第六節

 まだ冬の寒さが厳しい時期だった。

 父であるローマ皇帝ハインリヒとの初対面は、ある城塞で人目をはばかって行われた。


「我が、ロゲリウス・フレデリクスの壮健なる成長を祈る」


 洗礼式当日、彼はまるで感情の籠らぬ声でそう告げた。

 ロゲリウスルッジェロフレデリクスフェデリコ――それが彼女の洗礼名だった。

 ロゲリウスの名はシチリア王国の始祖ルッジェロ、フレデリクスフェデリコの名、即ちドイツ名フリードリヒは祖父赤髭王バルバロッサに由来する。貴種として申し分ない名ではあった。

 だがそれだけにコスタンツァも、思わず皮肉交じりの笑みを浮かべてしまう。


「あら……随分とご立派な洗礼名ですこと」

「喜べ、アルタヴィッラの血を絶やす気はない」

「……でしょうね」


 コスタンツァの言葉にも、ハインリヒは眉一つ動かさない。

 彼はそれほどの名を、使の子に冠させようが、それが他を圧する正統性を高めるならばまるで構わぬ男だった。


「世話は限られた者に任せよ。一度関わらせた者には決していとまをやらず、除くときは殺せ。数年秘せればそれでよい」

「数年ね……」

「何が言いたい」

「……なら、その後は? これが終わったらどうなさるおつもり?」

「おまえにそれを知る必要があるのか?」


 ハインリヒはそれだけ捨て置くと、妻の問いを無視して席を立った。

 彼は娘に一瞥をくれることすらなく、全く平然と背を向ける。

 その背が、扉の前でぴたりと立ち止まった。コスタンツァは夫の背にさしたる興味も無さそうな視線を投げ掛け、首を傾げる。


「まだ何か?」

「命令だ。次はさせるな」


 全身の血が瞬時に沸騰する。

 思わず席を蹴って立ち上がり、噛み掛からんばかりにその背を睨みつけるコスタンツァ。

 だがその言葉を発したハインリヒは、妻の怒りなどまるで意に介さず、振り返りさえせず部屋を後にする。コスタンツァと娘は、寒々しい部屋にぽつりと残された。



 ハインリヒの企ては正鵠を射ていた。

 感情の伴わぬ対面を済ませたハインリヒは、洗礼式が執り行われるや否や、これを武器として南部諸侯の調略に着手する。

 折よくタンクレディが病に斃れる幸運も重なり、旗色を鮮明としてこなかった諸侯は無論、明確に反ハインリヒ派としての立場を明確にしていた貴族に臣従を誓わせることにも成功し、多くの街は戦わずに門を開いていった。

 タンクレディの幼い後継者である僅か九歳の幼き王グリエルモに、一度傾いた天秤を元に戻す力は無かった。

 数週間後には、南イタリア屈指の大都市ナポリ、次いではシチリア島の玄関口であるメッシーナが開門し、グリエルモ派は遂に降伏を受け容れた。フェデリコの洗礼式からおよそ半年もせぬうちの結末だった。


 ハインリヒは、シチリア王国の首都パレルモへの入城を果たした。

 彼はグリエルモの退位を条件に、この少年にレッチェ伯の位を約束していた。グリエルモはつつがなく退位し、ハインリヒはその日のうちに新たなシチリア王として戴冠された。

 かくしてシチリア王位を巡る内乱は終結した。

 市民らには反感もあったが、そうした彼らも、北からやってきた荒々しいドイツ人騎士らを前にすると、戦乱と破壊が回避されたことに内心胸をなでおろした。


 その数日後のことだ。

 連日の式辞次第がひと段落した矢先、グリエルモらアルタヴィッラ家の一党が滞在する館に、突如として完全武装の騎士らが踏み込んだ。


「何ごとです! 先王グリエルモ様の館と知っての狼藉ですか!」


 乱入する騎士らに相対する、グリエルモの生母シビッラ。

 抗議の声をあげる彼女に対し、騎士らの波を割って姿を現したのはシチリアの新国王となったハインリヒだった。


「貴殿らを謀反のかどで逮捕する」

「何を馬鹿な……降伏に際して、罪は問わぬとしたはずです」

「そうだ。これはに対する叛乱を謀った罪だ」


 唖然とするシビッラに、ハインリヒは淡々と告げた。

 ハインリヒはもはや一切の抗議に耳を貸さず、彼らを捕えるよう部下に命じた。

 なおも抗議するシビッラが、猿ぐつわを噛まされて引きずられていく。館を包囲するハインリヒの騎士らは、護衛に守られて裏口から逃れようとしたグリエルモを発見すると、少年を守る騎士らを一人残らず殺し、グリエルモに手を伸ばした。

 怯えて泣き叫ぶグリエルモ。騎士らはしたたかに殴りつけ、気絶した少年を物でも扱うように連行していった。

 同日のうちに、グリエルモとその一族、および彼らに最後まで付き従っていた諸侯らの全員が叛逆の謀議を理由に捕らえられた。

 たった数日だ。新たな謀議など、そんな事実のある訳が無かった。

 だがハインリヒは容赦なく彼らの処刑に着手し、数日のうちに一族郎党を根絶やしにしてしまった。


 この所業に諸侯らは戦慄した。

 これには内乱の早い段階からハインリヒに臣従していた諸侯らも流石にたじろんだが、今となってはもう、アルタヴィッラ家の血を引くのはコスタンツァが生んだ王子フェデリコただ一人であり、彼らが反旗を翻そうにも担ぐ旗が残されていなかった。

 内乱の後始末を済ませた彼は、平然とパレルモを後にした。



 そうして三年が過ぎた。

 ハインリヒは南のシチリアにあっては叛乱の芽を摘み、北のドイツでは諸侯らにローマ王位の世襲の承認させ、東に向けては東ローマ帝国への遠征をちらつかせて身代金を得るなど、その権勢はもはや並ぶ者がなかった。


(もうそろそろ良いだろう)


 あれ・・を棄てよう――ハインリヒがそれ・・を思い出したのは、シチリア島でアキノ伯リカルドの叛乱を粉砕し、これに呼応したサラセンムスリムの首領を処刑していた時だった。

 男の頭に赫熱かくねつした鉄冠が被される。耳をつんざく悲鳴を全く涼しげな顔で聞き流し、ハインリヒは次なる計画に思いを馳せていた。


(次は東の骨董品どもビュザンツだ)


 巨大都市コンスタンティノープルを中心とする東ローマ帝国。

 その帝国までもを自らの手中におさめる。その征服にあたって、フェデリコが引くアルタヴィッラの血にどれほどの効果があるというのか。彼はそこに何ら情を差し挟みはしなかった。


(シチリア王国の平定も終わった。あれはもう無用の長物だ)


 ならば女であった方が、政略結婚の手駒になるだけ便利とさえ考える。

 彼はそこに、翻弄される者のことを何ら想いはしなかった。


(修道院にでも入れて、数年ほどしたら庶女として戻してやればよい。そうすればあれも納得しよう)


 彼は顎に手をやり、処刑を眺めながら考える。


(もっとも、次は男児を産ませねばならんがな)


 サリカ法より導かれるところ、帝国は女帝を認めない。

 がいる――ハインリヒは自らの、ひいてはホーエンシュタウフェン朝の帝国を盤石なるものにするため、男子の後継者を欲していた。

 フェデリコの件を告げるついでと考え、彼は部下に、遠くスポレート公領にいるコスタンツァを呼び寄せるよう命じる。

 長い長い絶叫が力を失い、処刑されていた男は遂に項垂れる。処刑を見届けたハインリヒがすっくと立ちあがった時、彼はふいに腹の隅に刺すような痛みを感じたが、少し顔をしかめただけでそれ以上は気にも留めなかった。

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