第十二節

 城の中庭に、木剣の乾いた音が響く。

 エメスは片手で木剣を振るい、トーニの手からはたき落とす。勢い余ったトーニが尻もちをつき、慌てて後ずさる。エメスが構えを解かずににアルフレードをちらりと見やると、彼はトーニに駆け寄ってくるところだった。


「腰を浮かすな! 腰が浮けば腕が揺れる。得物を支えきれなくなるぞ!」


 トーニの身を起こし、その腰をばしりと叩く。トーニはぶんぶんと首を縦に振って頷いているが、既に肩で息をしていた。


「少し休憩を入れませんか」


 アルフレードがもう一度と言う前に、エメスが提案する。

 トーニは少しほっとした様子で息を吐いた。アルフレードはまだやれるんじゃないかとトーニを見下ろすが、そこでようやくトーニがへばっていることに気付いたらしかった。

 二人が連れ立って脇に寄っていくのを見送って、エメスも石段の手桶へと近寄った。

 ぬるい水をぐっと飲み干し、口元を拭う。アルフレードはトーニの顔から土を拭ってやりながら、まだあれこれ指南を続けている。その様子を眺めながら、エメスもまた手拭いをざぶざぶとゆすぎ、首や顔を拭った。


「順調かい」


 声に顔をあげると、サーリフがエメスを見下ろしていた。

 褐色の肌が影になって、よりその色を深めている。


「がんばってますよ」


 エメスは頷いて笑顔を見せたが、サーリフは背をかがめて声を潜めた。


「あの子は筋が悪いよ」

「そうですか?」

「素直すぎる。負けん気が無いんだね」


 彼の評を聞いて、エメスは何となく腑に落ちる気がした。思い返してみれば、トーニはあんまり悔しそうな顔を見せたことがない。それだと戦いには向かないかもしれない。

 サーリフはその辺りを勘案して筋が悪いと言ったのだろう。かくいう自分だって、順調かと問われて「がんばってる」と返したのは、心のどこかでトーニに上達を感じていないからかもしれなかった。

 そのトーニは今も、手本に素振りしてみせるアルフレードを熱心に見上げている。


「アルフレードさんは、期待してるみたいですけど」

「そりゃあ彼は自分が腕っぷしが立つから。弟ができたら期待するよ」


 身内びいき、ともちょっと違う。ただ何となく、同じようにそうあってほしいと願ってしまうのだろうか。


「数学でも習わせた方がいいかもね。その方が得意そうだ」


 そんな話をしていると、笑い声が上がった。

 気付くと、アルフレードが振り上げるようにしてトーニを頭上へ放っている。

 ぽおんと放り投げられたトーニの身体を掴んだアルフレードが、そのまま振り回す。トーニがもう一度とねだる。歳の離れた二人が無邪気に戯れる姿を見て、エメスは彼らが本当の兄弟のようにも思えた。

 ひょいと首を傾げて、サーリフを見上げる。


「なんだい」


 視線に気付いた彼が怪訝そうな顔をする。サーリフは兄でいいだろう。エメスは思った。アルフレードもだ。トーニは弟、もう少し仲良くなれたら。他の騎士たちもだいたいみんな年上だが、最近拾われたばかりの何人かに対しては自分が姉で良い気もした。

 それから後は、フェデリコの身の回りをお世話する人たち。


「エメス、手伝ってくれますかあ」


 皆の顔を思い出そうとしていたところで、ちょうどその声がして振り返った。

 侍女のビーチェが重そうに水桶を運んでいる。

 エメスが手を振り、駆け寄っていく。サーリフが運ぼうかと声を掛けるのを、ビーチェはフェデリコのだからと断った。

 エメスはなみなみと水の張られた桶を掴み、腕にぐっと力を込めると、小さな体に見合わぬ大人顔負けの腕力でそれを持ち上げてしまった。


「エメスが力持ちで助かるわ」

「フェデリコ様の部屋でいいんですよね」

「ええ、行きましょ」


 着替えなどを抱えたビーチェが廊下の奥を顎でしゃくった。

 エメスは、彼女の母親も侍女だったが亡くなったと聞いていた。フェデリコが三歳のころと言うから、父のハインリヒが亡くなった頃だろうか。老騎士からフェデリコを庇い、相打ちになったのだという。

 その彼女もフェデリコより三歳しか歳が違わないのだから、侍女だった母の記憶はやはり曖昧らしかった。誰もが、他と代えがたい何かを経験しながら生きてきた。それでもこうして、同じ空の下にいる。エメスはこの関係が心地よかった。自らが誰なのかを知らない自分でも、その片隅に居場所があると感じられた。

 部屋の前まできて、ビーチェが大きく溜息をつく。


「助かったわ。さすがにひとりじゃ重くて」

「後はやりますよ。ビーチェさん、まだ忙しいでしょう?」

「いいの? ありがとう、助かるわ!」


 ビーチェは着替えの類をエメスへ受け渡すと、唇を鳴らして投げ掛けながら、慌ただしく駆け去っていった。



 ドアを叩き、軽く声を掛けるエメス。

 返事は無かったが、彼女はそっとドアを開けた。フェデリコからはそうして構わない、と言われていた。


「フェデリコ様、いらっしゃいますよね」


 エメスがドアを開くと、フェデリコは座椅子の上に寝転がっていた。エメスが何度か名前を呼ぶと、その眼がぱちりと開く。眠ってはいたが、深入りはしていなかったようだ。


「悪いな、昼寝をしていた。どうかしたか」

「お身体を洗いに……それとも、また後にしますか」

「いや、陽のあるうちに済ませてしまおう」


 エメスが指さした水桶とたらいを見やって、フェデリコは上体を起こして服を脱ぎ始めた。シャツから頭を抜き左右に振るうと、赤毛からばさばさと土埃が舞った。胸元に撒かれた布の戒めを解くと、それはするすると床に流れ落ちていく。


「まったく面倒なことだ」


 少し膨らみ始めた胸元を見下ろし、今さらにぼやいてみせる。

 彼女はいつでもゆったりとした服を着、決して人前で上体を晒さなかった。だから青天の下で井戸からくみ上げた冷たい水を浴びたりもできず、こうして一人隠れてその身を拭わなければならなかった。

 エメスは手拭いを絞ると、椅子に腰かけたフェデリコの背中を軽く濡らし、手拭いで力任せにこすり始めた。

 石鹸から日にちの経った獣脂の強烈な臭いが漂い、その背中に泡が立ち始める。フェデリコはその臭いに顔をしかめつつ、背後のエメスをちらりと見やった。


「知ってるか、北の方にはもっとよい香りのするものがあるのだ」

「香りって、石鹸がですか?」

「そうだ。オリーブの柔らかな香りに、草薬を混ぜ込んだ芳しい香りがするそうだ」


 フェデリコの話にエメスは、どろどろに汚れた泡に埋もれた手のひらを、まさかとの思いで見つめる。嗅ぎ慣れた石鹸から良い香りが経つなんてまるで想像ができなくて、彼女はからかってますねと笑った。


「嘘なものか。そのうちいつかおまえにも買ってやる」

「いりませんよ。私は水浴びで十分です」


 エメスはフェデリコの背を水で流しながら、おかしそうに笑った。

 そのまま首筋を洗い、腕を一本ずつこすり始める。その間も二人は他愛ない雑談で戯れていた。けれどフェデリコの声からは普段の快活さが感じられず、エメスはついに我慢できず切り出した。


「婚姻の件は、どうされるんですか?」


 フェデリコの身体がぴくりと強張る。

 彼女はあれから、丁重に断る返事を出していた。

 けれどそれは文字通りの時間稼ぎに過ぎず、より強く結婚を勧める手紙を携えた使者がパレルモを訪れるまで、そう長くは掛からなかった。

 結局のところ、断り切れるものではないのだろうことはフェデリコも解っている。それでもなおフェデリコは返事を先延ばしにしようとし、使者をもてなしながらも、どこか言葉少なげだった。


「教皇庁が先方と交渉したらしい。詳細な条件を詰めてよこしてきた」


 答えるフェデリコに覇気がない。

 エメスはフェデリコの前にまわり、その右腕をごしごしと洗いながら、ちらりと横目に視線を寄せた。


「条件……持参金のことですか?」

「そうだ。女官に詩人、学者、それから騎士五百騎」

「五百騎!?」


 エメスは思わず手を止めた。今度は横目で見るどころか、頭を振るってフェデリコの顔を見上げた。フェデリコはエメスを一瞥すると、ただ憮然と壁へと視線を背けた。

 エメスはその横顔をじっと見つめ、問い掛ける。


「婚姻、なさるんですか」


 フェデリコは少しの間、答えなかった。

 けれどもその腕から汗と共に泡が流れ落ちた時、ぼそりと口を開く。


「今の我らには、是が非でも欲しい。だがその為に婚姻を結ぼうなどと、あまりにも賎しいではないか」


 その横顔に、ざわめくものを感じた。


「やはり、お嫌、ですよね……」

「皆まで言うな。前も言ったじゃないか。私の身分で望まれた婚約など稀だ。この儀にも最初からそのようなものは無かった。両親も、おそらくそうだったろうな」


 フェデリコにとって朧げな輪郭しかもたぬ、エメスにとっては会ったことさえないその関係を挙げられて、エメスは答える術を持たなかった。フェデリコは身じろぎひとつせず、知識でしか知らない両親の関係を想った。


「愛があったかどうかも、定かではない。己が娘を道具にすることすら厭わなかった父だ。その父が、母にだけ愛情を寄せていたとも思えん。私たちの婚姻とはそういうものだ……駆け引きに過ぎん」


 フェデリコはただ淡々と言葉を紡ぐ。

 崩れた土手から水が溢れ出すように淡々と絶え間なく、やがて、下流へ勢いを増していくように。


「もたらされた手紙には、持参金は事細かに記されていた。だが彼女が何を好み、何を望むかなどまるで記されていない。詩を愛するのか。学問を好むのか、あるいは武芸か。一切何もだ。アラゴンの家名と持参金より他に、彼女は存在せん」


 その瞳に、酷薄な気色が滲む。

 ぞっとするほど酷薄な光に満たされている。

 エメスは好きではなかった。それがどこから湧き上がるものなのかは解らない。ただ、どこか嫌だったのだ。

 思わずその細い手首を引く。握る手に力が籠められる。


「フェデリコ様。やめてください、そのような言い方――」

「私を見ろエメス!」


 手を振り払って、フェデリコは立ち上がった。

 微かな泡が振り払われ、少女の姿がそこに屹立する。

 窓から差し込む光がその背に掛かり、影を帯びた表情を一瞬見失う。


「私がこの身のままに生を受けていれば、今頃私は文字通りの傀儡となり、望みもしない相手と契らされていた筈だ!」


 ローマ皇帝の血、シチリア国王の血。その嫡出子たる娘。

 それは今この世にあって最も価値ある血筋。おそらくはそれが、それだけ・・・・がフェデリコの存在を規定した。


「私が名は年代記にそのように記されたろう! 同じことをするのか? 私はその誰かを、世と同じように駆け引きの道具として扱うのか!? あるいは私が、その血統を継ぐただの胎たることを――!」

「やめてください!」


 水桶を蹴倒し、正面から彼女に抱き着いた。

 その表情を見ずに済むように、互いの鼓動を感じられるように、ただひたすらに腕いっぱいに力を込めた。

 ある一点において二人は同じだ。互いに、家族というものを知らずに育った。

 けれど自らが何者かさえ知らないエメスと違って、フェデリコは己を、己が与えられたものの価値を知っていた。ともすればそれが、己の存在をただそれだけの価値に塗り潰すことを解していた。

 エメスはそうではなかった。フェデリコの一党に家族のように受け入れられたことがただ嬉しかった。

 けれどそうあれたのは、エメスが現れるよりずっと前から、フェデリコがその重く伸し掛かる衣を脱がず、地上に生を受けると共に失ってしまった自らのための家を――自らと同じ誰かのための家を築いてきたからだ。

 そうしてくれたことをエメスは感謝している。

 けれどそれをうまく伝えられない。

 伝えられぬうちにフェデリコはエメスの肩を掴んでを引きはがし、大きく揺さぶる。エメスはそこに激しく揺らめくフェデリコの瞳を見た。


「彼女はと同じだ!」


 フェデリコの抵抗は、顔も知らぬアラゴンの王女にあるいは自らのもう一つの運命を見ているからかもしれなかった。

 フェデリコにとって、この婚姻を承諾することは、これまでの自分がしてきたことの否定だった。エメスが感じたところの家を、自ら打ち壊すことに他ならなかった。

 エメスはぎゅっと目を閉じる。

 今自分がここにいるのは、ただ運命が少しばかり交差しただけだ。

 あの時逆方向に道を歩いていただけで、自分は彼女と出会うこともなく、今も山野をさ迷っていたかもしれない。それくらい紙一重のことだった。ならばその始まりは、どれほど不確かなものなのだろう。

 自ら選ぶほどに確かな出会いなど無いのだとすれば、あるいは。

 エメスは僅かばかりの逡巡を経て意を決し、明るい表情と共にゆっくりと身体を放す。


「フェデリコ様、私――」


 静かに告げる。

 二人の間で、言葉は陽に溶けていった。

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