第十一節
教皇庁は
コスタンツァが亡くなった後、教皇庁はフェデリコのシチリア国王としての権利を擁護する傍ら、数多くの家庭教師を送り込んだ。
だが六歳にして哲学書を読み耽る少女にとっては、信仰もまた例外でなく、それは神学というひとつの学問に位置付けられていた。
神は何故、人に自由意志を与えたるのか。
いかなる御心によって人を創られ、性と種を別たれたのか。
なぜ、いかに、なにゆえに――
少女は教育係に無数の問いを投げ掛けた。
問われた教師が一刻考えて答えたころには、問いが二つに増えていた。
少女はその貪欲さによって彼らを慌てさせたが、何より彼らを振り回したのは、フェデリコにとってはそれら座学も彼女を構成する一部分に過ぎないことだった。
教皇庁の後見を受けてもなお混迷を極めるシチリアにあって、フェデリコは王宮の外へ飛び出していった。陽を浴び、人に交わり、知識を自らの血肉に変え、世界をその視座に捉えようとしていた。
そうして十歳を迎える頃には、複数の聖典を突き合わせて解釈の違いを考察し、時に教育係の解釈の矛盾を舌鋒鋭く批判さえし始め、更にはその興味が天文、数学、建築、医学と際限なく広がるに従い、彼女はもはや家庭教師の手に負える存在ではなくなってしまったのである。
教師らのうち半数はフェデリコに驚嘆しこれを讃えたが、残る半数は困惑、あるいは中傷を以て彼女から離れざるを得なかった。
「エメスと会ったのも、ちょうどそのころだ」
「そうか……もうすぐ二年も経つんですね」
「そうなるな。早いものだ」
フェデリコはちらりと彼女の横顔へ目をやる。
十四歳。成人の日が近付いている。エメスは少し背が伸び、フェデリコはそれ以上に伸びた。
その間も、シチリアの支配者はドイツ人イタリア人を問わず度々入れ替わってきた。だが今のフェデリコは、少なくともパレルモの支配権だけは自らの手に握っている。
今なお教皇庁の後ろ盾を必要とはしていても、先のような戦いで反抗する小領主を下しては、その支配を俄かに固めつつある。
あるいはそれ故に教皇庁は危ぶんだのだろうか。このままにさせては、獅子を野に放つが如きになりはすまいかと。
フェデリコは傍らの机に置かれた皮袋に手を突っ込むと、銀貨を一枚取り出した。
「彼らにとって、私の存在はコインと同じだ。表と裏は一体不可分。放ればそのどちらかが必ず出る。私を育てて表と出るか裏と出るか……神に仕える身にありながら、たいそうな博打うちどもだ」
指でコインを弾くと、子気味いい音が響いた。
高速で回転するコインが二人の間を飛び、床に跳ねまわる。
「表と出れば、大帝コンスタンティヌス」
初めてキリスト教を信仰し、新たな秩序を築き上げた古のローマ皇帝。
その名を挙げて、彼女は床を見下ろした。跳ねまわっていたコインは木目に引っかかって軌道を変え、くるりくるりと回転を始める。
エメスもまたつられて床を見下ろし、唇を結ぶ。
「では、裏が出たら……」
「暴君ネロ、といったところだな」
芸術を愛し人に愛されることを望みながら、破壊と憎悪の下に死んだ皇帝。
フェデリコはどこか他人事のような態度でおかしそうに言った。
回転していた銀貨の速度がゆっくりと落ちていく。いたずらっぽい笑みと共に見やるフェデリコに、固唾をのんで見守るエメス。
二人の目の前で、銀貨はやがて、ゆっくりとその動きを弱め、遂にそのまま動きを止めた。
「立っちゃいましたね……」
思わずぽかんとして呟く。
「ふ……あははは!」
フェデリコはベッドに寝転がって足をばたつかせた。
なおもまじまじと銀貨を覗き込み、あちこちと角度を変えるエメスの目の前で、ぐらりと銀貨が揺れる。
その瞬間、フェデリコの手がさっとそれを攫っていった。
「こんなもので占うな、ということだな」
彼女は銀貨を指の中で弄びながら、片膝を抱えながらエメスへ視線をくれた。
「それでも、彼らは私が表か裏かを見たいのさ」
今回の一件は、自らに対する試金石だとフェデリコは感じた。
教皇の意向に従って手札を一枚諦めるかどうか、手元に鋭い視線が注がれている。
教皇庁も投げた銀貨が裏か表か気になっているが、結果がどちらだったのか判別つけかねているのだろう。
けれどそれは当然だ。フェデリコはあまり顔に出さないが、彼女自身さえ揺れ動いているのだから。
フェデリコは既に、シチリア王国を、更にはローマ帝国をも手に入れると心に誓っている。けれど、その先はどうするというのか。そうなれば必然的に生ずるであろう聖俗の関りを、どのように築いていくのか。
その明確な答えを、彼女はまだ持っていなかった。
片膝に頬を預け、視線を窓の外にやる。
「できれば、先送りにしたいな」
ふいに漏れる、寂し気な声。
何がフェデリコをしてそうさせたのかは、彼女にも解らなかった。
現実的な煩わしさや変化への不安、成しえようがない営みへの戸惑い、景色の違いとその断絶。そうしてどうしても想像してしまうもの。決して認められることは無いであろう、自分という存在。
そのどれもがフェデリコの袖を引き、心を揺さぶるのかもしれなかった。
「ねえフェデリコ様」
視界にひょっこり現れたエメスが顔を覗き込んでくる。
「お断りするには、結婚を手札にしないって、教皇さまに伝わればいいんですよね。例えば、既にお姫さまじゃない相手がいるって」
「それを誓約してしまえれば楽なんだけどな」
無理だろう。言外に言うフェデリコに、エメスはけれどと微笑んだ。
「でしたらいっそ、私をお妃にしていただくとか」
「それで断ろうというのか?」
「はい! そうすれば、何も変わりませんよ」
名案でしょうとでも言いたげに、自信満々で無邪気に胸を張る。
結婚は好きな人同士がするもの。一緒にいることを神様に誓い合うもの。エメスは、それくらいにしか思っていない。結婚という契約に分かち難く結び付けられているものが何であるか、頭では理解していても、想像力が及んでいない。
けれどその純心で幼い提案に、どこか心が安らぎもした。
「ばか」
その頭をくしゃりと撫で、フェデリコは目を細める。
「けど、それもいいかもな」
彼女は肩の力を抜いた。決してそうはならないことを知りながら、その時だけはその想像に身を任せた。
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