第十三節

 潮風に揺れる船内に、木材の音だけが軋んでいる。

 一人の女性が小さな窓から海を眺めていた。腰まで伸びた艶やかな黒髪と目元のほくろが人目を惹く、余裕を感じさせる物腰の女性だった。

 波音に交じって足音が近付いてくる。彼女が首をもたげると、ちょうど部屋に立ち入った侍女が恭しく首を垂れた。


「パレルモの街が見えて参りました」

「そう……早く脚を伸ばしたいわ。宿の手配は済んでるのかしら」


 侍女の報告に、朗らかで落ち着いた問いが返される。


「はい、それはもちろんでございます」

「それはよかったわ。船旅はだめね、身体中がこわばってしまって」


 くすくすと笑う彼女の言葉に何を感じたのか、侍女は自ら主の心を代弁しようと歩み寄る。


「陛下も冷とうございます。新たな騎士を仕立てて下さらないだなんて」

「……いいのよ。アラゴンにだって無駄な戦力は無いのだから」


 ちらりと侍女を見やって、彼女は少し困ったように微笑んだ。

 アラゴンのコンスタンサコスタンツァ――それが彼女の名だった。

 彼女はゆったりとした姿勢を崩すことなく、侍女を叱るでもなくやんわりと受け流したが、侍女は残念そうに溜息をついた。


「持参金を失っての輿入れでは、先方から軽んじられます」


 持参金――教皇庁の仲介でシチリア王国と交わした取り決めにより、彼女らは五百騎の騎士を参陣させることとなっていた。

 アラゴンの王城を出た時、彼女たちの隊列は壮麗だった。

 多くの騎士に守られて進む輿入れの隊列は、世の称賛と衆目を集めたものだった。ところが港町で船を待っていた時、この軍勢は疫病に襲われ、シチリアの地を踏む前に殆ど全滅してしまった。

 生き残ったのは僅かに二十数名というありさまで、コンスタンサが疫病を避けえたのも単なる幸運に過ぎなかった。

 修道女か何かを思わせる慈しみの表情を浮かべ、コンスタンサは首を振る。


「まずは自らの無事を感謝し、亡くなった者らの魂の安らかなるを祈りましょう」


 そうした姿勢が、侍女にはかえって痛ましく感じられたのだろうか。侍女はなおも食い下がる。


「しかし、それではあまりにも惨めではございませんか。以前の輿入れの時は、それはもうきらびやかな隊列に送られましたのに……」


 侍女はの輿入れを思い、いたたまれない様子で首を振る。

 かつてコンスタンサは、ハンガリー王イムレの妻だった。

 彼女は二十歳を前にして結婚し、嫡子ラースローも生んだ。世継ぎの出産は多くの人々から祝福されたのだ。

 だがイムレは五年ほどで病に没し、幼くして後を継いだラースローは、王位を狙う者からの激しい圧力にさらされた。

 コンスタンサは我が子の手を引いてハンガリー王国を逃れたが、そのラースローも程なくして世を去ってしまった。

 後はお決まりの結末だった。

 夫を亡くし子を失い、嫁ぎ先の国も追われたコンスタンサは実家であるアラゴン王国に送り返されるより他なかった。

 その為にコンスタンサは軽んじられている――そう考える侍女は語気を強めて続ける。

 まるで、その怒りを共有することが忠誠の証であると言わんばかりに。


「このままでは、アラゴンの王女としての面目がかないません」


 コンスタンサは僅かに首を振り、口元を和らげながらも儚げに目を伏せてみせた。


「誰が相手でも同じことですよ」


 しかしと食い下がる侍女を制し、彼女は再び窓の外へと視線を返した。

 怒りを示さぬ我が主の柔和さに遂に諦めたのか、侍女は入室時と同じように首を垂れると、部屋を辞して戸を閉じた。

 しんと部屋が静まり返った時、コンスタンサの表情からすっと笑みが消え去った。その瞳は渇きを帯び、どこか物憂げな眼差しが現れる。

 そこに侍女が共有しようとした怒りや哀しみはない。

 心ここにあらずというのとは違う。それはただ静かで、他人が身体を借りているのかと思わせるほどに虚ろだった。

 再び船の軋む音だけが響く。方角が違うのか、窓からパレルモの街は見えず、コンスタンサは黙ったまま、ぼんやりと水面を眺めている。


(十四歳……)


 新たな夫の歳を思いやる。

 コンスタンサはその二倍以上の時間を生きてきた。三十歳。その差は十六年。

 この婚姻が単なる政略結婚であることは誰の目にも明らかだった。にも拘わらず、自分はその持参金たる精鋭五百騎を失ったのだ。

 この婚姻はもはや、教皇と相手の期待するところに応えられないものとなっている。

 残された務めは、子を為すだけだろう――かつての時と同じように。

 今も生きていれば、十歳だった。


(……四歳しか違わない)


 ふと思い至って、彼女は眉を寄せた。

 相手はそういう年齢の子供だ。

 そういう相手の子を孕む。

 けれども。


(そういうものよ)


 心の中に呟く。

 知らずのうちに薄らと唇が微笑む。

 その言葉は諦観を越え、いっそ朗らかでさえあった。




 上陸した彼女たちを出迎えたのは、雑多な兵の隊列だった。

 隊長の号令でぎくしゃくと手足をばたつかせ、パレルモの埠頭にだらりと並ぶ兵士達。その隣では文官たちが困惑の様子で互いを横目で伺い、誰かが進み出てくる気配も一向に見られない。

 焦れた侍女がかっと肩を怒らせ、彼らを厳しく問い詰める。


「出迎えはどうしたのです!」

「いえ、それが……あの、我々がお連れすべきかとは、存じはしますが……」


 文官たちは曖昧に口をもごもごさせるばかりで要領を得ず、侍女はますます怒りに肩を震わせた。


「何たる無礼か!」

「なにとぞご容赦を! お怒りはごもっともの事なれば!」


 慌ててなだめにかかる彼らと怒り狂う侍女を眺めて、コンスタンサは誰に向けるでもなく笑顔を浮かべた。


「それ以上いけないわ。何か手違いがあったのでしょう」


 口角は上げ過ぎず、眉は少し下げる。小首を傾げて遠慮がちに、相手を慮る柔らかな声色――頭のどこか、それらを指折り数える自分がいる。


「そうね……もしよろしければ、皆様で案内して頂けるかしら」


 並ぶ出迎えらへと首を傾げると、彼らはほっとした様子だった。負いたくもない重圧から解放された人間の、冷や汗を胸の内に貯め込んだ表情だ。


(大方、さしたる差配も無しに私たちの出迎えを丸投げされた下級官吏といったところかしら……つまりはそういう事、なのでしょうね)


 コンスタンサは彼らを見渡し、自らの置かれた状況もまた冷静に観察していた。


(ね、そう言ったじゃない。こんなものなのよ)


 心の中、自らに囁きかける。

 騎士らの壊滅は先んじて早船で伝えてあった。

 それらを失った自らへの扱いなど、もとより期待していない。今の彼女が期待することといえば、船旅に疲れた身体を柔らかなベッドで休めることくらいだった。


 ふいに、轟きが聞こえた。馬の蹄鉄が石畳を踏み鳴らす、遠雷のような轟きだ。

 街の大通りを曲がって、こちらへ騎兵の一団が迫って来た。悪疫の惨禍を生き残った騎士らが身を乗り出し、コンスタンサを庇うように立ちはだかる。

 庇う騎士らの間から目をこらすと、馬群の姿がはっきりと浮かび上がってきた。

 見ればその騎兵らは装備も馬体もみすぼらしくまちまちで、人種や出自の違いも入り乱れており、その彩りはある種のモザイク模様を思わせた。

 コンスタンサたちの前に達した馬群がその脚を止め、口々にいななく。

 彼らはみな泥と土にまみれていた。剥き出しの腕や頬にはあちこち生傷をつけ、今しがたまで戦に臨んでいたかのようなその姿は、とても輿入れする妃を出迎えるような出で立ちではなかった。

 けれどその中にあって、先頭の一騎だけは、泥土にまみれながらもなお隠されえぬ峻烈な気高さをありありと放っていた。


(女の子……?)


 ふいにそう感じた。

 じっと観察するコンスタンサの前で、それはひらりと馬から舞い降りるとぐるりと一行を見回し、一点に眼を留める。

 深い海を湛えながらも、空のように透き通る蒼。

 己を隠し秘かに他を観察するコンスタンサの黒い瞳が、自らを見つめる蒼い瞳と交わった。

 一瞬の邂逅。その直後には、泥まみれの顔にぱっと笑みが咲き、それはずかずかと人をかき分け、コンスタンサへ近付いてくる。

 慌てて行く手を遮って、侍女が声を荒げる。


「何者です、名乗りなさい!」


 侍女の剣幕にきょとんとしたそれは、けれど何ら怯むこともなく、自然な所作で自らの胸に手をやった。


「ロゲリウス・フレデリクスだ。確かに、名乗りがまだだったな」

「なん……!?」


 侍女も護衛らも、ぎょっとして思わずのけ反る中、コンスタンサだけが表情を崩さずにいる。


(女ではなかった)


 コンスタンサはこれから夫となる王の瞳を、じっと見つめた。フェデリコはそれを合図とばかり侍女の隣を通り過ぎ、大股に歩み寄ると、コンスタンサの前でぴたりと足を止めた。


「貴殿がコンスタンサ殿か?」

「……はい」


 コンスタンサは小さく頷いた。


(これがフェデリコか……)


 土と泥にまみれた、シチリアの王。一見少女とも見間違う線の細い少年を前にして、コンスタンサは流麗なラテン語を伴いながら、洗練された辞儀を表した。


「お会いできて嬉しゅうございます、陛下」


 彼女は軽く目を伏せたまま、言葉を続ける。


「わたくしは前アラゴン国王アルフォンソの娘、コンスタンサ・ディ――」 


 長く連ねられた正式な名乗りがするすると流れ出る。

 もはや意識せずとも勝手に口が声を紡ぐほどに言い慣れた言葉。

 だがその名乗りが正式な家名に差し掛かった時、彼女は鼻腔に汗の匂いを感じた。

 コンスタンサの身体を、何かが泥土と共に包み込んでいる。服越しにも伝わる激しい熱気が立ち昇り、名乗りは空に立ち昇って消えていく。

 目をぱちくりとさせ、ぽかんと口を開くコンスタンサ。

 その首筋に顔を埋めて、フェデリコが告げた。


「……よく無事で参られた」


 優しく慈しむような声。

 何を言っているのだろう――コンスタンサが最初に感じたのはそれだった。


「あの……」


 辛うじて口にした声は言葉にならず、対するフェデリコはその肩をより一層強く抱きしめる。


「疫病があったと聞いた。随行の者らも大勢死んだと」


 申し訳ありません。そう言おうとした。

 お約束の騎士はその一割もお連れすることができず――コンスタンサの意識は述べるべき言葉を脳裏に書き連ねる。けれど彼女の口は、決してその通りに動いてはくれなかった。彼女は黙ったまま、全身に伝わる暖かな熱をただ感じていた。

 驚いた侍女が慌てふためいてフェデリコに取りすがる。


「ご無礼な! お輿入れ前ですよ!」

「ああ、そうであったな!」


 フェデリコがぱっと離れて、コンスタンサもまたようやく正気を取り戻した。

 そうして改めて驚きの表情で見つめてみせると、フェデリコは人懐っこさ交じりに歯を見せる。


「すまない、泥で汚してしまったな。狩りでつい深追いをした。許されよ」

「いえ……」

「遠路はるばる長旅でお疲れであろう。まずはゆっくりと休んでほしい。何かあれば遠慮なく申してくれ。互いに婚前の身、直接は伺えないが、必ず誰かやる」


 それだけ言うが早いか、フェデリコは馬に駆け戻り、その身も軽やかに鞍上へ舞い上がった。


「次は婚儀の場で!」


 手を小さく流して振り、フェデリコは笑みを残して馬首を返す。

 赤い髪が潮風の中に翻ると、陽に照らされて輝いた。

 号令一下、フェデリコを先頭に騎兵隊は再び蹄鉄を踏み鳴らして城の方角へと去っていく。コンスタンサを除く誰も彼も、唖然としてそこに戸惑うしかない。

 嵐が通り過ぎ、埠頭に静けさが戻ってくる。

 コンスタンサは身じろぎひとつせず静かに佇んでいる。その瞳が何を映すのか、窺い知れる者はいない。

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