第十節

 苛立ちを露にするフェデリコへのエメスの問い掛けは、どことなく呑気なものだった。


「鈴……? 鈴ってあの、ちりちりと鳴る鈴ですか?」

「奴らは、私が従順かどうか様子を見るつもりだ」

「結婚を勧めることがそんな事になるとは、思えませんが……」


 いまいち意を解しかねてエメスが目をぱちくりとさせていると、フェデリコは勢いを付けてベッドの上に身を起こした。


「言ったろ。本来であれば、王侯貴族にとっての婚儀は外交上の武器になる。家同市の結びつきや同盟関係の基盤になるからだ。本来なら、私みたいにそれが厄介ごとにはならんのだ」


 そこまで説明をされて、エメスはようやく合点が行った。


「あ、そうか。彼らからすると、フェデリコ様に結婚を勧めるのは……」

「そうだ。私から外交手札を一枚取り上げたいんだ」


 フェデリコが女性であること。

 その秘密を共有するエメスにとっては、結婚というのはいずれ解決すべき問題だった。けれど男性であったなら、外から見てそれは外交上の手札に他ならない。


「奴らにとっての私は、単なる庇護下の被後見人ではなく、しっかり手綱を握っておくべき魔物ということだな」


 光栄というべきかもな――そこまでは口にしなかったが、フェデリコの笑みはどこか不敵だった。一方のエメスはどこか納得いかない様子で、なんとも居心地が悪そうに視線を落としている。


「けど勝手じゃないですか。教皇様はフェデリコ様の後見人なんでしょう? だったらどうして、フェデリコ様をわざわざ困らすようなことをするんですか」

「これはそういうものだ」


 エメスに笑い掛け、フェデリコはかつての王国の状況を思い起こす。


「父の死後、王国が混乱したことは解るだろ」

「はい、それはもちろん」


 エメス自身、まさにそういう状態に置かれていたフェデリコと出会ったのだ。

 それくらいの状況は認識している。

 フェデリコの成人は教皇庁の関係と別ちがたく結びついている。その関係は彼女の父ハインリヒの死にまで遡る。

 ハインリヒの死によって、帝国には数多の猛獣が一斉に解き放たれた。ドイツでは帝位を巡って骨肉の争いが始まり、帝国の周縁部では面従腹背していた臣従者らが次々と忠誠の誓いを忘却していく。

 それはここシチリア王国でも例外でなかった。

 最初に動いたは、ハインリヒの重臣だったマルクヴァルトという男だ。

 大臣に任じられていたマルクヴァルトは、シチリア王国の掌握に動き出した。だが王国では、ハインリヒの死によってシチリア諸侯らも息を吹き返していた。彼らは今こそ北の野蛮人ドイツ人どもを一掃せんとし、ハインリヒの残した代官らに次々と襲い掛かった。


「母は一旦は彼らと組んでハインリヒの郎党を追放したが、共通の敵を失った諸侯はたちまち内乱を始めた。その上、北に追い払ったマルクヴァルトたちは軍を立て直して南下を始めた」


 フェデリコはこの渦中に放り込まれたのだ。

 誰もがを傀儡にせんと蠢動する。だがもはや、その身を病魔に侵されたコスタンツァにはそれらと渡り合うだけの生命力が残されていなかった。


「その時母が、最期に同盟者に選んだのは誰だと思う?」


 エメスは問われ、らしくもなく腕を組んで首を傾げる。

 ハインリヒの郎党か、シチリア諸侯か――


「ん……やっぱりシチリア諸侯でしょうか? ドイツ諸侯が戻ってきたとなれば、また協力し合う理由ができますし……」


 ちらりとハインリヒの様子を伺うと、彼女は意地悪そうににやりと笑った。


「どちらでもない」

「そんな、ずるいです!」

「私はと聞いたぞ。とは聞いてない」


 少しむくれたエメスを前に、彼女は話を続けた。


「教皇さ。母が最期に選んだ同盟者は教皇庁だ」

「それで……」


 声を漏らすエメスに、フェデリコは頷いて見せた。


「起死回生の禁じ手だ」


 コスタンツァの選択を、フェデリコはそう評している。

 母が最期に同盟者に選んだのは、その年聖座に就いたばかりの若き教皇イノケンティウスだった。

 だが俊英で知られるとはいえイノケンティウスは若く、教皇就任からも一年も経っておらず、その実力は未知数だった。しかもハインリヒ率いたローマ帝国と教皇庁は長年に渡って争う不倶戴天の仇敵同士だ。

 その子供を教皇に預けようというのは、およそ正気の沙汰ではなかった。

 彼女はフェデリコの後見依頼が教皇庁によって容れられると、その命が燃え尽きるように息を引き取った。


「まあ、母が何を考えていたのか……今となっては本当のところは解らんが、それでも、このが意味するところは自ずと導き出せる」


 それは互いの思惑が毒となって互いを利する、世にも奇妙な毒の混合物だった。

 教皇庁にとってのフェデリコは、ローマ皇帝とシチリア王国両者の血を引く現実の驚異であったに違いなく、彼女の下にドイツとイタリアが合邦することは悪夢以外の何ものでもなかった筈だ。

 そのフェデリコを、教皇は自らの庇護下に招き入れたのである。


「けど、解りません」


 エメスは言った。


「あの人たちが、フェデリコ様がそれらを統一するのを嫌がっているのは知ってます。けどそれなら、どうしてフェデリコ様の後見を承諾したんですか? その……放っておいて困らせた方が良いんじゃないですか?」


 最後は少し言いよどんだ。殺してしまった方がいい筈だと言い掛けて、そのあまりの不吉に、言い換える言葉に迷ったためだった。


「それは違う。まず庇護下に置けば、彼らは私が成人するまでの当面の間、私の政治や地位について口だしする正当性を得られる。それにな、もし後見を断られば、母は父の郎党と結びつく可能性があった。そうしてマルクヴァルトらが勝ってみろ。結局はドイツの強い影響下にあるシチリア国王が現れかねない」

「そうか、それじゃ意味がないんですね」


 もっとも、実際にはそれはありえない事を彼女たちは知らない。

 コスタンツァの心の奥深く秘されたそれは、教皇庁はおろか、フェデリコたちにさえ伺い知ることができないものだった。

 いずれにせよフェデリコはその最もか弱き時期に、宗教的権威を後光として受けながら育てられた。フェデリコを傀儡にする者はいても、彼女を害しようとする者は外部の敵を除けばついに現れなかったことに、それが無関係だったとは考えにくい。

 その点において、フェデリコも一切感謝してない訳ではないのだが、問題はそこからだった。


「最初に聞いたこと。なんとなく答えが見えてきたんじゃないか」


 フェデリコに指摘されて、エメスはこくこくと頷いた。


「つまり、後見は引き受ける、庇護も与えるけれど、フェデリコ様が教皇庁の影響下を脱しては困る……」

「そういうことだ」


 エメスに笑い掛けるフェデリコ。


「奴らな、最初は正攻法で来たんだぞ。エメスには話したことがなかったか?」


 ふるふると首を振るエメスを見て、フェデリコは胸の前で十字を切り、エメスの手を取って見せた。

 顔が近付き、その気配にエメスの鼓動は早まる。


「あの……?」

「つまり、教導さ」


 共に祈る仕草をしてみせてから、フェデリコはするりと手を放した。

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