一二〇八年 家族 -Moirai-

第八節

 戦場の喧噪の中、騎士たちは武器を掲げ雄叫びをあげた。


「この機を逃すな! 突入せよ!」


 鬨の声に敵兵が怯み、彼らは打ち破られた門に殺到する。

 その渦中に、エメスの姿があった。

 背は少し伸びたようだったが、その顔にはなおあどけなさが残されている。

 剣を振るうたび、その肩には赤い革紐で結ばれたひと房が揺れる。

 彼女は粗末な革鎧レザーアーマーとぼろ布のようなサーコートを身にまとい、小さな盾と片手剣だけを携えていた。だが見回してみれば、他の騎士らの装備も多くは似たり寄ったりで、ごく数名が鎖帷子メイルアーマーを着込んだりしている程度だ。装備だけで言えば、敵の方がずっと良いものを使っているように思われた。

 それでも、エメスたちの突入を敵兵は阻止できなかった。

 兵士たちの多くは地元から徴収された間に合わせの兵士だったのだろう。彼女たちの鬼気迫る勢いに士気を挫かれ、多くの兵士たちが、戦う味方の影に隠れるようにして一歩だけじりと後ずさる。

 少なからずの勇気を奮い立たせた者、または単にどんくさい者が最前列に残され、

 けれどもそうして最前列で刃に身を晒した兵士もまた、やがては誰かの影へと一歩後ずさる。それが重なって、繰り返されて、彼らの士気は加速度的に崩れつつあった。

 エメスの隣から一人が飛び出し、長身の剣を掲げる。

 けれど彼の胴体に強い衝撃が加えられた。短い悲鳴が上がり、剣を取り落して吹き飛ばされる。

 崩れかかった隊を押し留めるようにして割って現れる敵の騎士。彼はメイスを掲げ、兜の内からくぐもった声を響かせる。


「狼狽えるな! 敵は小勢だ、押し包め!」


 その力強い声に、敵の兵士たちがぐっとその場で踏みとどまる。

 彼は大柄な盾を前面に押し立て、こちらの最前列を一歩、また一歩と押し返す。勢いを取り戻した敵兵が勇気を奮い起こし、次々と門へ舞い戻ってくる。

 このままでは押し返される。味方に焦りが広がり、一人が声を荒げる。


「突っ込むぞ! 続けえ!」


 彼は盾を捨てて剣を両手で握りしめ、力の限り敵へと切り掛かった。

 敵の振るうメイスと剣が衝突し火花が散る。衝撃が互いの武器を大きく弾き飛ばす。力は互角か。だが態勢を取り戻すのは敵の方が数瞬早かった。弾き飛ばされたメイスは次の瞬間には頭上高々と掲げらられ、いまだ剣を振り上げきれない味方の、その脳天目掛け一直線に振り下ろされる。

 鈍い音が風を切り、戦場に金属音が響き渡った。

 何かがひしゃげる音。だがそれは彼の脳天が砕け散る音ではない。そこにひしゃげていたの小さな盾だった。

 エメスだ。割って入っていたエメスが、頭上に盾を掲げていた。

 盾に食い込むメイスを跳ね除けると、腕にひどい鈍痛が走ったが、痛みに構わず、二度、三度と敵に切りかかる。しかし敵の大きな盾はエメスの視界を覆い、彼女が振るう刃がその胴へ達することはない。

 敵の騎士はエメスの攻撃に怯む素振りさえ見せず、メイスを握り込むと一歩踏み出し、今度は横倒しにメイスを振るう。


小童こわっぱァ!」


 再び身構えるエメス。彼女の掲げた盾は、メイスの一撃を受けた瞬間、繋ぎを穿たれてばらばらの木片に砕けた。だが男が勝利を確信したその瞬間、彼の腕にはその然るべき手応えが無かった。

 メイスが勢いのままに走る。軽い。骨を捉えていない。

 砕けた盾の向こうに、エメスの姿があった。彼女はメイスが盾に達する寸でのところで盾を投棄し、小さく飛び退いていた。敵の騎士は、はっとして奥歯を噛み締る。


「しまっ――」

「おぉぉ!」


 気を吐き、踏みしめた足で地を蹴る。

 しなやかに跳躍したエメスが剣を突き出し、敵の腕をかいくぐった。

 その切先が無防備となった脇腹に側面から突き入れられる。男の身体がぐらりと揺れる。彼は辛うじて踏ん張り、振るったメイスを返してエメスへの反撃を試みる。

 エメスは咄嗟に剣を捻じった。敵の体内で刃がぐるりと回転し、臓物を掻き回す。軸足を一歩踏み込み、身体全体を梃子のようにして力任せに引き抜いた。ばっと血が噴き出し、指先がぬめった感触で覆われる。

 その直後、彼女は頭に鈍い衝撃を感じた。

 彼女が感じたのは音。ただ音だけだ。物理的な破壊を感じるより、頭の中に何かの音が響いたのを聞きながら、彼女の身体は頭に引きずられて吹き飛んだ。

 仲間が咄嗟に背後にまわり、土埃と泥を巻き上げながらその身を受け止めた。

 当たりは、浅かった筈だ。

 それでも目の前がぐるぐると回転し、どっと吐き気が押し寄せる。


(敵は……!)


 混濁する意識の中でもなお、彼女は敵の姿を探していた。

 乱戦の中、その敵は臓腑を大きく抉られながらもなお脇腹を抑えつつ武器を振りかぶっていた。だがその動きは鈍り、空を切る得物は力を失っていく。僅かに一歩を後ずさった瞬間、その兜の僅かな隙間に、一本の矢が突き立った。隊列の後方で弓を構えていた仲間が、敵の動きが衰えるのを待ち構えていたのだ。

 唸り声があがった。男がよろめく。

 身体から力が抜けた敵に味方が襲い掛かり、鉤爪の付いた槍が敵の足を払い倒し、血に濡れた刃がその背を刺し貫いた。

 騎士の悲鳴に敵は恐れ戦き、誰かが投降を叫ぶ。

 大勢は決した。



 冷たい感触に、鈍痛の和らぐのを感じた。

 ぱちりと目を開いてみると、小さな子供が一人、エメスの顔を覗き込んでいる。メイスを受けたエメスの額には、水で濡れた手拭いが置かれていた。


「あなたがこれを?」


 子供がびくりと肩を震わせた。その小さな手が向こうでたむろする騎士らを指さし、彼らに命ぜられたことを言外に語る。


「ありがとう」


 エメスは微笑んで、身を起こした。子供は歳のころは一桁後半くらい、十歳にも満たないだろう。泥に汚れたその身体はやせ細り、子供らしい膨らみは無かった。


「待ってて」


 腰の革袋に手をやり、硬く乾いた干し肉を取り出した。「あげる」エメスがそう言うが早いか、子供は礼も言わず、奪い取るようにして立ったままむしゃぶりついた。

 エメスはそれを咎め立てるでもなく、辺りを見回した。

 ここは占領した敵の小城だ。戦いは終わったとはいえ、辺りには死体が転がり、泥水は赤黒く濁っている。この子供がどこから紛れ込んだか、元からここにいたか、いずれにせよあまり長居させるべきではないように感じた。


「それ食べたら、お家に帰ったほうがいいですよ」


 あやすように話掛けるが、子供は小さく首を振る。


「どうして? お家は?」


 再びの問いかけにも、子供は首を振って答えた。エメスはその顔をじっと見て、もうひとつだけと問い掛ける。


「家族は?」


 子供は手を止めた。干し肉を噛む口の動きが緩慢になり、小さな口がぼそりと呟く。


「死んだ」


 病気か。飢えか。戦か。

 それを問うことはしなかった。そのどれもであるようにも思われた。

 今の時代、死はありふれている。その死をことさらに掘り返すことは、現実に対する否認であるとすら感じられる。エメスは黙って立ち上がると、その手を引いて城の館へと歩き始めた。

 館の奥、開け放たれたままの扉から廊下へと声がこだまする。


「武器は全てだ! 手入れされた物は全て回収しろ」


 続けて伝令が慌てて飛び出してきて、エメスの脇をすり抜けていった。


「徴用された兵は村に帰していい。抱え込んでどうするというのだ」


 その声は凛としてよく通り、赤々と燃え盛る太陽を想わせる。エメスはドアから部屋を覗き込み、聞き慣れた声の主を見つけ出す。彼女は執務室の中央、机に腰かけたまま差配を飛ばしていた。


「フェデリコ様」


 エメスの声に、赤々とした髪が流れる炎のように揺らめいた。


「エメス、もういいのか」


 振り返ったフェデリコに笑い掛けられて、エメスは打ち据えられた額のことを思い出し手を添えた。


「大丈夫です。まだ、少し痛みますけど」


 にへらと崩れた笑いに、部屋の空気が緩む。フェデリコを彼女を取り巻く騎士たちもつられて笑みをこぼした。

 彼らは皆年若く、三十代を超す者は見当たらなかった。その彼らと比べてもフェデリコはなお若く、エメスは更にその妹といったところだろうか。彼らと比べても大人と子供に見えるくらいだった。


「敵将を討ったそうだな」

「いえ……トドメは私じゃありません」


 フェデリコがエメスに問うと、騎士らのひとりが割り込む。


「けどおかげで、俺は西瓜みたいにならずに済みましたよ」


 彼が冗談まじりに自分の頭を叩いてみせる。隣の騎士が白皮ばかりじゃないのかとからかうと、だったら弾き返せたかなとおどけて見せた。勝利が彼らの気をよくしていたのだろう。くだらない冗談にも、誰からともなく笑いが巻き起こる。

 ふいに、その笑いの中で隠れる影があった。フェデリコはエメスの背後に首を傾げ、ひょいと机を降りた。片膝をついて腰を屈め、そっと覗き込む。


「そなたは誰だ?」


 微笑みかけるも、子供は警戒心も露にじっと押し黙っている。

 ならばとフェデリコは立ち上がると、自らの胸に手を置き、騎士が貴人にそうするように恭しくこうべを垂れてみせた。


「我が名はフェデリコだ。そなたも名を聞かせてくれるか?」


 ちらりと片目を持ち上げる仕草が、どこかおどけて見える。

 子供はようやく警戒心を解いたのか、エメスの影からちらりと顔をあげ、フェデリコの顔をじっと見つめ返した。


「トーニ」

「そうか、トーニ。実に良い名だ」


 フェデリコは頷くと、背後へと振り返った。


「アルフレード」


 先ほどの西瓜騎士が背を正す。


「おまえにはまだ従士がついてなかったな?」


 その言葉に、彼は慌てて首を振った。


「陛下、俺にはまだ早いっすよ」

「諦めろ。おまえの順番だ」


 にやりとからかう笑みを浮かべ、フェデリコは再び少年に視線を転じた。


「実はな、あの者には従士がおらず困っている。トーニさえ良ければ、従士の仕事を引き受けてくれるか」


 フェデリコは、少年にはもちろん、エメスにさえ何の事情も聞かなかった。エメスがここへ連れて来ることの意味を、彼女たちはとうに了解している。それはアルフレードら、他の側近の騎士らにとっても同じことだった。

 隣ではエメスが屈みこみ、トーニと目線の高さを合わせた。


「難しくありませんよ。あのお兄さんのお手伝いをするだけです」


 エメスに紹介されたアルフレードを、トニーがじっと見上げる。当のアルフレードは暫く困ったように頭を掻いていたが、やがてこちらも観念したように腰を屈め、口元を綻ばせた。


「しゃあねえ、一緒に来るか?」


 トーニはこくんと頷き、エメスの手をするりとすり抜けた。歩み寄るトーニを掴まえ、勢いよく立ち上がるアルフレード。フェデリコはアルフレードの背をばしりと叩き、部屋から追い立てる。


「よしトーニ、今日からはアルフレードを兄と思え。アルフレード、まずは弟に腹いっぱい食わせてやれ!」


 高らかな宣言に、トーニはきょとんと首を傾げた。

 アルフレードはトーニの小さな体を肩のあたりまで抱え上げると、飯だ、飯だと騒ぎながら部屋を出ていった。騒がしかった部屋から幼子おさなごの気配が去り、ふと静まり返る。


「陛下、いつまでこんなことを?」


 その背を見送って、騎士の一人が疑問を口にする。フェデリコは再び机に腰かけて、あっけらかんにも「さてな」とだけ返して目を細めた。


「次はおまえの番かもしれないぞ、サーリフ」

「僕ですか?」


 サーリフと呼ばれた騎士が首を傾げてみせた。彼は先ほど敵騎士の頭を射貫いた騎士だ。

 フェデリコよりは年上だが、彼もまだ少年と呼んで差し支えない歳頃だ。彼も元々は山でひとり暮らしをしていたムスリムの猟師だった。


「余計なこと言っちゃったな」


 困ったように頭を掻くサーリフ。

 彼らと同じように、ここにいる者のおよそ半分は出自の確かな者ではなかった。山賊上がり、修道士崩れ、貧民街のごろつき――歩んできた道は一様ではないが、多くがいわゆる周縁者フオリ・ダッリ・スケーミである点では同じだ。

 それはエメスも無論、あるいはフェデリコ自身でさえもそうかもしれなかった。

 だからだろうか、彼女らにある種の連帯感があったのは。

 事実上の近衛隊と呼べる彼らの組織と忠誠は、フェデリコとの個人的な関係に拠ったものだ。だがそれでも、あるいはだからこそ、未だ王国を掌握できずにいるフェデリコが唯一自由にできる常備軍でもあった。

 エメスはあの日、あの出来事の後すぐにここへ加わり、以来ずっと肩を並べて戦ってきた。自分が誰でもないままでも一緒にいられる、この関係がエメスには居心地がよかった。これがずっと続けば良いと、心のどこか願うほどに。

 その願いの幼さに、エメスはまだ気付いていない。

 ふいに、彼女の想像を断ち切って、騎士が一人駆けこんできた。


「急ぎパレルモへ戻られるよう伝令が到着しました」


 彼は肩を僅かに上下させながら部屋を見回す。皆の姿勢が一斉に注がれ、彼は緊張の面持ちで背を正す。


「教皇猊下の勅使がパレルモに入ったとのことです」


 それが意味するところに、皆に緊張が走る。

 この場においてその存在を知らぬ者がいよう筈もない。

 ローマに主座を置くカトリック教会の総本山、その頂点に君臨する四十代半ばの若き教皇。

 今やこの地上において並ぶもの無き権勢を誇る、名実備えたる地上における神の代理人。

 そして彼女、シチリア国王フェデリコの、後見人たる男。


「イノケンティウス」


 その名を呟き、フェデリコは唇を結んだ。

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