第九節

「ふざけるな! 誰が結婚などするか!」


 鋭い怒りが迸った。

 教皇の勅使と会談した直後のことだった。勅使を恭しく見送ったフェデリコは、自室に戻るなり声を大にして喚いた。エメスはびっくりして目をしばたかせる。


「ご結婚? いったいどういうことですか!?」

「これを読んでみよ!」


 無造作に突き出された書筒。壮麗なラテン語で綴られた勅書をおっかなびっくり覗き見て、エメスは顔を上げた。

 婚姻は神聖にして神の大いなる計画にかなうところであり、妻を娶ることは王たる者として、ひいては男としての責務であり――エメスに詳細は分からない。その文字がいかに壮麗で繊細に記されているのかも解らない。けれどそこに何が記されているのかは、嫌というほどに解ってしまう。

 結婚。改めて突き付けられるその言葉に、エメスは慌てた。


「だってフェデリコ様は……」

「そうだ! だが奴らはそれを知らん!」


 フェデリコはエメスに渡した手紙を苛立たしげに一瞥すると、ベッドにその身を投げ出した。


「まったく冗談ではない!」


 彼女はむすっと口元を曲げたまま、天井を睨みつける。

 純粋な苛立ちもさることながら、目元に浮かぶ険しさはそればかりでない。現実としてこの問題にどう対処すべきかは頭の痛い問題だった。


「アラゴンのコンスタンサか……」


 フェデリコが呟く言葉に、エメスはぎょっとした。


「そのお名前ってまさか」

「そうだ、相手の名だ。まったく妙な話だろ?」

「みょ、妙と言うか、だってそんな……!」


 エメスの声が上ずる。彼女は見るからに狼狽えていた。

 発音や綴りこそ僅かに違うが、その名はフェデリコの母コスタンツァと同じ名だった。

 もちろんエメスはかの人となりを知らない。けれどそれはフェデリコにとっても同じことだ。フェデリコの知る母とは、周囲の人々が語る断片的な存在だった。

 その名を相手と聞かされて、知らぬからこそ母を意識せざるをえなかった。知っていれば、名が同じでも全く切り分けて考えられたかもしれない。そんな風に思えてしまう。

 それは逆説的な、捻じれた想いかもしれない。

 彼女は自嘲着に口元を歪ませる。


「私のような女に、知らぬ母と名を同じくする女! ……よく練られた皮肉だ。誰ひとり笑えん!」


 もちろんこれが計画的なものの訳もない。

 フェデリコの言う通り、彼らはフェデリコが女性だなどとは露ほどにも思っていない。それになにより、王侯貴族の婚姻というものはしょせん――


「フェデリコ様。お相手はどんな方なんですか」


 エメスは努めて個人的なところへ話題を動かそうとした。

 相手に少しでも面白いところがあれば、フェデリコの勘気も少しは和らぐのではないかと思ったからだった。


「アラゴン王国の王女だそうだ」


 フェデリコは口元を拗ねさせたまま事も無げに言う。

 アラゴンといえば、イベリア半島の北東部に位置する王国だ。

 スペイン半島の支配権を巡り、イスラム教国であるムワッヒド朝と長年に渡って戦いを繰り広げている当事国のひとつであり、近年は教皇イノケンティウスの外交政策をうけ、近隣のキリスト教国との連携を固めつつある。国は小さいが精強な強国だ。

 けれどエメスが聞きたいのは、そういう事では無かった。


「あの、私が聞きたかったのはただ、その方がどういった方なのか……例えば気が合いそうなのかとか、そういうことをお聞きしたくて……」


 遠慮がちに問いを重ねたエメスに、フェデリコはちらりと視線を向け、口先をつんと尖らせ、不機嫌そうに言ってよこす。


「解らんさ」


 取り付く島もないその物言いに、エメスはぎょっとした。


「どんなお人か解らないのに、結婚せよと勧められてるのですか?」

「その通りだ」


 つっけんどんに言い置くフェデリコだが、エメスはどうにも納得しかねるようで、寝転がったままのフェデリコの傍らに椅子を引くと、腰を落ち着けながら首を傾げる。


「おかしいじゃありませんか。それじゃあどうやってお互いを好きになるのですか?」


 その様子は困惑しているようでもあり、憤慨しているようでもある。

 けれどそのあんまりにも呑気な問いには、フェデリコもつい言い方がきつくなる。


「解らない奴だな。婚儀はそういうものだ!」

「だって私聞きました。庭師のペッペさんだって、マリーアさんとは市場で話すだけの間柄だったのを、二年かけて結婚まで辿り着けたって」

「だから、それはだな!」


 上体を起こし、食ってかかるフェデリコ。だがきょとんとしたエメスの表情に、彼女は浅い溜息を吐いて再び寝転がった。


「おまえといると毒気を抜かれるよ」


 人の好さそうな白髪交じりの庭師夫妻と、特に珍しくもないだろうその色恋話に熱心に耳を傾けるエメス。その絵を思うと、なんだか無性にほほえましかった。


「まあ政治になれば、婚儀ひとつとってもその一環だ。好いた相手と手を取りあうとしても、中々にな」


 フェデリコは既に、己が性を終生に渡って――あるいはその死後に至るまで隠し通す覚悟でいた。

 無論、現実には生涯を独身で貫く君主など皆無だ。だから信頼のおける者と偽りの婚儀を結ぶくらいのことは考慮の内に入っていた。だがそのためには自ら相手を選ぶ必要があったし、いずれ折を見て早々に相手を選定せねばならぬとも考えていた。

 ただそれは、今ではないのだ。フェデリコはまだ、今年の終わりに成人を控える十三歳の少女に過ぎないのだから。

 だが次の瞬間、彼女はふと眉を寄せ、思わず舌打った。


「……しまった。それが理由か」

「この婚姻の理由ですか?」

「そうだ。鍵守りども教皇庁め、私の首に鈴をつけるつもりだ」

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