第七節
唇が渇き、視界が混濁する。
ハインリヒが薄らとまぶたを上げると、そこには久しく会っていなかったコスタンツァの顔があった。
蝋燭の灯りに照らされたその顔がハインリヒに微笑みかける。
「コスタンツァか……」
潤いを失い胃酸に爛れた喉が、か細い声を吐き出す。
呼び掛けに、彼女は小さく頷いた。
コスタンツァがハインリヒの居館を訪ねた時、彼の容態は既に手の尽くしようが無くなっていた。激しい血便と発熱、繰り返される腹痛と痙攣にハインリヒは著しく衰弱し、重湯のような粥を啜る力さえ残されていなかった。
その部屋には、ハインリヒの侍医や祐筆も、コスタンツァの侍女もいない。彼の他にはコスタンツァだけだった。ハインリヒは彼女の手元に、予め口述筆記させておいた遺言書が開かれているのを認めた。
「遺言は……見たか……」
死期を悟ったハインリヒにとって、帝国の継承事業は急務であった。
遺言書には、帝国継承者として自らの弟フィリップの名が挙げられ、死後当面の差配について指示が添えられていた。またその続きには、同じ熱病に罹って危篤に陥っているフェデリコが
それが意味するところは明らかだった。
この帝国を維持するためには、あらゆる玉冠を唯一人の頭上に重ねておかねばならない。ハインリヒにとっての実の娘であるフェデリコ――シチリア王国の正統な嫡子たるフリードリヒの存在は、事ここに至っては禍根以外の何者でもなくなっていた。
「あれの処分は……確かにせよ……」
力なく命ずるハインリヒの冷たい瞳は、衰えてなお他者を恐怖させるリントヴルムのそれと違わなかった。
ハインリヒは妻にフェデリコを殺せとは言わなかった。だが生かしておこうというのではない。彼はこの妻に娘を殺せるとは考えなかっただけだ。彼は既に内々にその殺害を命じており、予想される不服従を咎め立てず自ら命を下することで妻に慈悲を掛けてやったに過ぎなかった。
ハインリヒにとってコスタンツァの承服など元より必要としていなかった。あとは、その意を察したコスタンツァの面罵でも悲嘆でも本人が満足するまで聞き流してやればよいと考えた。いずれも、彼には聞き慣れたものだったからだ。
だがコスタンツァの様子は、彼が想像したそのいずれとも違った。
彼女は穏やかなまま丁寧に遺書を折りたたみ、やつれ果てた夫の顔をじっと見つめた。
「陛下は、あの子の瞳が何色かご存じかしら」
唐突な問いに、ハインリヒはその意を解しかねた。瞳の色など、おそらくは青か黒だろう――だがそれが、いったいどうしたというのか。
コスタンツァの様子にどこか不穏なものを感じ取った彼は、その冷たい瞳でもって我が妻を睨み据えた。だがコスタンツァはそれを真正面から受け止めると、答えも待たずに、次々と問いを投げ掛ける。
「髪はとても綺麗な、金を帯びた燃え盛るような赤色をしてますのよ。あの子ったら、三日も見なければ大きくなっているようで、親の私が驚かされっぱなし……歯は何本生えそろったと思われますか。言葉はどれほど喋れるようになったか――」
慈しむように呟くコスタンツァ。しかしその言葉は突如として途切れ、彼女は激しい咳と共に背を丸めた。ひとしきり咳き込んだ彼女は、ぜえぜえと鳴る喉を整えながらゆっくりと顔をあげた。
拭われる口元から、赤い筋が伸びる。
「死期を悟ると、人は聡くなるものですわ」
コスタンツァがにこりと微笑む。
その微笑みが帯びる残酷な気色に、背筋が凍える。
「何を……」
ようやっと声を絞り出すハインリヒ。
何を言いたい。何がしたい。何をするつもりだ。矢継ぎ早に浮かぶ疑問。コスタンツァはそのどれもを察しながら、それらの全てに答えることは無く、ただ二人の至る行末だけを告げる。
「呪われましょう。私たちはあの子から」
それが、夫婦最後の会話となった。
コスタンツァは手にした遺言書をすっと掲げると、にべもなく蝋燭にくべた。ハインリヒの喉から空気が抜け、声にならぬ悲鳴はただの喘ぎとなって漏れ出る。ハインリヒは妻の凶行を阻もうとするが、もはや彼には一本の腕を持ち上げる力さえ残されていなかった。呻き身を捩り、顔を歪ませども応える者はなく、コスタンツァはただ微笑んで彼を見下ろしている。
コスタンツァは燃え広がる火に自らの指が焼けるのも厭わず、最後の一片に至るまで丁寧に舐めつくさせていく。
何をする。愚か者め。我が帝国だ。我がホーエンシュタウフェン家百年の結晶だ。やめろ。やめないか――心の中あらん限り絶叫するハインリヒを尻目に、燃え盛る遺言書は絶望の炎となって立ち昇った。
憤激、憎悪、焦燥、その全てが男の
ハインリヒが揺らめく炎に見たのは、灰燼に帰する自らの野望であり、眼前の女に対する尽きぬ憎悪であり、そしてもはや顔も覚えていない我が娘の伸びやかな四肢と、そこに揺らぐ烈火の如き赤毛の幻影であった。
全てが灰となり、男は微笑む妻に看取られて息絶えた。
だが今やコスタンツァの表情を知る術はなく、夫婦の今際のやり取りを知る者もない。彼女は暫くそのまま黙っていたが、ややするとゆっくりと立ち上がり、さも慌ただしげな声で人を呼んだ。
駆け込む侍医や廷臣たち。だが崩御した主君の亡骸を前にしても、誰一人として悲しむ者はいなかった。
人々の顔に浮かぶのは、恐怖の
“残酷王”と称された荒れ狂う北風は、南の果てに雲散霧消した。
皇帝を失った帝国はたちまち内乱に陥り、面従腹背していた臣従者らは次々と反旗を翻し、コスタンツァもまた、崩れ行く帝国の傍らでその命を終えた。
焔に崩れ落ちた灰が、幼き雛鳥を抱擁する。
灰がかつて何であったかを、雛鳥は知らない。
やがて雛鳥は小さな身体を振るってその灰を落とし、空を見上げた。彼女が覚えている一番古い記憶は、葬儀を終えて見上げた夜空だけ。
視界を埋め尽くす天上の星々。
隔たるもの無き星空は、見渡す限りどこまでも広がっていた。
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