第十五節

 月の薄い夜だった。

 蝋燭の灯火をのぞいては二人を照らすものはなく、耳をすませば海のさざ波だけが遠く漂ってくる。


「この部屋だ。くつろいでくれ」


 ドアを開いた先にはベッドが二つあった。フェデリコは燭台を机に置くと、足を投げ出してベッドに寝転がった。コンスタンサは部屋を一通り見回すと、ベッドではなく椅子に腰かける。


「陛下こそお疲れでしょう。初めてのことでしょうし、来賓も大勢いらっしゃいましたから」

「そうでもない、私はひとと話すのは好きだ。顔の筋肉は強張るがな。コンスタンサ殿こそ……」


 何かを言い掛けて、フェデリコは口を止めた。

 どうしたのかと思いコンスタンサが声を掛けると、フェデリコは少し考えおいてから、ベッドの縁にふわりと身を起こした。


「コンスタンサ殿、と呼ぶのは変だろうか」

「どうしてでしょうか。何ら不都合は無いように思いますけれど」

「けれど、私たちは夫婦になる」


 視線を落とし、それっきり口を閉じるフェデリコ。

 その目元は蝋燭の灯りからも隠れて容易に窺えなかったが、やがて意を決したように顔をあげる。


「貴女はなんと呼ばれたい?」

「私が……ですか?」


 怪訝の色を表さぬよう平静を努めるコンスタンサ。


「でしたら……コンスタンサでも我が妻ミ・エスポーザでも、陛下の良いようにお呼びください」

「そうではないんだ」

「……申し訳ありません、陛下の仰りたいことがよく解りませんわ」


 困惑の表情を浮かべてみせながら彼女は言った。


「私は、ただ……」


 フェデリコは言葉を選びながら、昼間の快活さが嘘のように静かに問い掛けた。


「貴女自身が、なんと呼ばれたいかを知りたいんだ。もし貴女が望むなら、私も、そうしたい……いけないだろうか」


 コンスタンサは、すぐには答えなかった。

 王と妃ではかように自由にはならない――そうは言えずに唇を結んだ。

 自らを真直ぐに見つめる幼王の蒼い瞳を前にして、そんな事は言えなかった。

 何よりそれが意図するものを解しかねたから、本当に少しだけ、素直に問い返してみようと思ったのかもしれない。


「どうして、そのように思われたのですか?」

「よく解らないのだ。夫婦の機微というものが」

「それは――」


 ご両親はどうだったのかと問おうとして、咄嗟に口を噤んだ。

 フェデリコは幼くして両親と死別している。コンスタンサはそのことを知っていたが、それが意味するところは、この時初めて理解した。

 彼女は少し言い淀んだように見せながら、ゆっくりと言葉を改める。


「誰とて最初はそのようなものですよ」


 さりげなく、当たり障りない言い回しへと。そうしてふわりと視線を投げ掛ける。

 見つめられたフェデリコが、少し視線を逸らす。

 けれど、その仕草を不誠実とは感じなかった。子供らしい、淡いはにかみだけが感じ取れた。


「私自身、夫婦がどう互いを呼び合うのがいいか、考えてみたがいまいちしっくり来なかった……あ。演劇なども当たってみたんだ! だがどこか、全くそこに一線が引かれているようで、それで……」


 はにかみから、恥ずかしさだけが消えていく。


「私たちのかたちは、これから築いていこうと思った」


 困ったように、くしゃりと頭を掻くフェデリコ。

 指から流れ落ちる赤い髪が蝋燭の灯りに照らされ、そこから覗く悩まし気な瞳を、コンスタンサは好ましく思った。この幼い王の衣は、まっさらな生地だと感じた。何かに染められて思い悩むことを忘れてしまう前にだけまとえる、しなやかな白麻。

 それをどうしたいと感じたのだろうか。


(私は……染め上げたいのかしら)


 かつての自分のように?

 愛し合っていた、そうであった筈だ。そうでなければならなかった。

 イムレは立派な王だった。謀反を企てた弟の陣営に身ひとつで乗り込んで叛乱を阻止するような、豪胆さと器量を兼ね備えた男だった。同盟者から信頼され、臣下からは敬われ、アラゴンの王女コンスタンサを娶って理想的な家庭を築いた。

 イムレは妃にも親切だった。

 宴や会合があれば、妃も必ず同伴した。

「我が妻だ。皆、よくしてやってくれ」

 妃は頬を染めて、貴婦人らの輪の中に迎えられた。


 ラースローを産んだ時、イムレは妃の手を取って喜んだ。

「よくぞ嫡男を産んでくれた。ご苦労だった」

 血の気を失って朦朧とする意識の中、妃は辛うじてこくりと頷いた。


 洗礼式の前には、食事の席で妃に微笑みかけた。

「嫡男の名が。ラースローだ。よい名であろう」

 その時妃は、ぽかんとして王を見つめた。

 けれど数拍の後には妃は答える。ええ、陛下、良い名前だと思いますわ――和やかな雰囲気の中で、食事はつつがなく終えられた。


 やがてイムレは病に倒れ、幼い嫡男ラースローと妃を残して死の床についた。

 イムレは若くして世を去る悔しさと、一人の王としての満足、その両方をひとつにしながら妃に語り掛けた。


「そなたは善き妻であった。これまでよく私を支えてくれた」


 妻たる者は、主に仕えるように夫に仕えよ、そう誰かが言った。

 夫たる者は何を勧められていただろう。おそらくイムレも、そう努めたのであろうけれど。


「ラースローを、頼む……」


 イムレの今際の言葉を前にして、心の中、私の意識はゆっくりと、水底にたゆたうように身体から離れ行く。

 イムレは心からの誠意を妃に示した。


(『彼には心穏やかに逝く資格がある』)


 そう呟いたのは、だったか、だったか。

 やがて妃もまた微笑みと共に頷いて。ご安心ください、陛下。必ずやラースローを護り通してみせますわ――それは非の打ちどころ無い、慎ましやかで慈しみを湛えた微笑みだった。

 そうしてコンスタンサは、自分を切り離した。


「……ふふ」


 口元に手をあて、頬を綻ばしてみせる。


「どうした。なにかおかしかったか?」

「いえ、そのような事を言われたのは初めてですから」


 ふわりと表情をほどき、コンスタンサは告げた。

 不愉快ではなかった。心の中、自らの指で仮面の縁をなぞりながらも顔をあげる。たとえ面を外さずとも、自らの相貌でフェデリコを確かめたかった。


「それでは、カナと」


 その思いは、フェデリコの問いに答える形で示された。


「カナ? 良いのか、それで?」

「えぇ、それで……それがいいのです」


 幼い頃に呼び合えた名。

 もはや記憶の彼方に薄れてしまった誰かが、確かに私をそう呼んでいた。

 幼いころは、お互いをそう呼びあえていた筈なのだ。確かなる家の誰かでなく、ただ愛おしさを込めた誰かの名を、私たちは皆、お互いに。


「カナか……カナ……」


 フェデリコが名を呟く。


「はい。お呼びになりましたか」


 カナは立ち上がり、声に応えた。

 一歩ずつ、腰かけるフェデリコへと歩み寄っていく。

 見上げるフェデリコに軽く腰を屈め、そっと顔を近付けた。流れ落ちる黒髪は二人の間に帳となり、蝋燭の明かりに影を映し出す。

 フェデリコの瞳が揺らいだ。あふれんばかりに放たれていた輝きも、今はただ夜の星と同じ、儚げな光だけを瞬かせている。


 頬へ添えた掌に、幼子の微熱を覚える。

 カナは、その瞳に囁いた。


「こちらからは、なんとお呼びすれば?」

「私も――」


 薄く開かれた口元に、唇を重ねた。

 淡く朧げな、微かな重なり。


「フェデがいい」


 消え入るような声が囁き返す。

 カナはそっと、その耳元に口元を寄せる。


「フェデ」


 囁き、少し顔を引いて、カナは艶然えんぜんと微笑んでみせた。

 それが心からのものであるか、それともこの生に染み付いた仮面であるか、カナ自身にも解らなった。

 ただ背後に、それを冷静に観察する自分だけがいる。カナは今再びそれを自らと切り離し、戒めから解き放たれたるままに髪を漉いた。

 瞳を閉じず、拡がる蒼き瞳孔をじっと覗き込む。

 幼き王の顎を細指で誘い、傾く身体を重ねて唇を寄せる。

 ぎしりと、ベッドが軋んだ。


「……ぁ」


 ぽかんと気の抜けた声、それはフェデリコのものだった。

 軋むベッドはその身が深く沈んだためであり、けれどその身が沈んだのは、カナの肩を押し返したためだった。

 カナの唇はフェデリコに届かず、静かに空を拭っていた。

 今しがたその名を呼び合った相手は、悄然として俯く。まるで、今しがたの行いを自分でも信じられないかのように。

 時を支配する無言。蝋燭に影が揺らめいて、カナは声を漏らした。


「フェデ?」


 自らを呼ぶ小さな声に、フェデリコはがばりと顔をあげる。


「……すまない。私は、たぶん……呑み過ぎた。今夜はもう寝よう……」


 カナはそこに、溢れんばかりの動揺を見た。

 これまでのフェデリコらしからぬほどの、隠し切れない激しい動揺を前にして、カナは心の奥に振り返る。

 そこにいる自分は、呆れた様子でこちらを見つめている。

 その視線が捉えているのは、フェデリコでなく自分自身だ。


「……ええ、そうですわね」


 仮面に掛けられていた指がそっと離れ、笑みが残される。


「きっとお疲れでしょうから」


 優しく言葉をかけて、そっと離れた。

 消え入りそうな声でただ「すまない」とだけ残し、足早にすり抜けていく。

 夜の静寂に、カナがただひとり。

 彼女はゆっくりと燭台に歩み寄り、覆いを被せる。

 灯火と共に、カナの微笑みもまた消え去った。

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