」


 コンスタンサはあくまで物腰柔らかく問い返す。


「妻が夫の寝屋を訪ねるって、なにか変かしら」


 その問いに、フェデリコの動きが一瞬止まる。


「いや……それより、今日は大変だったな。恐ろしくはなかったか」

「えぇ、驚きはしましたけれど。お気遣い感謝しますわ」

「狙いはおそらく私だぞ、私が気遣うのは当然だ。今後はあのようなことはないと言えれば良いのだが、それも難しそうだしな」


 コップの水を煽るフェデリコ。

 襲撃者らの死体は、いずれも身元が解らなかった。近隣住民にも見知った者はおらず、僅かに恐れながら宿で泊めたかもしれないと申告があっただけだった。

 奇妙な布や我が身を厭わぬ捨て身の暗殺など不審点は多々あるが、現状ではこちらの命を狙って誰かが放った刺客であろうとしか言いようが無かった。

 コップを机に残し、窓の外を眺める。

 その横顔を、月明りが浮かび上がらせていた。


「今回はこんなことになったから、また改めて出かけよう。少し歩くが、オレンジ畑はどうだ? 今の時期だと青々としたオレンジの実が揺れていて――」

「陛下」


 ぽつりと漏れる声。その凛とした強さにフェデリコは口を閉じ、ややしてコンスタンサを振り返った。


「……フェデで良いと言ったではないか」


 フェデリコは冗談めかして言ったが、コンスタンサが静かな沈黙を守っていることに、常とは違う気配を感じ取った。そうしてフェデリコも黙ったのを見て、コンスタンサは常なる微笑みを湛え、ゆっくりと口を開く。


「こちらへ嫁いできてから、三週ほどでしょうか……陛下は、私に手をお触れになられませんでしたわね」


 不穏で重苦しい空気が、石造りの部屋をしんと静まり返らせる。

 フェデリコが何かを言おうとした。

 迷い、口元が揺らぐ。

 けれどコンスタンサは、その口を塞ぐように言葉を続ける。その声は静やかで、そこに怒りはなく、けれどもこれ以上ないほどに明瞭に響いた。


「エメスですか?」

「何が――」

「陛下は彼女を愛しておられる」


 コンスタンサは微笑んだままだった。

 その問いに僅かばかりの毒が滲むのを、彼女自身、自覚していたかどうか。


「は……ひどい冗談だ」


 問われた瞬間、フェデリコは首を振った。その肩が緊張と動揺に強張っているのは、コンスタンサならずとも見逃さなかったろう。


「そうでしょうか。冗談のつもりは、無かったのですけれど」

「私は……違う!」

「ならば何故……いえ、もうよしましょう。私もアラゴンの王女、私どもの婚姻が意味するところは承知してますわ」


 コンスタンサは俯いた。


「何より陛下のお心遣いに、私自身どれほど心安らいだことでしょう……陛下が真に心を寄せる相手がいたとて、何ほどのこともありましょうか」


 表向きの婚姻とは別に愛人を囲うことなどは、世の倣いだ。それが許されぬものと真面目に考える者は真に敬虔な者くらいで、夫の愛人関係を声高に鳴らす妃の方が、却ってその不義浅慮を謗られよう。

 その微笑みが、微かな自嘲に彩られる。


「私はそれでも構いませんでしたのに」


 そうだ。構わなかった筈だ。

 コンスタンサはフェデリコをじっと見つめる。


「陛下もご存じでしょう? 私がハンガリー王国へ嫁いでいたことを」


 薄らとした疑問はあった。

 けれども当時のコンスタンサには、それを言葉にする力が無かった。

 そうする力も、なにより言葉を持っていなかった。


「イムレは善き夫でしたわ。けれど、それだけの人でした……」


 暴力を振るわれたことはない。罵られたこともない。他の女性に心移すことさえ無く、彼は常に優しさにあふれていた。彼は誰が王妃であったとしても接しただろう。


「彼は私をコンスタンサとして見ていませんでした……私の存在は、いついかなる時も『ハンガリー王イムレの妃』でしかありえなかったのです」


 あったのは王と妃の形、善良なる夫婦の形。

 そこにはただが存在するだけで、は存在せず、彼我に独立した関係は存在しようもない。

 それらの構造が帯びる残酷な刃に、イムレが気付くことはなかった。


「夫を亡くしても、私はまだイムレの妃であり続けました。子が私の全てと思い、敵の手から身ひとつで逃れることもありました」


 雨吹きすさぶ中だった。

 彼女は文字通りの追手をかわし、王冠とラースローを抱えて隣り合う公国へ逃れ、ラースローととして丁重に迎え入れられた。

 王の妃。王の母。

 誰かにとっての何か。

 コンスタンサにはそれが全てだった。


「ですのに――」


 瞬き、ぞっとするほど冷たい瞳が現れる。


骸布がいふに包まれた我が子を前にしても、何も感じなかった」


 涙が湧き上がってこなかった。

 悲しいと感じている筈なのに、息子だったものを冷たく見下ろしている自分がいた。自分の背に誰かがぴたりともたれ掛かる。そこにいたのは自分自身だった。


「自らに囁きましたわ。『泣かないと困るわ。あなたは亡きラースローの母なのだから』って。それでようやく、泣けましたの。ああそうだったって――を思い出して」


 愛していた。愛おしく想っていた筈だった。

 けれどそれが、自らの純粋な想いなのか、立場から来る義務なのかも、もう解らなくなってしまっていた。

 アラゴン国王アルフォンソの娘。ハンガリー王イムレの妃。ハンガリー王ラースローの母。そしてシチリア国王フェデリコの妃。

 誰かにとっての何か。付属物でしかない自分。他者なしには存在を規定されえない自分。自らを語らずとも語り尽くせてしまえる、己という存在。


「あまりにも空虚ではありませんか」

「……そんなことがあってたまるか!」


 フェデリコが声を荒げる。

 どこか寂しそうに、コンスタンサは笑ってみせた。フェデリコのそれを、子供の純情、世を知らぬ者の楽観であると感じたからだ。


「良いのです、もう。陛下にはご理解いただけずとも」


 そうだ。構わなかった筈だった。

 何ら期待するところなく嫁いできた筈だった。

 ことに自分たちの誓約が、あらゆる鎖でがんじがらめにされたものであることぐらい、とうに理解していた筈ではなかったか。

 にもかかわらず、いったい何を期待していたのか。何を求めようとしていたのか。この、わずか十四歳の少年に……それこそが相手を傷つけることになりかねぬと解っていながら。


 ――貴女はなんと呼ばれたい?


 フェデリコの気遣いが意味するところを、解しかねた。

 それでも一瞬感じたのだ。フェデリコが自分をカナとして接してくれるのではないかと――かつては誰のものでもなかった、ひとりのカナとして。

 淡い夢。脆い期待を寄せたるそれが、秘された愛の代償行為でしかなかったとすれば、それはあまりにも。


「陛下は残酷です。それならば、そうとお伝え下さればよかったのです。私どもに愛はないと」


 コンスタンサは、ただ真実を告げてくれればそれでよかった。

 それだけでコンスタンサは、その好意を抱き止められた。

 幼子が気まぐれで示した好意として、大切な思い出のひとつにしてしまえた。


「私は望まれるように子をなしたでしょう。それだけを求めて、余計な情けなどお掛けにならないでほしかった……人としてでなく、ただ王の妃として扱って下さればそれで構いませんでした」


 コンスタンサの妃としての仮面は、そう求めるからこそ闇に溶けていく。

 冷たい眼差しで、彼女はフェデリコを一瞥した。


「そうすれば、私が誰であったかを忘れたままでいられましたのに」


 背後に、私がかがみ込んでいる。

 足元に散らばっているのは無数の仮面だ。

 まっ青な顔をして、必死に仮面を探している。

 どの顔だ。どれを選べばいい。私が今しなければならない顔は。私が被るべき仮面は――ぼろぼろと涙をこぼしながら、過呼吸に陥りながら、それでも仮面が見つからない。


 ようやく被った仮面を捨てたから、こういうことになる!


(終わりにするべきだわ)


 は背後で恐慌を起こす私を一瞥し、呟く。

 それが必死に差し出す仮面を手にし、カナはうやうやしく目を伏せ、微笑みと共に顔をあげる。


「子供が要りようになりましたら、またお声がけください」


 口角は少し持ち上げて、目元は優しく。年上としての包容力を示しながら、不遜になり過ぎず、拒絶の言葉を用いずに。


「私は、おりますから」


 そう告げて背を向けようとしたその腕を、掴むものがあった。


「陛下、お止め下さい」


 コンスタンサが言っても、フェデリコは手を放そうとしない。


「それとも、夫婦の真似事をまだお続けになるのですか」

「……そうだ。真似事だ」


 掴んだ腕を手放して、フェデリコは自らの服に手を掛けた。

 服を留める革紐にを解き、通し穴から抜いていく。コンスタンサは小さな溜息をこぼして、自らもまた服に手を掛けた。


「構いませんわよ。今なさるというのなら、私はそれでも」


 コンスタンサはフェデリコの意をそう解した。あるいはそれがどういった意図からのものであれ、もはやコンスタンサには構いはしなかった。

 連なる布が、しゅるしゅると石畳に流れ落ちる。


 そこに現れた少女のような身体――その姿を視界に認めて、カナは手を止める。


「ご冗談でしょう……」


 思わず仮面が崩れる。

 カナは呻いた。

 呻くより他に、発する言葉が見つからなかった。

 月明かりを背に、フェデリコの上体が照らされる。そこに浮かび上がったのは、少女のような身体ではなく、少女そのものの姿だった。


「これが私だ」


 フェデリコが呟く。


「いずれは告げねばならなかった。だがその勇気を持てなかった」


 燃えるような赤髪の合間で、伏し目がちな瞳が迷いを見せる。


「前に一度言ったな。私は両親を早くに亡くしたと。私には、夫婦がどういうものか解らない。男女の仲を、自分の家族というものも知らない。私が知っているのは、いずれも遠くから垣間見た他人の家庭に過ぎない」


 城の外で面倒を見てくれた人々の生活こそが原体験だった。

 その後には、フェデリコの血統を利用しようと多くの諸侯が近付いてきた。彼らは時に、既に物心ついた幼き国王の歓心を買おうと、自らが催す宴に招待することもあった。


「彼らの多くは妻を娶っていたが、そこで見た扱いは、装飾品以外の何ものでもなかった。必要な時だけ飾り付け、用が済めば狭い部屋の中にしまい込んでしまう。あれらを家族の関わりであるとは思いたくなかった」


 堰を切って吐き出される言葉に、カナは思わず反論した。


「しかし陛下、それが世の――」

「世の倣いなど、知った事ではない!」


 フェデリコが叫び、肩を震わせる。


「エメスも、あの者たちも、私にとっては皆が家族だ。彼らが私の家だ」


 思いがけない縁と連なりから、一人、また一人と家族は増えていった。


「カナは聞いたな、エメスを愛しているかと。そうだ、愛している。あいつは私の妹だからだ!」


 どちらが先なのかは解らない。

 いつの間にかそうだった。そう表した方がいいのかもしれない。

 フェデリコは、自身がその営みを通じて何かに抗ってきたようにも、あるいはそこに小さな安らぎを見出してきたようにも感じていた。


「貴女が言ったように、我等の婚姻など元来は政略の一環に過ぎない。私たちの婚姻も、教皇猊下の求めを私が断りきれなかったからだ。そんな事は私だって解っている……だがエメスが言ったのだ。貴女のこともまた、これまでそうして来たように迎えてはどうかと」


 激するフェデリコにエメスが言ったことを、彼女は明瞭に思い出せる。

 エメスは言った。感情を吐露するフェデリコに、その無邪気さで胸を張った。


『私、思ったんです。夫婦だって、家族じゃありませんか。だったらきっと、同じじゃないでしょうか』


 ともすればそれは、子供の単純な発想だったのかもしれない。

 けれどエメスのそれは、彼女が何者でもないままに受け入れられたからこそ得た、確かな実感を伴ったものだった。

 その人を定める戒めを取り払ったあとに残される、何者かである前の誰か。

 それを受け入れられることの安らぎに、自ずと気付いていたのだろうか。


 その誰かが幸せでいられるように。

 愛されていると感じられるように。

 私が、そうであったように――エメスは笑った。『私、何を言ってるんでしょうね』自らそうはぐらかして、恥ずかしそうに、顔を真赤にしながら俯いた。

 フェデリコはその手を伸ばし、エメスにおでこを重ねてそれに答えた。

 ばかとだけ言って笑った。


「それでも最後の一歩を踏み出せなかったのは、私の弱さだ。私は真実を告げるのを恐れた」


 幼い少女が秘さなければならなかったものを、コンスタンサは痛いほどに想った。

 自らの役割と立場を演じ続けてきた彼女だからこそ、そこにある孤独を、世界に対する恐れを理解してしまえた。ましてや彼女の秘するものは、時と人によっては周囲の全てを敵に変えかねないものなのだから。


 人を推察するのは得意だと、そう思っていた。

 けれど、コンスタンサは忘れていた。自然体に何かを演じずには、生きることが許されなかった者がいる。

 それは観察者を切り離して仮面を張り付けたコンスタンサ自身であり、フェデリコに同じものを感じながら、その理由わけを浅はかなものであろうと決めつけていた。

 そこに芽生えた姉妹としての愛を、恋を伴うものと見分けることさえできなくなっていた。かつて自分が、子にいだいたものと同じ想いであったにもかかわらず、これまでの経験が、自らにそう思い込ませていた。


(私自身が、彼女の役割を決めつけていた)


 家族を知らない者が、他の境遇を自らに置き換えて捉えようとした時、そこに新たな姿を想い描いていく。

 これまでに自らが歩んできた生こそが、この少女を見誤らせた。

 その切実な願いに、気付けなくさせていた。


 己を秘する者が築く関係は、一本の微かな糸だ。

 その糸は不安定で曖昧で、少し力を込めて引けば簡単に千切れてしまう。そのか細い糸を手繰り寄せるよりほかに、身を寄せ合う術を持たぬにもかかわらず。

 その糸の儚さを想い、背後でが次なる仮面を探そうとするのを、そっと制した。

 月明かりを背に、フェデリコの蒼い瞳が浮かび上がる。

 あの夜も、フェデリコは月を背にしていた。けれど今は、フェデリコが呼び掛ける側にいる。


「カナ。私と家族になってくれ」


 差し出された右手と、静かな願い。

 そうあれと求めるのではなく、共にそうありたいと望む言葉。

 その想いに、仮面が崩れていく。失われることに恐れおののく背後のを、は静かに抱き留める。


(ごめんなさい。辛かったでしょ)


 手を取って、踏み出していく。


「フェデ」


 呟き、少女の背を抱いた。その細い身体を、かつての自分のを慈しむようにそっと抱きしめた。自らの姿がひとつに重なって、この世界に、ようやく自らの存在を感じられた気がした。

 フェデリコもまた嬉しそうにカナを抱き返し、その胸に顔を埋めながら、まるで赤子をあやすようにカナの背を叩く。


(ああ、そうか)


 そうされてカナは気付いた。

 エメスに接するフェデリコが見せた、あの表情――フェデリコはそれしか知らないのだ。男女の愛も、その機微も。少女が知っているのは、ただ幼い頃に赤子としてあやされた無意識下の記憶だけ。

 その愛は、フェデリコの中にあって未分化のまままどろんでいる。


(姉妹から始めていく他ないのね。いつかその日が訪れるまでは……)


 そう直感する。

 なぜかそれが愛おしく、カナは鼻をすり寄せた。


「ありがとう」


 自然と、慈しむようにこぼれた。



 そうしてどれほど抱きしめあっていただろう。

 二人のぬくもりが溶けあい互いの境界を失わせたころ、ふいに、フェデリコが顔を放した。

 彼女は目を瞬かせると、不思議そうにするカナの唇に指を当てる。


「フェデ……?」

「静かに」


 フェデリコは短く言い放って、耳を澄ます。カナもまたそれに倣って注意を傾けてみると、微かにこだまする赤子の泣き声がした。

 抱き留めていたカナを振りほどき、フェデリコがバルコニーにとりつく。

 泣き声の方角を確かめたフェデリコはカナへ振り返ると、傍らの上着を手に取って声をあげた。


「行こう! こっちだ!」


 上着を羽織ったフェデリコは、外套をカナへ放ってよこした。

 そうして自らは胸元をぎゅっと一締めすると、わき目もふらず部屋を飛び出していく。「早く!」足踏みしながら呼ぶフェデリコの声。カナも慌てて駆け出すと、二人は手を取りあって階段を駆け下りていく。

 秋の涼風が漂う中、月明かりの下に二人は飛び出した。

 その手を引く掌が暖かく、息は微かに白みを帯びる。


 心の中、カナは語り掛ける。

 聞こえるだろうか。見えるだろうか――これが、私たちだ。

 いつか大人になった彼女と肌を重ねて、それでも姉妹のままかもしれない。

 けれどそれでも、私たちの行き先はひとところではない。

 私たちは、この地と時に、この姿を与えられて生を受けた。けれど私たちが抱いて生まれたこの意志は、私たちに自らの心に由って生きろと告げている。


「私はここにいるわ!」


 走りながら、思わずそう叫んだ。

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