第十六節
日を改めた後のフェデリコは変わらず快活だった。
コンスタンサへの接し方もまるで何事も無かったかのように自然だった。
「スペインの話を聞かせてくれないか」
少し遅い昼食を終えた後、フェデリコが切り出した。
整えられた柔らかさを含ませ、答えるコンスタンサ。
「あら、構いませんわ。どのような話がよろしいかしら」
「そうだな、自然の話が聞きたいな。気候はどうだろうか。こちらとどれほど違うんだ?」
「そうですわね……」
地中海に面する彼女の生家アラゴン王国は、冬の寒さこそやや厳しいが温暖な気候に恵まれた土地だった。
だがそこから南に下るとアフリカ側から吹き付ける強い熱波に迎えられ、内陸に入り込めば突き抜けるような青空が土地を乾かす――最初、フェデリコは黙って耳を傾けていた。
話を進めるうち、その姿勢はみるみる前のめりになっていく。
単なる雑談の手掛かりと思われたフェデリコの興味は、気候から植生、特産、それら個別具体的な銘柄や品質に及び、それらがひと段落すると天文などの自然哲学、更にはアラゴン王国の対アンダルス《ムワッヒド朝》外交や、コンスタンサが詩作に通じてると知ってからは文化芸術に至るまで際限なく拡大していった。
コンスタンサは解らないことはやんわりとそう告げたが、そうした時にはフェデリコは違う問いを発し、それによって当初の解が明らかとなることもしばしばだった。
自分の中に本来あった、けれど眠っていた知識。それらが呼び起され、引き出されていく。
自らの知らなかったことを自覚すると共に、自らの経験と記憶の中に新たな発見を見出していくその知的探求は、コンスタンサにとって新鮮な感じがした。
けれどそうした時間も、夜と共に終わりを告げる。
フェデリコはコンスタンサと
嫌われているとは思えない。むしろ好意を寄せられていると肌に感じる。
だが夜になれば、そろそろ寝ようと言うなり「また明日」と手を振り、軽いハグをして去っていく。
夜のことは話題にもされず、そうして陽が昇れば、またコンスタンサの許を訪ねてくるのだ。
成人と呼ぶには幼い未成熟な肉体に、情熱と知性が混然一体となり、その精神が司られている――神に祝福されたる御子、その授かりもの。人はそれを天賦の才と呼ぶのかもしれないが、コンスタンサには、それがひどく歪なものに想えた。
その瞳が放つまばゆいばかりの輝きに隠されて、一筋の影がちらつく。
(彼は、大人にならざるを得なかったのではないかしら……)
決して、当然のように大人になったのではなく。
フェデリコと同じ年の頃、コンスタンサはまだ詩が好きなだけの少女でいられた。
その詩も、久しく作っていない。
(いつから作らなくなったのか……)
思い出そうとしても、ハッキリとはしない。
ハンガリー王のもとへ嫁ぎ、妃としての日々を過ごす間も、詩作に耽る時間はいくらでもあった。けれど、気が付けば言葉が出なくなっていた。
求められているのは妃としてのコンスタンサで、自分ではなかったから、生きていくために自らの言葉は必要ではなくなっていた。求められる声で鳴けば、それで主は満足するのだから。
今だってそうだ。
言葉は、精巧な歯車と同じ。あるべき場所にあるべき歯車さえはまっていれば、回せば正確に歯を刻むだけ。
そんな生活が始まって三週間が過ぎた。
その日もコンスタンサは、特に感動もなくただ無機質な言葉を刻み続けていた。
木々の合間から光があふれて湖面は輝ける。鳥が囀り影を残して飛び去ろうとも、そこに言葉は生まれてこない。
彼女たちは、西にある湖のほとりへと来ていた。フェデリコの発案だ。
イタリアの冬は少し肌寒い。けれど風が無くよく晴れ渡っていれば、陽射しの下を歩くと暑いくらいに暖かい。
湖畔を訪れたのは、フェデリコとコンスタンサに、随行としてエメスら数名の護衛、それからビーチェをはじめとする侍女たちだ。二人が馬に跨る他には荷物運びに一頭、他は皆歩きだった。
彼女たちは湖畔で軽食を取ったが、あとはフェデリコが給仕をいらないと言うので、侍女らは少し離れてお喋りに興じ、護衛たちも遠巻きに立って湖畔の外を警戒する恰好になった。
湖畔をちらりと見やって、エメスは二人の様子を伺う。
「よかった、仲良くなられたみたい」
「お二人のことか?」
気付くと、隣にアルフレードがやってきていた。
戦場ではないが、簡素な
彼もエメスの視線の方角へ自分も顔を向け、二人の向こう、湖面に反射する陽射しに目を細めた。
「絵になるよな。親子ほども歳が離れてるのに」
彼はそんな二人の様子を眺めながら、隣のエメスへ問い掛ける。
「なあ、あの件は話したのかなあ」
「……どう、なんでしょう。私も聞いてなくて……けれどあの様子なら、きっと大丈夫ですよ」
エメスには、コンスタンサの心の内は解らない。
彼女にとってのコンスタンサは優しげで、包容力のある年上の女性に見えた。素敵だなと憧れた。けれど同時に、なんだか少し顔が赤くなってしまって、今はまだ新婚のフェデリコ様に譲ろうというような照れ隠しで、遠くから眺めるだけでいる。
がさりと草をかき分ける音がした。
音のした方へと目を向けると、樹の影から鍬を担いだ農民が姿を現した。泥に汚れた服を着、フードを目深に被った農民だ。
「悪いが帰ってくれ。こっちは近付いたら駄目だ」
アルフレードが手を振って農民の方へ近寄る。
エメスはアルフレードが向かったのでそこから動かず、背後から農民を窺う。
(なんだろう、何か変な気がする……)
妙な違和感があった。俯いている農民は鍬を担ぎ、泥に汚れている。
汚い恰好はおかしなことではない。単に農作業の途中であるようにも見える。ただいったいどこから来たのか、思い返す限り、このすぐ近くにはこれといって畑は無かったように思えた。
アルフレードも、俯いたままの農民に訝しげに首を傾げる。
「どうした。どこか体調が悪いのか? それなら……」
彼がすっと手を伸ばした時だった。
「……離れて!」
エメスは咄嗟に声を荒げた。
自分でもどうしてそう感じたのかは解らない。けれど直後には、腰の短剣に手を回していた。
アルフレードも伸ばしかけていた腕をぴたりと止める。彼の呼び掛けにも答えずにいた農民が、ゆらりと顔をあげた。
その男は、目元を布で覆っていた。
本能的な危機感。目隠しをして動き回るその異質さに、アルフレードは咄嗟に飛びのいた。
鍬を担いでいた腕がびくりと跳ね上がり、一直線に振り下ろされた。
先ほどまでアルフレードがいた空間を切り裂く鍬。反応が一歩遅れていたら、彼は脳天を叩き割られていた筈だ。
「賊が!」
アルフレードは躊躇なく剣を抜き打った。腹を切り裂かれたそれから血飛沫が飛ぶ。
確かな手応え。けれどそれは、一歩後ずさっただけで、まるで何事も無かったかのように再び鍬を振り上げる。
力んだ身体からは内臓が零れ落ち、地にまき散らされる。
「てめえ、何者だ!?」
それは答えず、亡者の如き唸りをあげた、
その唸りと騒ぎに、湖畔に居た他の者たちも顔をあげ、何事かと立ち上がる。
「どいてアルフレード!」
声と共に黒い影が跳んだ。脇へと避けたアルフレードと入れ替わるようにして、エメスが割り込んだ。彼女は両手で短剣を構え、柄に掌を押し当てて振り上げるように、身体もろともぶつかっていく。
心臓を刺し貫く刃。
大量の血がどっとあふれ出てエメスの顔に吹きかかり、何かが紛れて頬に粘りつく。だがエメスはまるで意に介することなく、利き足を踏み込んで更に一歩刃を突き入れた。
刃からずるりと身体が離れ、仰向けにどうと倒れる。
四肢を激しく痙攣させた男は、最後にひと際大きく身体を跳ねさせると、ゆっくりと動きを止めていった。
「……はっ」
緊張を解いたエメスが息を吐く。
広がる血だまりの中に横たわる死体を見下ろし、アルフレードは呻く。
「こいつは、いったい……」
「わかりません。乱心者というには、少し……」
首を振るエメスは、頬に粘りつく血を拭った。
手の甲に、何か粘性の強い黒い体液が粘りついた。
何だろうかと手の甲をじっと見やった時だ。騒めきの中から悲鳴が上がった。
「二人とも! こっちにも何かいるわ!」
振り返ると、ビーチェが森の一角を指さして声を挙げる。
はっとして辺りを見回すと、怪しげな人影が一人、また一人と森の中から現れる。彼らはまるでその辺を歩いていた人々のようで、服装はばらばら、手にした得物も木こり斧や錆付いた剣のようなものばかりでまるで統一感が無かった。ただ唯一、頭に撒かれた布に覆い隠された目元を除いては。
疑うべくもない。今の男と同じ敵だ。
現れた人影たちが一斉に駆け出した。
武器を構えた護衛らとの間に剣戟のぶつかる音が響き渡る。怯える悲鳴が上がって、侍女らは慌てふためいて逃げ出した。
「エメス、お二人を逃がせ! 俺はあっちだ!」
エメスは小さく頷いてフェデリコたちの方へと走り、アルフレードは剣を握り直して侍女らの方へと向かった。駆け付けた先では既に護衛たちが敵と切り結んでいて、彼はそこへ加勢する。
一方、フェデリコもまた剣を鞘から払い、周囲を警戒していた。
幸いにもこちらは森から距離があった。エメスは肩を並べ、短剣を構えなおす。
「フェデリコ様は下がってください!」
「しかし……!」
「コンスタンサ様を!」
「……くっ!」
いつになく強い語気のエメスに促され、彼は引き下がった。
フェデリコが顔を向けるとコンスタンサが頷き、フェデリコは彼女を庇い立てるようにして後ずさっていく。
エメスは暫くその場で控え、やがて二人に合わせてじりじりと後退を始めた。
その瞬間、敵がぴくりと動きを止め、視界が覆われている筈の顔をそちらへ一斉に注いだ。
(来る……!)
本能的な直感。
敵が動きを変えた。彼らは眼前の護衛らを無視するように次々と踵を返して走り出し、エメスたちの方角へと殺到する。
侍女らの前に立ちはだかっていた護衛らが、隙を見せた敵を一気に数人斬り伏せたが、それでも四人がその防御を突破した。
「……走ってください!」
エメスは振り返らず、叫んだ。
一瞬の躊躇が背後から感じられたが、フェデリコはコンスタンサの手を引いて駆け出した。その方角には、樹に結わえられた馬があった。
唸り声が空に響く。
その渦中へと、エメスは自ら飛び込んでいった。
「はぁぁぁぁ!」
先頭の敵へ飛び掛かり、首筋目掛けて短剣を振り下ろす。ばっと血が弾け、バランスを崩した敵にのしかかってその首を一気に切り裂いた。
短剣から手を放し、転がる。
他の敵が振り下ろした斧が、倒れた敵の胸を叩き砕く。
エメスが欲していたのは倒れた男の鉈だった。転がりながらそれを拾い上げ、飛び上がりざま一人の脚を薙ぎ払う。
片足の支えを失ってぐらりと崩れる敵の顔面に、真正面から鉈を叩き入れた。
「おぉっ!」
その胸をがつんと蹴り飛ばし、鉈を引き抜く。
ぞっとして、振り返りざまに顔を逸らせる。
ピッチフォークの切先が鼻先を掠め、がりがりと顔面をひっかいた。
目は無事。痛みも、どうとでもなる。
エメスは大きく鉈を振りかぶり、その肩口目掛けて振り下ろした。鎖骨を砕いて首へと割り入れられた鉈が、ごきんと脊椎を分断する。
エメスは自らの神経が発奮するのを感じた。
感覚が鋭敏になり、血流は激しさを増していく。
(あと一人……!)
言葉なく叫ぶ。吐息が熱を帯び、腕に力が入る。
斜め向かい、最後の敵が残っている。
男がなおももがいて鉈を抜こうとするところを、ぐいと刃を返して、押し上げるように薙いだ。
払われた首からまき散らされた血がエメスの手をぬらりと濡らし、そうして――彼女から鉈を取り上げた。
はっとした瞬間にはもう遅かった。
敵の骨に引っかかった鉈がエメスの掌から滑り抜け、彼女の腕は得物無きまま空を薙いだ。
高々と掲げられた敵の斧が振り下ろされる。
徒手空拳のまま懐に飛び込むエメス。
斧を振るう腕そのものを両手でつかむことで、彼女は辛うじて攻撃を防いだ。
伸し掛かろうと前のめる敵。エメスが両手に力を込めると、男の腕が軋む。それでも敵は怯むことなく、力を加えてくる。
更には残されたもう片腕がぬっと伸び、エメスの首を掴んだ。
喉仏を押し潰すような、激しい力で親指が食い込んでいく。
「ぐっ、あ……が……!」
呼気が途絶える。のみならずその力が一段強まる毎に、エメスの喉はみしみしと悲鳴を上げ始める。
男の腕を掴んだ両手から力が抜け始めた。
酸素を求める口はなお歯を食いしばっているが、小さな火花が散る視界は暗闇に埋もれていく。
ぷちぷちと筋肉の千切れる音を聞いた気がした。指の食い込んだ首筋からじわりと血が滲む。
がくりと膝が揺れ、エメスは姿勢を崩した。
右膝を追って斧を抑えていた両手がずるりと腕から落ちていく。
薄れゆく視界の中、きらめいたのは白刃。
血が視界一杯に広がって、エメスはぼうっと天を見上げながら崩れ落ちた。
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